8-6-5 兵庫県の寺院建築ー3 |
6 | 円教寺 圓教寺(えんぎょうじ) | 所在地 | 姫路市書写2968 079-266-3327 | ||||
周辺環境 | 姫路市街の北方に位置する書写山(371メートル)の山上一帯を占め、境内地は東西に長く広がる。 市街地から近く標高もさほど高くないが、境内地には自然環境が良好に保持され山岳寺院の様相を呈する。1958年に東坂に沿ってロープウェイが開通してからは、ロープウェイ山上駅から仁王門を経て、本堂にあたる摩尼殿へ上る参道がメインルートとなっている | ||||||
歴史由緒 | 「西の比叡山」とよばれるほど寺格は高く、西国三十三所中最大規模の寺院で、中世には比叡山、大山とともに天台の三大道場と並び称された巨刹である。京都から遠い土地柄でありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。 ○元徳3年(1331)雷火の為「三之堂」と周辺の諸堂焼失。 ○天正6年(1578)秀吉乱入し本陣とする。帰途仏像その他多数持ち去る。この頃まで27000余石の寺 領を有していたが、秀吉によりすべて没収。500石だけを施入される。 後1000石になるが、江戸に入り833石となる。 〇明治元年(1868)明治維新、833石と境内を含む山全体が国に没収される。 〇昭和16年(1941~1945)太平洋戦争による荒廃。 | ||||||
創建 | 康保3年(966年) | 開基 性空 | 山号 | 書寫山(しょしゃざん) 宗派 天台宗 | |||
札所 | リンク | 寺(素晴らしい解説) | |||||
特長 | 円教寺は、康保3年(966) に性空が開いた天台宗寺院で、寛和2年(986) には花山法皇の行幸があり、以後、公家らの帰依をうけて発展した。 | ||||||
文化財 | (西谷)金剛堂 護法堂拝殿 護法堂 鐘楼 常行堂 食堂 大講堂 開山堂 (東谷)寿量院 十妙院 | ||||||
境内 | 史跡名勝天然記念物:都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡1934(昭和9)指定 | ||||||
登録有形 | 摩尼殿:木造平屋建,瓦葺,建築面積419㎡ 昭和8年 1933 建立 岩山の中腹に舞台造りの建物 (文化庁)比叡山延暦寺と並び称される書写山の中心をなす。焼失した前身建物を、絵葉書などの資料からほぼ踏襲する形で建てられた。設計は武田五一、大工棟梁は伊藤平左衛門である。その豪壮な姿で広く知られており、数少ない大規模な掛け造り建築の好例である。登録1999.06.07(平成11) ・木造四天王立像(重要文化財) | ||||||
県指定 | ・本多家廟屋(ほんだけ) 大講堂の東南の隅に土塀で囲まれた姫路城城主本多家の墓所があり廟屋五棟と本多忠刻らの墓碑が並ん でいる。五棟の廟屋は、江戸初期から中期にわたる廟屋の建築として県下でも例のない珍しいもの。 ・薬師堂 (根本堂) 鎌倉時代の建物で、天竺様式(大仏様の手法)を取り入れた。圓教寺に現存する建物の中で最古。 ・仁王門 : 江戸初期の建物。両脇に仁王像が立つ。三つ棟造りの仁王門。 | ||||||
境内 | 三つの堂と呼ばれる大講堂、食堂(じきどう)、常行堂の三つの建物があります。あまりにも壮大です。雄大にして静寂の世界です。1991年の宗次郎のコンサートをきっかけに演劇や能が奉納されるようになりました。最近映画やテレビの撮影に使われますトム・クルーズ主演の「ザ・ラスト・サムライ」でした。 |
建造物 | 大講堂 | 建立 | 永享12(下層)1440 寛正3(上層)1462 | 指定年 | 1913.04.14(大正2) |
様式形式 | 和様、建具、束など一部に禅宗様 | 再建 | 確証附 | ||
平面形状 | 正面7間、側面6間 | 屋根 | 重層入母屋造、本瓦葺 | 屋根頂 | |
立面外観 | 二重外周り胴貫が突き出したまま | 壁・窓 | 桟唐戸 | 外周縁 | 縁は外陣部分のみ |
軒裏組物 | 二手先 | 中備 | |||
内陣特長 | 化粧屋根 大瓶束 虹梁 | 彫刻 | 格子状の遣戸 | リンク | |
見所 | 大型の仏堂で裳階を付け重層のように見える建築は数多くあるが、大講堂のように完全な重層建築は、法隆寺金堂等、数件しか有りません。二層の柱間を狭くして一層と同じ桁行なのは類例がない。 | ||||
修理履歴 | 昭和26年より、大講堂解体 修理、同31年完成 金剛堂・食堂・常行堂・壽量院・護法堂修理 |
建造物 | 食堂 (別名長堂) | 建立 | 寛正 1461-1466頃 | 指定年 | 1955.06.22(昭和30) |
様式形式 | 全体が和様、腰組に大仏様 | 再建 | 確証附 | ||
平面形状 | 桁行十五間、梁間四間、一重二階 | 屋根 | 入母屋造、本瓦葺 | 妻面 | |
立面外観 | ベランダの付いた宿舎 | 壁・窓 | 全てが蔀戸 | 外周縁 | 正面に高欄 |
軒裏組物 | 二手先組物 二軒繁垂木 軒支輪 | 中備 | 間斗束 | 腰組は大仏様三手先 | |
内陣特長 | 現在1階写経道場、2階寺宝展示館 | 彫刻 | リンク | ||
見所 | 間口は38.7m、奥行10.2mの大規模建築 近世以前の仏堂建築で、このように長大かつ総2階とするものは他に例がない | ||||
修理履歴 | 昭和38年の解体修理 |
建造物 | 常行堂 中門及楽屋 舞台 | 建立 | 享徳2年 1453 寛正4年 1463 | 指定年 | 1955.06.22(昭和30) |
様式形式 | 再建 | 確証附 | 棟札 | ||
常行堂 中門楽屋 舞台 | 桁行五間、梁間五間、向拝一間 桁行十間、北面九間、梁間二間舞台 桁行一間、梁間一間、一重、 | 屋根 | 入母屋造、本瓦葺 中門切妻造、本瓦葺 北面唐破風造本瓦葺 | 屋根頂 | |
立面外観 | 壁・窓 | 外周縁 | |||
軒裏組物 | 二手先組物 二軒繁垂木 | 中備 | |||
仏像 | 本尊木造阿弥陀如来坐像(重要文化財) - 像高251.0 cm | リンク | |||
見所 | 入母屋造の常行堂の北側に正面10間、側面2間、切妻造の吹き放しの建物が接続する、特異な形式の建物 | ||||
修理履歴 | 1965年昭和40年 |
建造物 | 金剛堂 | 建立 | 天文13年 : 1544 | 指定年 | 1913.04.14(大正2) |
様式形式 | 旧塔頭普賢院の持仏堂。室町時代 | 再建 | 確証附 | 厨子 | |
平面形状 | 桁行三間、梁間三間、一重 | 屋根 | 入母屋造、本瓦葺 | 屋根頂 | |
立面外観 | 棟の鯱瓦は日本最古のデザイン | 壁・窓 | 外周縁 | ||
見所 | 奥の院(開山堂、護法堂、護法堂拝殿)、金剛堂、 | リンク | |||
修理履歴 | 1959年昭和34年 |
建造物 | 鐘楼 | 建立 | 室町後期1467-1572 | 指定年 | 1913.04.14(大正2) |
様式形式 | 袴腰付 | 再建 | 確証附 | ||
平面形状 | 桁行三間、梁間二間 | 屋根 | 入母屋造、本瓦葺 | 屋根頂 | |
内陣特長 | 彫刻 | リンク | |||
修理履歴 | 平成13年解体修理 |
建造物 | 護法堂(乙天社及び若天社) (おつてんしゃ・わかてんしゃ) | 建立 | 永禄2年 : 1559 | 指定年 | 1955.06.22(昭和30) |
様式形式 | 一間社隅木入春日造 | 再建 | 確証附 | 厨子 棟札 | |
平面形状 | 屋根 | 檜皮葺 | 屋根頂 | ||
立面外観 | 壁・窓 | リンク |
建造物 | 護法堂拝殿 別名弁慶の学問所 | 建立 | 天正17年(1589) | 指定年 | |
様式形式 | 再建 | 確証附 | |||
平面形状 | 正面7間、側面2間の細長い建物 | 屋根 | 切妻造本瓦葺き | 屋根頂 | |
立面外観 | 壁・窓 | リンク |
建造物 | 開山堂 | 建立 | 江戸初期、寛文年間 | 指定年 | |
様式形式 | 宝形造 | 再建 | 確証附 | ||
平面形状 | 屋根 | 屋根頂 | |||
見所 | 木造 性空上人像(重要文化財) - 開山堂本尊として厨子内に安置 | リンク | |||
修理履歴 | 軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名です。 |
建造物 | 塔頭 寿量院 | 建立 | 貞享5年: 1688 | 指定年 | 1956.06.28(昭和31) |
様式形式 | 中門切妻造、玄関唐破風造 | 再建 | 確証附 | ||
平面形状 | 桁行29.7m、梁間19.3m | 屋根 | 入母屋造 | 屋根材 | 本瓦及び銅板葺 |
立面外観 | 段違、中門及び玄関附属 | 壁・窓 | リンク | ||
見所 | 寿量院の精進料理:書写塗りの器類のすばらしさ この料理は感激します。 | ||||
歴史 | 無量壽院と呼ばれ承安四年(1174)には後白河法皇がここに七日間こもって観世音菩薩の加護を願われた |
建造物 | 塔頭 十妙院(じゅうみょういん) | 建立 | 元禄4 年(1691) | 指定年 | 平成25年10 月18 日 |
様式形式 | 客殿及び庫裏1棟 唐門1棟 | 再建 | 確証附 | ||
客殿庫裏 | 桁行27.4m、梁間14.9m | 屋根 | 入母屋造段違、南面軒唐破風付 本瓦葺 | ||
唐門 | 一間平唐門、檜皮葺 | 建立 | 享保9年(1724) | リンク | |
見所 | 仏間を中心とした方丈と台所を設けた庫裡とを会わせた構造、壽量院と共に円教寺型ともいえる独特の構造を持った塔頭です。 | ||||
修理履歴 | 平成4-7年大修理 | ||||
文化庁 説明文 | 十妙院は、姫路市街北西の書写山の山上にある円教寺の塔頭寺院の一つで16 世紀中頃の創立と伝えます。現在の客殿及び庫裏は元禄4 年(1691)、唐門は享保9年(1724) の建立です。 客殿及び庫裏は、客殿と庫裏を一棟にまとめており、貴賓入口を示す軒唐破風や唐戸口などに古式を残し ながら、客殿室内は上質な書院造とします。 唐門は、客殿前に開く貴賓用の門です。十妙院は、江戸時代中期の山上寺院における塔頭の様相を示して おり、門や土塀など、近世の塔頭の構えを良く維持しているとして高い価値が認められました。 |
7 | 温泉寺 (おんせんじ) | 所在地 | 豊岡市城崎町湯島985-2 0796-32-2669 | |||||
周辺環境 | 城崎温泉郷の守護寺である。本堂の北東には城崎美術館がある。参道の石段450段を登ったところが本堂 山の中腹に建っていますが、ロープウェイでも行けます。 | |||||||
歴史由緒 | 養老4年(720)に城崎温泉を開いた道智上人により天平10年(738)に開創された古刹です。 | |||||||
創建 | (伝)天平10年738年開基 (伝)道智上人 | 山号 | 末代山 宗派 高野山真言宗 | |||||
札所 | 西国薬師四十九霊場29番 | リンク | ||||||
文化財 | (重文) 本堂 宝篋印塔 木造十一面観音立像、絹本著色十六善神像、木造千手観音立像、 (市指定) 山門 - 江戸時代中期: 仁王像(鎌倉時代)は、運慶・湛慶の作と伝えられ 多宝塔 - 江戸時代中期 (無指定)薬師堂 文化年間1804 | |||||||
重文仏像 | 本尊 十一面観音立像 (国指定重要文化財) (伝 春日仏師 稽文作) 像高213.5cm、ヒノキ材、一木造 所々にはのみのあとが残り、素朴な力強さを像に与えている 33年目ごとのご開帳の秘仏の仏様ですが、毎年4月23・24日の両日、開山忌(温泉まつり)には御開扉があり、ご拝顔をすることが出来ます。 次のご開帳は平成30年の4月23日からの3年間です。 |
建造物 | 本堂 | 建立 | 至徳4(1387)年頃 | 指定年 | 1904.02.18(明治37) |
様式形式 | 和様、天笠様、唐様の折衷様式 | 再建 | 確証附 | ||
平面形状 | 桁行五間、梁間五間 | 屋根 | 入母屋造、銅板葺 | 屋根頂 | |
立面外観 | 乱石積み基壇上に建つ | 壁・窓 | 横板 | 外周縁 | 高欄の無い縁を廻らす |
軒裏組物 | 二軒繁垂木 出三つ斗 | 中備 | 二っ斗 | 妻面 | 大瓶束 猪目懸魚 |
見所 | ・入母屋妻面と屋根の曲線は秀麗で全体のバランスも良い 南北朝時代を代表する建物 | ||||
修理履歴 | 慶長6年(1601年)と正徳3年(1712年)に修理 昭和43年~45年の解体修理 創建当初に復元 |
建造物 | 宝篋印塔(重要文化財) | 建立 | 室町前期 | 指定年 | 1961.03.23(昭和36 |
様式形式 | 花崗岩、高さ 197Cm | 再建 | 確証附 | ||
塔身 | 金剛界四仏の種子を月輪内に薬研彫 | 基礎 | 格狭間 東西両面 | 相輪 | 完存 |
基部 | 基礎は、複弁反花座 繰形座 | 笠 | 下二段、上六段 隅飾りは二弧輪郭 | ||
見所 | 宝篋印塔は、木造多宝塔の西側に安置されている |
建造物 | (市指定)多宝塔 | 建立 | 指定年 | ||
様式形式 | 詳細不明 | 再建 | 明和四年 1767年 | 確証附 | |
平面形状 | 三間三面 一辺4.25m | 屋根 | 桟瓦葺 | 屋根頂 | |
立面外観 | 壁・窓 | 外周縁 | 擬宝珠高欄を付した縁 | ||
軒裏組物 | 下重、二手先組物、二軒繁垂木 上重、四手先組物、扇垂木 |
8 | 伽耶院 (がやいん) | 所在地 | 三木市志染町大谷410 0794-87-3906 | |||
周辺環境 | 志染町大谷にあり志染川をはさんで、志染の窟屋の反対側に このあたりでは数すくない修験道の寺。 伽耶院の前には川が流れていて、ここに露出した断層には、柱状節理の岩石が見られ、付近にはアジサイが植えられ、隠れたアジサイの名所です | |||||
歴史由緒 | 法道上人の開創と伝える天台宗寺院で、慶長十四年(1609)に焼失後、再興されたのが現在の伽藍である | |||||
創建 | 伝・大化元年(645年) 開基伝・法道仙人 | 山号 | 大谷山(おおたにさん) 宗派 本山修験宗 | |||
札所 | 新西国三十三箇所26番 | リンク | ||||
特長 | ||||||
体育の日は 関西一円の修験者が山伏姿で集まり全山にこだまするホラの音、 もうもうと立ちこめる煙の大護摩で 参拝者が各地から集まる | ||||||
文化財 | (重文)多宝塔 本堂 三坂明神社本殿 ・本尊毘沙門天立像:重文 藤原時代 開山堂:市指定 1656年 行者堂:市指定 1630年 |
建造物 | 本堂 | 建立 | 正保3年(1646年) | 指定年 | 昭和50年6月23日 |
様式形式 | 密教仏堂形式。 | 再建 | 確証附 | 附指定:宮殿1基 | |
平面形状 | 正面5間、側面5間 | 屋根 | 本瓦葺 元茅葺 | 屋根頂 | |
立面外観 | 寄棟造 | 壁・窓 | 外周縁 | ||
軒裏組物 | 出三斗 二軒繁垂木 | 中備 | 蓑束 | ||
内陣特長 | 内陣と外陣を格子戸と欄間で分ける | 彫刻 | 装飾 | ||
見所 | |||||
修理履歴 | 1985年(昭和60年)正徳修理後の姿を目途に復旧整備した。建物はすべて解体したが、内部の宮殿・須弥壇はそのままとした。柱礎石は壺掘りしてコンクリート地業の上に据付け、木部は古材を支障のない限り再用して補修を行い、取替材は補足加工して組立てた。内部の当初彩色は剥落止に留め、後補及び取替材には彩色を施した。屋根は本瓦葺を施工した。 | ||||
文化庁 説明文 | 本堂は慶長十五年 多宝塔は正保五年の建立になり 三坂明神社本殿もその頃の建立で当時の鎮守社 これらは近世再興時の主要建物でよく時代の特色を示している。なお、本堂内宮殿も同時代のものである |
建造物 | 多宝塔 | 建立 | 正保5年(1648年) | 指定年 | 昭和50年6月23日 |
様式形式 | 3間多宝塔 | 再建 | 確証附 | ||
平面形状 | 屋根 | 本瓦葺 | 屋根頂 | ||
立面外観 | 初重円柱 | 壁・窓 | 外周縁 | ||
軒裏組物 | 下層 二手先 二軒繁垂木 上層 二重四手先 二軒扇垂木 | 中備 | 蟇股・撥束 | ||
見所 | |||||
修理履歴 | 1985年(昭和60年)軸部はそのままとし、二重の軒・縁廻り・小屋組を解体し、木部の腐朽箇所を取替え、心柱は継木再用し、二重軒の垂下防止として、小屋組に補強金物を使用した。屋根は本瓦葺として、相輪・風鐸を復旧整備した。一・二重の亀腹は下地から塗替え、蟇股・連子窓に彩色を復した。 |
建造物 | 三坂明神社 | 建立 | 江戸時代前期 | 指定年 | 昭和50年6月23日 |
様式形式 | 三間社流造 | 再建 | 確証附 | ||
平面形状 | 庇正面1間、身舎側面1間 | 屋根 | 杮葺 | 屋根頂 | |
立面外観 | 壁・窓 | 外周縁 | 浜縁付 | ||
軒裏組物 | 出三斗 庇繁海老虹梁 | 中備 | |||
見所 | |||||
修理履歴 | 1985年(昭和60年)身舎布石と庇柱礎石はコンクリート地業の上据え直した。木部は腐朽・破損部材を補修または化学処理を施し極力再用した。また、軒の垂下防止として桔木を挿入した。屋根は在来の鉄板葺をこけら葺に復した。 |
9 | 歓喜院 | 所在地 | 三木市吉川町毘沙門557 0794-72-2397 | |
周辺環境 | 三木市吉川町の赤松山(190m)麓に建つ | |||
歴史由緒 | 赤松則村が築いた毘沙門城の後の城主 藤田氏が城の鎮守として建立したのではないかと伝わる。 | |||
創建 | 山号 | 赤松山 宗派:曹洞宗 | ||
札所 | リンク | |||
特長 | 聖天堂は覆い屋の中 窓から覗く 全体は、拝観予約が必要 | |||
文化財 | 聖天堂 |
建造物 | 聖天堂 | 建立 | 応永18年(1411) | 指定年 | |
様式形式 | 三間社流造 | 再建 | 確証附 | ||
平面形状 | 3間社、身舎側面2間 | 屋根 | 檜皮葺 | 屋根頂 | |
立面外観 | 庇繁虹梁・手挟 | 壁・窓 | 外周縁 | 縁束を支える腰組 | |
軒裏組物 | 出三斗 正面二軒背面二軒繁垂木 | 中備 | 浜床・浜縁付 | ||
修理履歴 | 1970(昭和45)年に解体修理 |
10 | 酒見寺 | 所在地 | 加西市北条町北条1319 0790-42-0145 | |||
周辺環境 | 北条町の街中にあり、住吉神社(の神宮寺)と隣接する。間には小さな池があり、石橋でつながっている。 | |||||
歴史由緒 | 天平17年(745年)酒見明神(住吉神社)の神託を受けた行基が聖武天皇に奏上し、酒見寺として開創 2度全山を焼失している。平治の乱での全山焼失(1159年)の際は二條院の勅により再建、天正年間(1573~92年)にも兵火で全山が焼失した。その後、江戸時代に入り、姫路城主となった池田輝政が姫路城の守護寺に定めて援助を行い、池田家の転封後は本多忠政の援助を受け、寛永年間(1624~43年)に幕府の命を受けた実相院降恵が再興した | |||||
創建 | (伝)天平17年(745年) 開基(伝)行基 | 山号 | 泉生山(せんしょうざん) 宗派 高野山真言宗 | |||
札所 | リンク | |||||
特長 | 境内は広く 楼門をはじめ大規模な極彩色の伽藍です。 | |||||
文化財 | (重要文化財)多宝塔 (県指定)鐘楼・梵鐘: 寛文4年 1664年、本瓦葺、入母屋造、高さ 約8.4m 極彩色 平成17年の解体修理 袴腰付鐘楼で和様を基調とし、部分的に唐様を混合 | |||||
楼門 - 加西市指定文化財、文政8年(1825年)再建。 三間一戸、入母屋造、本瓦葺、神田左衛門作 |
建造物 | 多宝塔 | 建立 | 寛文2年 1662年 | 指定年 | 1975.06.23(昭和50 |
様式形式 | 木造 層塔 | 再建 | 確証附 | 伏鉢の刻銘 | |
平面形状 | 三間三間 | 屋根 | 高さ15.4m | 屋根頂 | 相輪 |
立面外観 | 上重が桧皮葺 下重が本瓦葺 | 壁・窓 | 桟唐戸・連子窓、 | 外周縁 | 擬宝珠高欄を付した縁 |
軒裏組物 | 出組、二軒繁垂木 軒支輪 | 中備 | なし | 塗装 | 極彩色で全面塗装 |
見所 | ・上重、極彩色の四手先組物、扇垂木 ・屋根材料の違いは何故? 珍しいが | ||||
修理履歴 | 昭和51年~53年にかけて解体修理 塗装装飾の確証はあったのだろうか? | ||||
文化庁 説明文 | 多宝塔は相輪伏鉢の刻銘などから寛文二年の建立と思われる。 この塔は大型で安定した外観をもち、構造手法が正統的で古風なところが見られ、この時代の多宝塔としては重要な遺構である。 |
Author:masatias
30年続く寺社めぐりのメンバーです
<TIAS>グループ名称
Improvement of a spirit boundary
by Temple and shrine =<TIAS>