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寺社建築と文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源、歴史、文化財の紹介と文化財の問題点を探訪しています。 常時更新中です!
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8-8-3 愛媛県の文化財

8-8-3 愛媛県文化財


 

 

 8-8-  愛媛県の建造物文化財の探訪

 

 

  愛媛県文化財HP

 

 

愛媛

文化財名称

指定時期

住所

特長

建立年代

1

 

伊佐爾波神社

昭和31.6.28

松山市桜谷町

八幡造 桁行9間、梁間2間

江戸初期

2

 

大山祇神社本殿(宝殿)

明治37.8.29

今治市大三島町宮浦

三間流造 檜皮葺

1427

 

 

     拝殿

昭和28.3.31

 

桁行7間梁間4間、切妻造

1427

 

 

   宝篋印塔 東塔

 

 

花崗岩、高さ 302Cm

1318

 

 

   宝篋印塔 中央塔

 

 

花崗岩、高さ 429Cm

鎌倉後期

 

 

   宝篋印塔 西塔

 

 

花崗岩、高さ 332Cm

鎌倉後期

3

 

三島神社本殿

平成4.8.10

東温市則之内

三間社流造、銅板葺

室町前期

4

国宝

石手寺二王門

昭和27.11.22

松山市石手2丁目

三間一戸楼門

1318

 

 

   本堂

明治40.5.27

 

桁行5間、梁間5間 和様

鎌倉末期

 

 

   三重塔

明治40.5.27

 

三間三重 高さ24.1m

鎌倉

 

 

   訶梨帝母天堂

昭和28.3.31

 

一間社流見世棚造

鎌倉

 

 

   護摩堂

昭和28.3.31

 

桁行3間梁間3間、宝形造

室町前期

 

 

   鐘楼

明治40.5.27

 

桁行3間梁間2間、入母屋

1333

5

国宝

大宝寺本堂

昭和28.3.31

松山市南江戸5

3間4間、寄棟造

鎌倉初期

6

国宝

太山寺本堂

昭和31.6.28

松山市太山寺町

7間9間、入母屋造

1305

 

 

   二王門

明治37.8.29

 

三間一戸 入母屋造

鎌倉

7

 

浄土寺本堂

昭和28.3.31

 松山市鷹子町 

桁行5間梁間5間、寄棟造

室町

8

 

如法寺仏殿

昭和37.3.23

大洲市柚木

桁行5間梁間4間、入母屋造

1670

9

 

興隆寺本堂

明治40.5.27

西条市丹原町古田

桁行5間梁間6間 寄棟造

1375

 

 

   三重塔

平成16.4.16

 

三間四方

1836

 

 

   宝篋印塔

 

 

花崗岩、高さ 292Cm

鎌倉末期

10

 

定光寺観音堂

昭和52.6.27

上島町土生

桁行3間梁間2 宝形造

室町末期

11

 

祥雲寺観音堂

昭和16.11.6

上島町岩城

桁行3間梁間3 入母屋造

1431

12

 

医王寺本堂内厨子

昭和41.6.11

東温市北方

一間厨子

1534

13

 

善光寺薬師堂

昭和52.6.27

鬼北町小松

桁行3間梁間3間 宝形造

1483

14

 

岩屋寺大師堂

平成19.6.18

久万高原町七鳥

宝形造 近代建築

1920

15

 

亀井八幡神社宝篋印塔

昭和29.03.20

上島村魚島一番耕地

花崗岩、高さ 227Cm

鎌倉後期

16

 

乗禅寺石塔群

昭和36.03.23

今治市延喜甲600

石塔が十一基 重文指定

鎌倉中期

17

 

覚庵 五輪塔 二基

昭和29.03.20

今治市野間甲761

花崗岩、高さ 217Cm

鎌倉末期

18

 

馬場五輪塔

昭和29.03.20

今治市野間甲279

花崗岩、高さ 261Cm

1326

19

 

野間神社宝篋印塔

昭和29.03.20

今治市神宮甲699

花崗岩、高さ 211Cm

1322

20

 

善福寺の宝篋印塔

昭和29.03.20

今治市宮窪町友浦

花崗岩、高さ 212Cm

1326

21

 

宝篋印塔

昭和29.03.20

今治市野間甲290番地

 

1325

22

 

長円寺跡宝篋印塔

昭和29.03.20

今治市野間延喜甲600

花崗岩、高さ 360Cm

1325

 

 

 

 

 

 

 

23

重伝

内子町八日市護国

昭和57.4.17

内子町大字内子

3.5ha

1800頃

24

重伝

西予市宇和町卯之町

平成21.12.8

西予市宇和町卯之町

4.9ha 城下町

江戸昭和

 







1、伊佐爾波神社

 

寺社名

 伊佐爾波神社 いさにわ

所在地

松山市桜谷町173

周辺環境

松山市市街地の西部、道後温泉近くの道後山山腹に鎮座する。

歴史由緒

 伊佐爾波神社は延喜式内社に属し、中世には河野一族の湯月城鎮守として、また藩政時代には、八社八幡の一番社として崇敬が厚かった。現在の社殿は、松平松山藩3代藩主定長が江戸城における流鏑馬やぶさめの成功を祈願し、その成就を感謝して建て替えたもので、寛文4年(1664年)から3年の歳月を費やして竣工した。

       仲哀天皇の時 創祀

       推古天皇4年(595)聖徳太子伊予ノ湯に浴

       延久5年(1073)伊予守源頼義社殿造営

       建武年間(1334-38)現在の社地に奉遷

       明応年中(1492-1501)河野家が社殿造営

       慶長8年(1603)加藤嘉明社殿修理

       寛文7年(1667)5月現在の社殿を建造

       明治4年現社名に改称

 

創建

社伝によると仲哀天皇、神功皇后が道後温泉に来浴の行在所跡に建てられた神社

祭神

譽田別尊 足仲彦尊 氣長足姫尊 三柱姫大神

社格

式内社(小) 旧県社

 

 
   8-8 伊佐爾波神社本殿-1 20150307  8-8 伊佐爾波神社本殿-2 20150307   
                            本殿

建造物

 本殿

建立

寛文7 : 1667 

指定年

昭和31.06.28

様式形式

全国に3例しかない八幡造

宇佐・石清水

再建

 

確証附

なし

平面形状

内陣 桁行九間梁間二間、切妻造

外陣 桁行九間梁間二間、流造

屋根

檜皮葺

屋根頂

箱棟鬼板

立面外観

向拝三所

 

外周縁

 

 

後殿・前殿の2棟の社殿が前後につながった形をとる。後殿は祭神の夜の座所、前殿は昼の座所とされる。三間社を横に3つ繋げた形となる。

 軒はニ軒、屋根は桧皮葺、棟は箱棟鬼板である。内外にわたり木部は虹梁・木鼻・斗ときょう・蟇股に至るまで丹塗り・胡粉彩色が施され、正面と向拝の柱には金箔を貼るなど、桃山時代の華麗な作風をよく伝えている。

 透塀すかしべいは、申殿もうしどのに始まって本殿を取囲み、折れ曲がり桁行33間、屋根は本瓦葺である。木部は丹に塗り、壁上部に青塗り菱格子がはめ込まれている

附指定

・透塀 :申殿に始まって本殿を取囲み、折れ曲がり桁行33間、屋根は本瓦葺である。

    木部は丹に塗り、壁上部に青塗り菱格子

・末社高良玉垂社本殿 :一間社流見世棚造り、桧皮葺 出組 板蟇股

・末社常盤社新田霊社本殿 :一間社流見世棚造り、桧皮葺

・石燈籠 :総高240cm 笠・火袋・中台・竿・基礎は四角形、笠の四隅には蕨手がある。

    「寛文七丁未年五月十五日」の刻銘

・棟札 

修理履歴

昭和45年には三ヵ年にわたる本格的な復元解体修理

平成12年から14年(2000年~2002年)の3か年をかけて、桧皮葺屋根の葺替え、丹塗り等の塗装などの部分修理を行っている

文化庁

説明文

すでに本殿が指定されているが、申殿及び廊下、楼門、廻廊の一郭も、本殿と同じ寛文七年(一六六七)の造営になるものであるから一括指定をした。

県説明文

伊佐爾波神社は道後山の東南端にあり延喜式内社に属する。

かつては今の道後公園内にあったが、建武年間(1334~1338年)に、豪族河野通盛が湯築城を構築するため現在地に移したという。近世になって松山藩主松平定長が寛文7(1667)年にあらたに造営した社殿が現存のものである。

 本殿は八幡造で、そのうち後殿は桁行9間、梁間2間、一重、切妻造で檜皮葺である。前殿は、桁行9間、梁間2間、向拝(庇)三所、流造、檜皮葺となっていて、江戸時代初期の建造物であるが、桃山時代の雄渾で豪華な様式をよく伝えている。

 申殿は桁行1間、梁間1間、一重、切妻造、檜皮葺、組物は出三ツ斗、中備には蟇股を配している。また、これに接続して檜皮葺の廊下がある。

 楼門は一間一戸で入母屋造、向拝一間、向唐破風造、本瓦葺、廻廊は桁行延長57間、梁間1間、一重、入母屋造、南北の門は向唐破風造、本瓦葺である。

 


           申殿 8-8 伊佐爾波神社申殿 20150307

 

建造物

申殿(もうしどの)廊下

建立

寛文7 : 1667

指定年

昭和42年6月15日

様式形式

切妻造平入り

再建

 

確証附

 

平面形状

桁行1間、梁間1間

屋根

檜皮葺

屋根頂

 

立面外観

 

花狭間

外周縁

 

 

出組 連三ッ斗

中備

 

 

 

見所

斗きょう・差肘木・蟇股・懸魚など意匠部分には本殿に準じて胡粉彩色が施されている。

修理履歴

明治30年(1897年)の修理で屋根は桟瓦葺に、また一部床板を張り、板壁が仮設されていたが、昭和43年から45年(1968年~1970年)の修理において創建時の姿に復された

平成12年から14年(2000年~2002年)の3か年をかけて、桧皮葺の屋根葺替を行っている。 

文化庁

説明文

なし

 

                8-8 伊佐爾波神社楼門 20150307

 

建造物

 楼門

建立

寛文7 : 1667

指定年

昭和42年6月15日

様式形式

入母屋造

再建

 

確証附

 

平面形状

一間一戸の楼門

屋根

本瓦葺

屋根頂

 

立面外観

一間向唐破風、本瓦葺

 

外周縁

 

 

疎組三手先 蛇腹支輪

中備

 

 

 

内陣特長

 

彫刻

 

妻飾

 

見所

四隅の斗きょうの上段尾垂木上には、裸身の力士像が置かれて全身で隅木を支える。これは法隆寺五重塔の裳階の上に見られるもので、先の本殿の妻の蟇股に迦陵頻伽の姿が彫られ、廻廊の内部化粧梁に錫杖彫りが施され、廻廊の内部蟇股に一遍上人遊行の姿が描かれていることなどとも併せ、当神社の社殿が仏教建築の細部意匠を多用していることがわかる。このことは八幡神により始まった神仏習合の、その長い歴史を物語るものである。

文化庁

説明文

なし

 

     8-8 伊佐爾波神社廻廊-1 20150307            

 

建造物

 廻廊

建立

寛文7 : 1667

指定年

昭和42年6月15日

様式形式

入母屋造

再建

 

確証附

 

平面形状

本殿等の社殿を囲む

71間、梁間1間

屋根

ニ軒、本瓦葺

屋根頂

 

立面外観

舟肘木

 

外周縁

 

見所

1間ごとの虹梁の下端には錫杖彫りが見られる。虹梁下の持送りは、南廻廊が宝永3年(1706年)、北廻廊が寛保2年(1742年)の補加である。木部は一般に丹塗りとし、外壁は白漆喰壁が塗られ、要所に青塗り捻子連子の窓が設けられる。

 廻廊の南北2か所にも出入口が設けられ、ここにも向拝状の一間向唐破風、本瓦葺の屋根が架けられる。楼門の向拝とも、水引貫の上を草花や竜・獅子を彫った板で埋め、その上の虹梁の上に鳥を浮き彫りにした蟇股を置くが、それらはいずれも華やかに胡粉彩色される。

 この廻廊のうち、楼門に接する両脇の各1間は柱間を狭くし、間仕切りをして随神を置く。

 

文化庁

説明文

なし

 

 
       

 

 

 2、大山祇神社

 

 

寺社名

 大山祇神社

所在地

今治市大三島町宮浦3327番地

周辺環境

瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5m)西麓に鎮座する。

全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は三島大明神とも称され、大山祇神社から勧請したと伝える三島神社は、四国を中心に新潟県や北海道まで広がる。静岡県の三嶋大社と共に三島神社の総本社とされる。

歴史由緒

源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっている。社殿・武具等の文化財として国宝8件、国の重要文化財76件(2014年現在)を有し、境内には国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」がある。また、昭和天皇の研究を展示した海事博物館が併設されている。

 

近代においても、日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。現在でも、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝がある。

 

創建

(伝)推古天皇2年(594年)

祭神

大山積神

社格

式内社(名神大) 伊予国一宮   旧国幣大社  別表神社 

札所

(元)四国八十八箇所55番 

国指定

文化財

大山祇神社宝物館収納文化財 愛媛県有形文化財工芸品

国宝 禽獣葡萄鏡(斉明天皇御奉納)

国宝 澤瀉威鎧(越智押領使好方奉納)

国宝 赤絲威鎧・大袖付(源義経奉納)

国宝 紺絲威鎧・兜・大袖付(河野通信奉納)

国宝 紫綾威鎧・大袖付(源頼朝奉納)

国宝 大太刀 銘 貞治五年丙午千手院長吉

国宝 牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵(護良親王奉納)

国宝 大太刀 無銘 伝豊後友行(大森彦七所用)

重文 紺糸裾素懸威胴丸(太祝安用の女、鶴姫着用)

他多数。

県指定

上津社社殿

本殿(国指定重要文化財)と同じ応永年間(1394~1428年)の再建と推定され、三間社流造で桁行3.6m、梁間2.7m、一重、檜皮葺の建物である。向拝は約1.8m、棟高は約6.2mである。

屋根は箱棟鬼板付で、軒は二軒繁垂木、組物には和様三ツ斗を用いている。蟇股を中央に配し、正面一間は連子付桟唐戸で、両脇に連子窓がつけられている。

創建後、延享(1744~48年)、文政(1818~30年)年間に大改修が行われ、局部絵模様などには桃山期の手法もみられ、創建当初とは多少異なっている。昭和43(1968)年には解体修理

 

十七社社殿

御神像17躯(国指定重要文化財)を安置する建物で、諸山積社と16社が連続している。

そのため一方の屋根は入母屋造で、他方は切妻造となって段違いの取り合わせである。

桁行約30m、梁間約4.5m、棟高約5.4m、平面積148.8㎡で檜皮葺となっている。

 由緒書によれば、正安年間(1299~1302年)の創建で、その後永和4(1378)年に再建されたという。室町時代の建物であるが、たびたび改修されたため、諸山積社の組物、蟇股等には桃山期の手法が、また角柱、舟肘木の細部には江戸時代初期の特徴がみられる。

 

 

建造物

 本殿(宝殿)

建立

応永34 : 1427

指定年

明治37.08.29

様式形式

三間社流造

再建

 

確証附

なし

平面形状

桁行3間7.96m 梁間3間8.06m

屋根

檜皮葺

屋根頂

箱棟鬼板付

立面外観

二重垂木

 

外周縁

 

見所

本殿は室町時代初期に焼失し、その後再建されたもので、墨書から応永34(1427)年の建築であることがわかる。 縁の両側の後部の突き当たりに透彫りの袖塀があることや、懸魚及び蟇股の優秀なことなど、当時の特色を伝えている。

修理履歴

1966年

文化庁

説明文

なし

県説明文

大山祇神社は、愛媛県最大の離島で最北に位置する大三島にあり、社伝によれば大宝年間(701~704年)に、越智玉澄が勅裁を受け社殿を造営、霊亀2(716)年に完成したという。その後、伊予の豪族である河野氏が大山積神を氏神として祭祀したので、厚く保護された。一般には航海の神と崇められ、また、軍神としても崇拝されることが多かった。

 本殿は三間社流造、檜皮葺である。桁行3間(7.96m)、梁間3間(8.06m)とほとんど同じで正方形に近く、平面積は64.16㎡である。木割は大きく、柱はすべて円柱を使用している。屋根は箱棟鬼板付で、軒は二重垂木となっており豪壮な建造物である。

 本殿は室町時代初期に焼失し、その後再建されたもので、墨書から応永34(1427)年の建築であることがわかる。 縁の両側の後部の突き当たりに透彫りの袖塀があることや、懸魚及び蟇股の優秀なことなど、当時の特色を伝えている。

 

      8-8 大山祇神社本殿 20150306  8-8 大山祇神社拝殿 20150306

 

建造物

拝殿

建立

 江戸前期 

指定年

昭和28.03.31

様式形式

切妻造

再建

応永34 : 1427

確証附

なし

平面形状

桁行七間、梁間四間、一重

屋根

檜皮葺

屋根頂

 

立面外観

唐破風向拝

 

外周縁

高欄 三方

 

巨大な木割を用いて豪壮な感じを持たせている

中備

 

 

四面に階段

見所

 

修理履歴

昭和30(1955)年の解体修理によってその当時の様式に復元された。

文化庁

説明文

なし

県説明文

 本殿(国指定重要文化財)の前面にあるこの拝殿は、桁行7間、梁間4間、一重の切妻造である。屋根は檜皮葺で柱はすべて円柱となっている。正面と側面の三方に縁が付き、高欄取回しとなり、四面に階段がつけられている。内部は天井を張らず、巨大な木割を用いて豪壮な感じを持たせている。なお、建物正面には1間の唐破風向拝がついている。

 拝殿は本殿と同じ応永年間(1394~1428年)の再建と推定せられ、昭和30(1955)年の解体修理によってその当時の様式に復元された。

 

              8-8 大山祇神社石塔 20150306   0

 

建造物

宝篋印塔 東塔 中央塔 西塔

建立

鎌倉後期

指定年

昭和27.11.22

様式形式

石造宝篋印塔

再建

 

確証附

なし

概要

社伝によると 宝篋印塔は、三島水軍河野通信の孫の当たる一遍上人(時宗の開祖)が、大三島宮に参拝した折奉納したものとされている。

花崗岩製で中央のものが一番大きく、蓮弁を基礎下と上2段に備え合わせて3段にした入念な造りである。また相輪上部の請花は逆にたれさがり特異な形をとっている。総高394cm余りである。

 両側の2基は、中央のものよりやや小形であり、左端のものは3基の中で最も簡素な造りであるが、いずれも極めてよく均整のとれた容姿で、様式、技法すべてが鎌倉時代の特色を備えている。

西塔

花崗岩、高さ 332Cm 

基礎上端は複弁の反花、側面三面は輪郭を巻き内に格狭間を作る

東塔

文保二年 1318年、花崗岩、高さ 302Cm

塔身の大工念心は、広島県三原市の米山寺宝篋印塔(元応元年 1319年)、三原市佐木島の向田野浦地蔵磨崖仏(正安二年 1300年)の作者

中央塔

花崗岩、高さ 429Cm 

塔身と基礎の間に方形の請座を設けて越智式(おちしき:旧越智郡に多くある形式)となる

修理履歴

 

文化庁

説明文

なし

 

 


3、三島神社

    三島神社(みしまじんじゃ)・三島社(みしましゃ)は、「三島」を社名とする神社。神社系列は「三島・山祇信
  仰」に属し、大半は伊予の大山祇神社(大三島神社)か伊豆の三嶋大社と関係のある神社である。
  全国的に400社前後存在するとみられている。神社本庁が1990年から1995年に実施した「全国神社祭祀祭礼総合調
  査」では、全国に411社である。大三島大社講(大山祇神社)が1973年1月に発行した『大三島宮』では、三島神社
  は全国に402社、大山祇(積/津見)神社は897社としている。

      地域的には関東、四国・九州に多い。特に愛媛県に全体の3割近い111社が集中する。
  次いで静岡県の36社、福島県35社、福岡県24社、高知県19社、神奈川県19社、大分県16社、以下千葉、新潟、栃木
  と続く。関東、東北、中部には三嶋大社より勧請されたと伝える三島神社が多い。
  一方、四国や九州、北海道には大山祇神社(三島大明神)から勧請されたと伝える三島神社が多い。
  ただし、福岡県は三嶋大社、新潟県は大山祇神社の分社が多いなどある程度混ざっている。

 

  関東・伊豆には、源頼朝が伊豆・三嶋大社を崇敬していた関係から、鎌倉武士により三嶋大社より勧請されたと伝え
  る三島神社が多い。大山祇神社は三嶋大明神を祖神として崇敬していた伊予水軍(三島水軍)の越智氏や河野氏によ
  り勧請されたものが多い。(wikiより)

 

寺社名

  三島神社

所在地

東温市則之内

周辺環境

三島神社は、東温市のほぼ中央に位置し、大山積神を主祭神とする。

歴史由緒

 

創建

暦応元(1338)年に河野通郷

山号

 

 

随身門には、同時代の作といわれる矢大神、左大神二体の随身立像県指定があります。

 

             拝殿  8-8  三島神社寺拝殿愛媛 20150306

 

建造物

 本殿

建立

暦応元(1338)

指定年

平成4年8月10日

様式形式

三間社流造

再建

 

確証附

なし

平面形状

正面4.2m、側面4.5m

屋根

銅板葺

屋根頂

 

立面外観

出三斗で実肘木

桟唐戸 半蔀戸

外周縁

浜床 木階 脇障子

 

二軒繁垂木 連三斗 手挟

中備

蟇股

 

擬宝珠高欄

内陣特長

 

彫刻

 

妻飾

虹梁家奴首

見所

大山祇神社の本殿とよく似ていて、原型をなすものだといわれています

肘木には若葉の浮彫り

修理履歴

 

文化庁

説明文

三島神社は、松山市の東南、川内町に位置し、大山祇神社(愛媛県越智郡大三島町)と同じ祭神を祀る。 本殿は、細部の意匠から十四世紀中期の建築と推定される。四国地方で中世前期に遡る数少ない三間社流造の神社本殿として価値が高い。

県説明文

三島神社は、東温市のほぼ中央に位置し、大山積神を主祭神とする。神社の創立は暦応元(1338)年河野通郷が大山祇神社(今治市大三島町)を崇敬しそれにならって社殿を建立したと伝えられる。

 本殿は、蟇股・手挾などから14世紀中期ころ(室町時代前期)の建築と推定される。建築様式は、三間社流造、銅板葺(以前は檜皮葺であった。)で、軒は二軒繁垂木である。保存状態は極めて良く、庇などに改造はあるが主要部材はほとんど残っているためおおむね復元が可能である。また、四国地方で中世前期に遡る数少ない神社建築として価値が高い。

 

      8-8  三島神社寺本殿愛媛-2 20150306  8-8  三島神社寺本殿愛媛-1 20150306

 

  4、石手寺

 

寺社名

  石手寺

所在地

松山市石手2丁目9-21

周辺環境

県道より伝説の残る渡らずの橋、衛門三郎像の横を過ぎ、回廊のある石畳を行くと山門前に至る。

右に茶堂・納経所、鐘楼が、左に阿弥陀堂があり、奥に進んで一段高い位置に左側の石段を上ると本堂が建つ。本堂左奥に観音堂、右に絵馬堂と十二社権現があり、その先に大師堂が並ぶ。本堂大師堂の背後にある山にはマントラ洞窟といわれる洞窟があり、金剛界・胎蔵界のマントラを表現している。大師堂右側には訶梨帝母天堂があり、石段を下りるとその右に三重塔が、左に一切経堂、護摩堂、弥勒堂が並ぶ。ここから左奥に入ると宝物館、大講堂がある。

歴史由緒

神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来刻んで本尊として安置して開基したという。

創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813年)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。寛平4年(892年)河野氏に生まれた子どもが石を握っていという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。

創建

(伝)天平元年(729年) 

(伝)行基、聖武天皇(勅願) 

山号

熊野山 虚空蔵院 石手寺 

札所

四国八十八箇所51番

 

 

 

     8-8  石手寺仁王門 20150306    8-8  石手寺仁王門蛙股 20150306   

 

建造物

 二王門  国宝

建立

文保2 

指定年

昭和27.11.22

様式形式

三間一戸楼門

再建

 

確証附

 

平面形状

 

屋根

入母屋造、本瓦葺

屋根頂

 

立面外観

 

 

外周縁

 

 

三手先

中備

本蟇股 間斗束

 

 

内陣特長

2階の床は無い

彫刻

 

妻飾

 

見所

上層の回縁の出が大きく、入母屋屋根の反りが高い

建物全体の均整はよく整い、全国の楼門の中でも屈指の優れた作品と評価され、なかんずくその蟇股は、鎌倉時代の特徴を備えた傑作との名声を博している。

・極めて美しい本蟇股の透かし彫り

修理履歴

 

文化庁

説明文

なし

県説明文

 真言宗豊山派の石手寺は、四国八十八か所51番札所である。

寺伝によれば聖武天皇の神亀5(728)年に勅宣によって大領越智玉純が伽藍を創建したという。

 二王門は『伊予古蹟志』によれば、河野通継が文保2(1318)年に建立したと伝えられる。三間一戸楼門、入母屋造、二軒、本瓦葺、2階の床は張らない。建築様式は和様で、円柱上の三手先の腰組で回縁を支え、中備として正・背面には蟇股を、側面には間斗束を置く。軒も同様に三手先で受けられるが、この中備はすべて間斗束となる。軒の反りや張りを含め、建物全体の均整はよく整い、全国の楼門の中でも屈指の優れた作品と評価され、なかんずくその蟇股は、鎌倉時代の特徴を備えた傑作との名声を博している。

 門の左右室には、木造金剛力士立像(県指定有形文化財)が安置されている。

 

          8-8  石手寺本堂 20150306  本堂

 

建造物

 本堂

建立

鎌倉後期

指定年

明治40.05.27

様式形式

入母屋造

再建

 

確証附

銘札  棟札 

平面形状

桁行五間、梁間五間、一重

屋根

本瓦葺

屋根頂

 

立面外観

 

板唐戸

外周縁

切目縁

 

一手先

中備

間斗束

 

 

内陣特長

 

彫刻

 

妻飾

 

見所

内部は外陣・内陣に分けられ、内陣の正面に須弥壇が置かれる。たびたび修理が行われているが、

各所の手法は力強く、鎌倉時代末期の建築の特徴をよく残している。

修理履歴

 

文化庁

説明文

なし

県説明文

嘉永6(1853)年の古絵図では阿弥陀堂と書き入れられている。

 建物は、桁行5間、梁間5間、一重、入母屋造、二軒、本瓦葺である。様式は和様で、円柱の上に一手先の組物を置き、中備えは間斗束である。正面5間の総て、両妻面の表側2間と奥側1間、それに背面中央1間は両開きの板唐戸を吊り込み、四周に3尺5寸の切目縁をめぐらせる。内部は外陣・内陣に別れ、内陣の正面に須弥壇が置かれる。

 二王門(国宝)とほぼ同じ時代の建築といわれ、その後たびたび修理が行われているが、手法が力強く、鎌倉時代末期の特徴をよく表している。 銘札1枚、棟札3枚が併せて指定されている。

 

               8-8 石手寺三重塔

 

建造物

 三重塔

建立

鎌倉後期 1318頃

指定年

明治40.05.27

様式形式

三間三重塔婆

再建

 

確証附

棟札

平面形状

 

屋根

本瓦葺

屋根頂

 

立面外観

高さ24.1m

板唐戸、脇間連子窓

外周縁

切目縁

 

二軒平行繁垂木 和様三手先

中備

間斗束

 

組高欄 平三斗

内陣特長

四天柱

彫刻

 

妻飾

 

見所

全体の容姿はよく均整が取れ、鎌倉時代の特色を伝える建物である。

修理履歴

相輪は昭和十一年の大修理の際、新鋳された

文化庁

説明文

なし

県説明文

三重塔は二王門(国宝)をくぐった右手にある。三間三重の塔で、本瓦葺である。高さは24.1m、軒は3層とも二軒、平行繁垂木である。各重とも円柱上に和様三手先の組物を置き、中備にはそれぞれ間斗束を備えるが、初重のみはその束を欠く。初重には切目縁を、二・三重には縁・組高欄をめぐらせる。 

初重の内部には四天柱を立て、その奥側の柱間に来迎壁を設け、壁の前面に須弥壇を置く。内壁には真言宗八祖の図が、来迎壁には曼荼羅が、四天柱・格天井にもそれぞれ彩色が施されているが、褪色剥離が見られる。須弥壇には釈迦三尊の像を祭る。九輪・水煙を支える心柱は、三・二重の中心を貫通し、さきの四天柱の頂部に架けられた梁で受けられる。これは平安時代末期に始まり、鎌倉時代の塔に多く用いられた構造である。全体の容姿はよく均整が取れ、鎌倉時代の特色を伝える建物である。

 

              8-8  石手寺護摩堂 20150306    

 

建造物

 護摩堂

建立

室町前期

指定年

昭和28.03.31

様式形式

宝形造

再建

 

確証附

棟札

平面形状

桁行三間、梁間三間

屋根

銅板葺

屋根頂

 

立面外観

面取り角

 

外周縁

 

 

舟肘木  一軒大疎垂木

中備

 

 

 

内陣

内部の床は総て拭板ぬぐいいた張りで、護摩木を投じて修法する火炉は見られず、奥に来迎らいごう柱・来迎壁を設けて須弥壇を置くが、転用材を用いるなど仮設的である。これは藩政時代に大師堂と呼ばれていたこととも符節する。

修理履歴

 昭和33(1958)年に解体修理が完成し、回り縁をめぐらし、本瓦葺屋根を檜皮葺型銅板葺(元来は檜皮葺)に改めて往時の姿になった。 

文化庁

説明文

なし

県説明文

桁行3間、梁間3間、一重、宝形造、銅板葺である。様式は和様の簡素な建物で、組物に舟肘木を用い、柱には面取り角柱が使われ、垂木は一軒大疎垂木となっている。

 建築の構造、表現の技法、全体の容姿からみて、室町時代前期のものと推定されている。江戸時代には大師堂と称せられていた。

 昭和33(1958)年に解体修理が完成し、回り縁をめぐらし、本瓦葺屋根を檜皮葺型銅板葺(元来は檜皮葺)に改めて往時の姿になった。

 内部の床はすべて拭板張りで、護摩木を投じて修法するための火炉は設けられてなく、中央奥に来迎柱・来迎板壁を備えて須弥壇を置くが、転用材を用いるなど仮設的である。

 なお、木造不動明王及び二童子立像(県指定有形文化財)が安置されている。

 

              8-8  石手寺鐘楼 20150306

 

建造物

 鐘楼

建立

元弘3 : 1333 

指定年

明治40.05.27

様式形式

入母屋造

再建

 

確証附

なし

平面形状

桁行三間、梁間二間

屋根

檜皮葺

屋根頂

 

立面外観

袴腰

 

外周縁

 

 

三手先

中備

間斗束

 

 

見所

建物の容姿は清楚でよく安定し、傑出した出来栄えの鐘楼との評価を得ている。

組物は共に繊細華麗な造りが目を引く。

修理履歴

 

文化庁

説明文

なし

県説明文

元弘3(1333)年に再建されたものといわれ、桁行3間、梁間2間、入母屋造、二軒、檜皮葺の建物である。二重となっており、下層は鎌倉時代以降にみられる袴腰で、鐘楼特有の姿態を示している。

 様式は和様で、軒は三手先の組物で受けられ、中備には間斗束が置かれ、袴腰上の回縁・組高欄もまた、同じく三手先組物で受けられる。傑出した出来栄えを誇っており、その楼上には、建長3(1251)年の銘の銅鐘(重要文化財)が釣られている。

 

               8-8  石手寺訶梨帝母天堂 20150306

 

建造物

訶梨帝母天堂 かりていもてん

建立

鎌倉後期

指定年

昭和28.03.31

様式形式

一間社流見世棚造

再建

 

確証附

なし

平面形状

 

屋根

檜皮葺

屋根頂

 

見所

正面の水引貫上の蟇股は、国宝・二王門と手法を同じで、同時期の創建とする根拠となっている。

修理履歴

 

文化庁

説明文

なし

県説明文

安産祈願の堂として親しまれている。一間社流見世棚造の小堂で、屋根は檜皮葺である。妻飾りは猪目懸魚、組物等にすぐれた技法がうかがえ、中備の蟇股も二王門(国宝)のそれと同じく、優秀な出来栄えである。 本堂(重要文化財)や三重塔(重要文化財)などの再建とほぼ同じ鎌倉時代のものと考えられ、県下の神社建築では最古級に属するものである。

 

               8-8  石手寺五輪塔 20150306

 

建造物

 五輪塔

建立

鎌倉時代末期

指定年

昭和27.11.22

様式形式

花崗岩製

再建

 

確証附

 

立面外観

総高273cm

 

外周縁

 

 

 五輪塔は、平成7(1995)年まで門前にあったが、現在は、石手寺境内北東の裏山にあり、源頼朝の供養塔として祭られている。

 

保存状態がよく、損傷もみられない。地輪、水輪、火輪、風輪、空輸の五輪がよく整い、当初の姿をよく残す石塔として貴重な存在である。 形式、技法からみて、鎌倉時代の代表的なすぐれた石造美術品である。

文化庁

説明文

なし

 

                   8-8  石手寺鐘楼五輪塔 20150306

 

建造物

 銅鐘

建立

建長3(1251年)

指定年

大正元年9月3日

様式形式

総高104.6cm口径59.8cm、

再建

 

確証附

 

平面形状

鋳銅製

屋根

 

屋根頂

 

見所

建長3(1251)年の銘文は、柔らかみのある楷書体で、堂々たる格調を持つ書風、書体に加えて、彫刻の技法も極めて優れている。

 この鐘の銘文に示すように、建長3年に興隆寺(西条市丹原町)の鐘として作られたものであるが、その後天文17(1548)年菅生山大宝寺(上浮穴郡久万高原町)の所有となり、さらに転じて現在石手寺蔵となっている。

修理履歴

 

文化庁

説明文

なし

 

 

 

 5、大宝寺

 

寺社名

  大宝寺

所在地

松山市南江戸5-10-1

周辺環境

 

歴史由緒

寺伝によれば、飛鳥時代の大宝元年(701年)に地元の豪族小千(越智)伊予守玉興が創建したと伝えられている。寺号は創建されたとされる年号に由来する。

江戸時代には歴代松山藩主の祈願所となった。松平氏4代藩主松平定直によって貞享2年(1685年)本堂の修理が行われた。

 

創建

伝・大宝元年(701年)・小千伊予守玉興 

 

古照山 薬王院 大宝寺

札所

 

重文

木造阿弥陀如来坐像1躯

  像高68.5cm、一木造り。本堂に安置。様式から平安時代前期の作と推定されている。

木造釈迦如来坐像1躯

  像高83.9cm、一木造り。本堂に安置。平安時代前期の作と推定されている。

木造阿弥陀如来坐像1躯

像高135.7cm、寄木造り。本堂の厨子に安置されていた当寺院の本尊である。

平安時代末期の作と推定されている。秘仏とされ永らく薬師如来として信仰されていた。

 

    8-8  大宝寺本堂 20150306   8-8  大宝寺本堂-2 20150306

 

建造物

  本堂  国宝

建立

鎌倉時代前期

指定年

昭和28.03.31

様式形式

阿弥陀堂の形式  寄棟造

再建

 

確証附

厨子1基 棟札

平面形状

桁行3間、梁間4間

屋根

本瓦葺

屋根頂

 

立面外観

円柱

蔀戸

外周縁

切目縁

 

隅部の舟肘木のみ 二軒

中備

なし

 

 

内陣特長

通常の阿弥陀堂建築と同様、正方形の平面を持つ建物であるが、桁行は三間なのに梁間は四間と奥行きの方向に柱が一本多く、すなわち横幅と奥行きで柱間の長さが異なるという点が特徴的である

見所

垂木間の間隔)は一定しておらず、中世以前の古い様式を示す

堂内の厨子は室町時代の作で、正面3間、軒唐破風付、こけら葺。厨子は、貞享2年(1685年)再興の銘がある修理棟札と共に国宝の附として指定されている

修理履歴

 

文化庁

説明文

建立年代は不明であるが、形式手法は平安時代末期頃の特貭を現している。円柱に隅のみ舟肘木を用い勾配のゆるい軒及び垂木割のないことなどよく時代の特徴を示している。

四國地方に於ては既に國宝に指定された髙知県豊樂寺藥師堂に次ぐ古い建築である。 

県説明文

真言宗豊山派大宝寺は、大宝年間(701~704年)の越智玉興の創建と伝えられる。本堂の建物は、桁行3間、梁間4間、一重、寄棟造、二軒、本瓦葺である。様式は和様、柱はすべて円柱で、柱上には斗栱を用いず、四隅の柱上にのみ簡素な舟肘木を置く。垂木間隔が柱間ごとに違っていることなどから、平安時代末期の阿弥陀堂形式を用いた鎌倉時代初期の建築であろうと考えられる。屋根はもと茅葺であったのを、延享2(1745)年の修理の際に瓦葺に改めたと推察される。簡素ながらよく均整がとれ、県下最古の木造建造物として貴重である。

 正面の3間には蔀戸を、両側面南端及び背面中央にも板扉を持ち、内部は板張りで、南側1間の床を2寸程下げて外陣とし、その奥は内陣となる。 堂内の厨子は寛永8(1631)年の作で、正面3間、軒唐破風付、柿葺、和様に禅宗様の手法を加味した優れた作である。

 なお、重要文化財の木造阿弥陀如来坐像、木造釈迦如来坐像、木造阿弥陀如来坐像が本堂に安置されている。

 

 

 6、太山寺

 

寺社名

  太山寺 

所在地

松山市太山寺町1730

周辺環境

 

歴史由緒

太山寺の草創については、以下のような「一夜建立の御堂」伝説が伝えられている。飛鳥時代の用明2年(586年)、豊後国臼杵の真野の長者という者が難波に船で向かう途中、高浜の沖で大嵐に遭遇した。長者が平素から信仰する観音に念じると山頂から光が差し嵐が静まり無事着岸した。その光の差した頂上に行ってみると一寸八分の十一面観音を祀った小さな草堂(現在の奥の院)があった。長者は感謝し一宇建立の大願を起する。早速、豊後に引き返し工匠を集め木組みを整え、一日で高浜の港に着き夜を徹して、一夜にして建立したということである。

 

その後、天平11年(739年)聖武天皇の勅願により行基によって本尊の十一面観音が安置され、孝謙天皇(聖武天皇の娘)が天平勝宝元年(749年)に十一面観音を勅納し七堂伽藍を現在の地に整えたと伝えられている。なお、現本尊像(重要文化財)は平安時代後期の作である。また、本堂の奥中央の専用の厨子内に安置される十一面観音像(文化財指定なし)が孝謙天皇奉納像であると伝える。

 

現存の本堂(国宝)は三代目で嘉元3年(1305年)伊予国守護河野氏によって再建され、近世には松山城主加藤氏の庇護を受けて栄えた。

 

創建

(伝)用明天皇2年(587年) 真野長者 

山号

瀧雲山 護持院 太山寺

札所

四国八十八箇所霊場の第五十二番札所

重文

木造十一面観音立像 1躯 -

 当寺本尊。像高155.4cm、古色。宮殿内部いっぱいの大きさの金色の舟形光背を負う。

 本堂内宮殿の中央に安置。寺伝に聖武天皇の奉納とされるものだが、実際の制作は平安時代後期と

 推定される。昭和32年(1957年)2月19日指定

木造十一面観音立像 6躯 - 

 本堂内宮殿の左右の間に3躯ずつ安置。2躯は檜材、4躯はカツラ材の一木造り。

 いずれも金色の輪光(頭光)を負う。像高はそれぞれ147.3cm、152.4cm、144.5cm、

 143.8cm、156.3cm、150.7cm。平安時代後期作、明治34年(1901年)3月27日指定。

 寺伝では後冷泉天皇以下、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の歴代天皇の奉納とされるが、6躯の

 形式や作風がほぼ同じであることから、各像はほぼ同時期の作と認められる[2]。

 

県指定

絹本著色弘法大師像 -

  鎌倉時代中期以前の作とされる、縦113cm、横118cm、昭和40年(1965年)4月2日指定

梵鐘 - 高さ116cm、直径61cm、鋳銅製、1383年作 。昭和40年(1965年)4月2日指定

 

 

     8-8  太山寺本堂松山-1 20150306  8-8  太山寺本堂松山-2 20150306

 

建造物

 本堂  国宝

建立

嘉元3 : 1305 

指定年

昭和31.06.28

様式形式

入母屋造

再建

 

確証附

なし

平面形状

桁行七間、梁間九間、一重

16.38m×20.91m

屋根

本瓦葺

屋根頂

 

立面外観

円柱  出組 垂木六枝掛

戸 桟唐戸

外周縁

 

 

正面は七間堂、梁間(奥行き)が九間もある縦長の仏堂は、珍しい

中備

蟇股

 

 

内陣特長

菱欄間と格子戸

彫刻

 

妻飾

 

見所

昭和29年の解体修理で発見された蟇股の墨書銘より、嘉元3(1305年)に建てられた事が判明

 

柱・梁などの木組みは大きく、豪放な規模を持つとともに、和様を基本にしながら、虹梁とその挿肘木には大仏様の手法が併用されるなど、折衷様としての表現力にも優れている。

またこの頃になって初めて現れた「六枝掛」という、斗きょうと垂木の割り付けから柱間

隔が決められてゆく技法も明らかに認められる。

さらにその内陣が土壇となっているのは、当時の密教本堂としては珍しく、正面柱間の中備に置かれた蟇股は、鎌倉時代の力強い作風を示す代表作と評価されている。

修理履歴

 

文化庁

説明文

太山寺は真言宗寺院で、草創が不明だが、本尊等は平安時代の作である。本堂は蟇股の墨書銘より、嘉元3年(1305)の建立と判る。中世には全国各地にこうした床張の仏堂が数多く建てられたが、この本堂は内陣を二重の外陣・脇陣・後陣で囲んだ雄大な規模を持ち、内陣の厨子も含め、和様でまとめられた意匠も優秀である

県説明文

 真言宗智山派太山寺は、四国八十八か所52番札所である。寺伝によるとその創建は遠く用明天皇の世(585~587年)にさかのぼり、朝廷の尊崇も厚かったという。

 本堂の建物は、桁行7間、梁間9間、一重、入母屋造、二軒本瓦葺である。内・外陣境の蟇股及び厨子の蟇股の墨書銘から、嘉元3(1305)年の建立と考えられる。柱・梁などの木組みは大きく、柱上の組物などは和様を基本にしながら、虹梁とその挿肘木には大仏様の手法が併用されるなど、折衷様としての表現力にも優れている。構造も豪放で、密教本堂としては全国屈指の規模を誇るものである。また、その内陣が土壇となっているのは、当時の密教本堂としては全国的にも珍しく、正面柱

間の中備に置かれた蟇股は、鎌倉時代の力強い作風を示す代表作と評価されている。

なお重要文化財の木造十一面観音立像・木造十一面観音立像(本堂安置)が本堂に安置されている。

 
    
               8-8  太山寺仁王門松山 20150306

 

建造物

 仁王門

建立

 鎌倉後期 

指定年

明治37年8月29日

様式形式

八脚門

再建

 

確証附

 

平面形状

三間一戸、単層

屋根

入母屋造 本瓦葺

屋根頂

 

立面外観

円柱で上下に粽 礎盤

 

外周縁

 

 

疎垂木一軒 疎組あまぐみ

中備

間斗束

 

 

内陣特長

疎組

彫刻

 

妻飾

 

見所

太山寺の参道、一ノ門と山門の中間点にあり、もとは二ノ門をなしていた。

軒を支える組物は正規の軒の二手先ではなく、切目縁・縁桁が見られ、それを支える腰組の形状を残しているので、この建物は元は楼門であったものを単層に改修したことが考えられる。

しかしなお全体に鎌倉時代の折衷様建物の特色をよく伝えている。

修理履歴

文明17年(1485年)に大修理

昭和5年(1930年)に解体修理、平成16年には屋根葺替・部分修理が行われた。

文化庁

説明文

なし

県説明文

この門は太山寺の参道、一ノ門と山門の中間点にあり、もとは二ノ門をなしていた。三間一戸、単層、入母屋造、一軒、本瓦葺である。門の左右室には金剛力士像を安置する。

 組物は和様の疎組であるが、円柱の上下には粽をつけ、その下部には礎盤を置くなど、禅宗様の手法が強く加えられた折衷様建物である。文明17(1485)年に大修理が行われ、さらに組部にも後補の跡が認められる。特に軒以上の改造は大きく、組物も正規の二手先ではなくて、もとは楼門の腰組かとも見られている。しかしなお全体に鎌倉時代の特色をよく伝える建物である。最近では昭和4(1929)年に解体修理が行われた。

 

 

 

7、浄土寺

 

寺社名

  浄土寺

所在地

松山市鷹子町1198

周辺環境

 

歴史由緒

天平勝宝年間(749年-757年)に孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀ったという。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗した。

 

平安時代中期の天台宗の僧空也が天徳年間(957年-960年)にこの寺に滞在し布教に努めた。建久3年(1192年)に源頼朝が堂宇を修復するが、応永23年(1416年)には兵火で焼失。河野通宣によって文明14年(1482年)に再建された。慶安2年(1649年)には大規模な修繕が行われている。

創建

天平勝宝年間(749年-757年)恵明上人 

山号

西林山 三蔵院 浄土寺

札所

四国八十八箇所霊場の第四十九番札所 伊予十三仏霊場の第二番札所

重文

木造空也上人立像:木造、彩色、玉眼、121.5cm、鎌倉時代作、昭和11.9.18指定

 

 
      8-8 浄土寺本堂  8-8 浄土寺本堂-2 

建造物

 本堂

建立

文明16 : 1484 

指定年

昭和28.03.31

様式形式

寄棟造

再建

 

確証附

厨子

平面形状

桁行五間、梁間五間、一重

屋根

本瓦葺

屋根頂

 

立面外観

一軒 円柱

桟唐戸 格子板戸

外周縁

切目縁

 

平三ッ斗

中備

間斗束

 

 

内陣特長

蔀戸

彫刻

 

妻飾

 

厨子

正面1間、入母屋妻入、板葺、軒はニ軒扇垂木、禅宗様詰組の精緻を極めた造りである。

この厨子に巡礼が書いた墨書落書きがありその最古のものに大永5年(1525年)の年号が見られる

見所

 

修理履歴

 

文化庁

説明文

なし

県説明文

 真言宗豊山派の浄土寺は三蔵院ともいわれ、四国八十八か所49番札所である。

縁起によれば孝謙天皇の勅願所となり、源頼朝の再興によって寺内8町四方に及んだが、応永23(1416)年兵火にかかって焼失したと伝えられている。文明14(1482)年に伊予守護河野通宣が伽藍再建工事を起こし、2年の歳月を費して現存の本堂が落成した。

 この堂は桁行5間、梁間5間、一重、寄棟造、一軒、本瓦葺である。柱はすべて円柱で、前2間は外陣となり蔀戸を隔てて内陣となっている。組物は、平三ツ斗、中備に間斗束が使われており、全体の建築様式は、和様と禅宗様を折衷した室町時代の建造物である。 内陣正面にある一間厨子は、入母屋造、妻入り、板葺で、優美繊細、唐様の秀作である。この厨子に遍路の書いた落書きがあり、その最古のものは大永5(1525)年で、これによって製作年代を推定することができる。

 

 


 8、如法寺

 

寺社名

  如法寺 にょほうじ

所在地

大洲市柚木943

周辺環境

 

歴史由緒

この寺は、1669年(寛文9年)大洲藩主加藤泰興の開基、盤珪永琢の開山により創建され、以後大洲藩主の菩提寺となった。江戸時代には多くの末寺を有していた。

創建

1669年(寛文9年) 盤珪永琢 加藤泰興 

山号

冨士山

 

               8-8  如法寺仏殿 20150306 修理前

 

建造物

 仏殿

建立

寛文10 : 1670 

指定年

平成4.08.10

様式形式

禅宗様仏堂  入母屋造

再建

 

確証附

石燈籠  手水鉢 

平面形状

桁行五間、梁間四間、一重

屋根

本瓦葺

屋根頂

 

立面外観

向拝一間、背面突出部附属 

中央間唐破風造、桟瓦葺

花頭窓 

菱格子桟唐

外周縁

 

 

礎盤 出組

中備

蟇股

 

 

見所

禅堂を兼ねた禅宗様仏殿として貴重であり、良質な木造りと優れた意匠・構造形式を示す。

堂内左右の壁際には単(畳敷きの坐禅用の場)と函櫃(かんき、物入れ)があり、禅堂と仏堂を兼ね備えた建物である

修理履歴

平成26完了:屋根の傷みが激しく、屋根瓦は崩落寸前で野地や軒回りも腐っていたため、201011月、国の補助を活用した修理工事が始まった。総事業費は4億5500万円。 

 修理は当初の形に戻すため約4割の瓦を再利用し、他は創建時の形の瓦を奈良市で製作。背面の屋根に降棟を設け、正面入り口を石敷きから土間に変更、下屋を瓦からこけらぶきとした。 

文化庁

説明文

如法寺は、大洲藩主加藤泰興が寛文九年(1669)に創立した臨済宗寺院で、仏殿は、寛文十年(1670)年の創建時代の建築である。 各部の保存状況がよく、内部に畳敷の床を設け禅堂を兼ねるようにした特徴ある形式をもち、大梁を渡した内部の空間構成にもみどころがある。

県説明文

 如法寺は大洲盆地の冨士山の中腹にあって、大洲2代藩主加藤泰興が寛文9(1669)年盤珪永琢

を開山として創立した臨済宗妙心寺派に属する寺院である。

 この建物は、桁行5間、梁間4間、一重、入母屋造、本瓦葺である。寛文10(1670)年に加藤泰興が創建したもので、仏殿と禅堂を兼ねた珍しい形式の建造物である。柱は禅宗様の特徴をもち、柱上の組物には、出組を用い柱間に蟇股を配した和様の手法を取り入れている。正面の扉は、桟唐戸を使用している。創建当初の形態をよく保ち、禅堂を兼ねた禅宗様仏殿として貴重であり、良質な木造りと優れた意匠・構造形式を示し、近世禅宗仏殿を代表する建造物である。




 

 

9、興隆寺本堂

寺社名

 興隆寺