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寺社建築と文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源、歴史、文化財の紹介と文化財の問題点を探訪しています。 常時更新中です!
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8-9-8沖縄県の文化財探訪

8-9-8沖縄県

  8-9-8 沖縄県の文化財探訪
 沖縄県 文化財一覧表


名称・棟名区分時代年代概要重文指定所在地
1瀬底土帝君重文江戸後期江戸後期本殿、拝殿、庭、石段、炉、周囲及び区画の石垣(出入口二所を含む)よりなる19971203国頭郡本部町字瀬底南瀬底原56
2園比屋武御嶽石門重文室町後期正徳14(明)(1519)石造一間平唐門、左右石牆附属19720515那覇市首里真和志町1-7
3天女橋重文室町後期弘治15(明)(1502)石造単アーチ橋、高欄付19720515那覇市首里当蔵町1-2
4旧円覚寺放生橋重文室町後期弘治11(明)(1498)石造一間桁橋、高欄付 高欄親柱に大明弘治戊午歳春正月吉日建立の刻銘がある19720515那覇市首里当蔵町2-1
5玉陵 墓室重文室町後期弘治14(明)(1501)石造、切妻造、瓦葺、前壇及び階級附属19720515那覇市首里金城町1-3
6玉陵 墓室重文室町後期弘治14(明)(1501)石造、切妻造、瓦葺、前壇及び階級附属19720515那覇市首里金城町1-3
7玉陵 墓室重文室町後期弘治14(明)(1501)石造、切妻造、瓦葺、前壇及び階級附属19720515那覇市首里金城町1-3
8玉陵 石牆重文室町後期弘治14(明)(1501)四面一周、延長192.0m19720515那覇市首里金城町1-3
9玉陵 石牆重文室町後期弘治14(明)(1501)第一門を含む 中門左右延長41.2m19720515那覇市首里金城町1-3
10旧崇元寺第一橋及び石牆重文室町後期嘉靖6(明)(1527)以前石造三連アーチ門、左右石牆延長66.3m、各脇門一所を含む19720515那覇市泊1-9-1
11仲村渠樋川重文大正大正元(1912)石造井泉、いぎががー、いなぐがー、周囲水路、擁壁、拝所、広場、石畳(かーびら)よりなる19950627南城市玉城字仲村渠
12旧仲里間切蔵元石牆重文江戸中期享保(1716-1735)四面一周、延長177.5m、単アーチ門二か所を含む19720515島尻郡久米島町字真謝122
13豊見親墓(沖縄県平良市西仲宗根) 仲宗根豊見親の墓重文江戸後期江戸後期墓室、うりがー、周囲石垣よりなる19930420宮古島市平良西仲宗根3-4
14豊見親墓(沖縄県平良市西仲宗根) 知利真良豊見親の墓重文江戸後期江戸後期墓室、つんぷん、周囲石垣よりなる19930420宮古島市平良西仲宗根3-4
15豊見親墓(沖縄県平良市西仲宗根) あとんま墓重文江戸後期江戸後期墓室、周囲石垣よりなる19930420宮古島市平良西仲宗根3-4
16旧宮良殿内(沖縄県石垣市大川)重文江戸後期江戸後期桁行15.0m、梁間13.0m、寄棟造、本瓦葺、玄関及び台所附属19720515石垣市字大川178
17旧和宇慶家墓(沖縄県石垣市字大川宇志原)重文江戸中期17世紀後期頃石造墳墓 墓室部、内庭部、外庭部よりなる20000525石垣市字大川宇志原1117-1
18権現堂 神殿重文江戸後期天明6(1786)頃三間社流造、本瓦葺19810605石垣市字石垣285
19権現堂 拝殿重文江戸後期天明6(1786)頃桁行三間、梁間二間、一重、寄棟造、前後庇付、本瓦葺19810605石垣市字石垣285



               主要な文化財を詳述します。

 権現堂

 

寺社名

 権現堂

所在地

沖縄県石垣市字石垣285番地

周辺環境

権現堂は、薩摩藩が尚寧王に寺社の建立を進言したことから1614年(慶長19)に桃林寺(権現堂に隣接)と同時に創建されました。祭神は熊野権現を勧請したもので、八重山における寺社建立のはじめであり、貴重な文化遺産となっています。

 

歴史由緒

切妻造りの薬医門、室内に土間を取り込み両脇に祭壇を配した拝殿、棟上の火焔宝珠、竜頭等細部手法に特色をもつ神殿からなり、それぞれが軸線上に建造されています。御神体の宝鏡は銅製で琉球最古のものといわれ、ほかに木彫りの仏像も併祀されています。

 戦災で伝統的な建造物の多くを失った沖縄においては、本格的な近世社寺建築の唯一の遺構であり、また、我国の最南端に位置する遺構となっています。

 

創建

琉球八社と同様熊野権現を勧請

祭神

熊野権現

表門

切妻造りの薬医門

石牆

(石垣)

 

 

建造物

 神殿

建立

天明6頃 1786頃 

指定年

昭和56.06.05

様式形式

三間社流造

再建

 

確証附

なし

平面形状

 

屋根

本瓦葺

屋根頂

火焔宝珠 龍頭

立面外観

竜を刻んだ方立

 

外周縁

唐獅子登高欄

軒裏組物

牡丹の浮彫りを付けた棒状の肘木

中備

波と鬼の彫刻板蟇股

 

 

内陣特長

 

彫刻

 

妻飾

 

見所

近世社寺建築の唯一の遺構

修理履歴

1771年(明和8)の大津波により潰滅しましたが、1786年(天明6)に再建されました。その後、1882年(明治15)に神殿を改建、1910年(同43)に一部修復されました。太平洋戦争で大破しましたが、1947年(昭和22)に修復されました。また、1973年(同48年)、1978年(同53年)に部分修理が加えられ、1985年(同60年)、薬医門、拝殿、扉絵を含む神殿及び石牆(石垣)が修理されました。

 

文化庁

説明文

権現堂は慶長十九年(1614)に創建されたが、明和八年(1771)大津波のため破壊され、その後再建された。

 神殿は三間社流造の本殿で、細部手法に特色がある。牡丹の浮彫りを付けた棒状の肘木、波と鬼を彫った板蟇股、唐獅子をはめ込んだ登高欄、竜を刻んだ方立など、本土の神社建築にはあまり例をみない。拝殿と表門及び周囲の石牆も、沖縄地方独特の形式手法をもつ。

 戦災で伝統的な建造物の多くを失った沖縄においては、本格的な近世社寺建築の唯一の遺構であり、また、我国の最南端に位置する遺構でもある。

     

 

建造物

 拝殿

建立

天明6頃 1786頃

指定年

昭和56.06.05

様式形式

寄棟造

再建

 

確証附

表門 石牆

平面形状

桁行三間、梁間二間、一重

屋根

本瓦葺

屋根頂

 

立面外観

前後庇付

 

外周縁

 

修理履歴

 

文化庁

説明文

なし

 


 

 瀬底土帝君

 

寺社名

瀬底土帝君 せそことーていーくん

所在地

沖縄県国頭郡本部町字瀬底南瀬底原56番

周辺環境

瀬底島(せそこじま)は、沖縄県国頭郡本部町に属し、本部半島の西方沖約600mの東シナ海に位置する周囲8Kmの島で1992年対岸の健堅と橋で繋がれた。

歴史由緒

健堅親雲上が清国から木像を持ち帰り祀ったのが始まり。

 

土帝君とは中国の土地神のことです。瀬底の土帝君は1712年に、上間家の二世健堅親雲上(キンキンペーチン)が清国から木像を持ち帰り、祀ったのが始まりと伝えられています。フクギやハゼなどの自然林を背に、周りは野面積みの石垣で囲まれ、ミャー(庭)、アサギ(拝殿)、イビ(本殿)が軸線上に段差をつけて配置されています。本殿は切石の壁に漆喰が塗られ、赤瓦葺の屋根がのせられています。保存状態が極めてよく、土帝君信仰の建築形態を保つ貴重なものです。 

 

 

 

建造物

 瀬底土帝君

建立

江戸後期

指定年

平成9.12.03

様式形式

本殿、拝殿、庭、石段、炉、周囲及び区画の石垣(出入口二所を含む)

再建

 

確証附

 

見所

中国古来の土地神を祀る施設。自然林を背にしたサンゴ岩を用いて整然と区画された一画に、本殿、拝殿などが建つ。建設年代は不明であるが、本殿及び拝殿の軸部石組等の状態から18世紀中頃の造営と考えられる。

 

沖縄本島を中心に各地に存在する土帝君を礼拝する施設のうち最大級のもので、土帝君信仰に関する建造物の形態を良く保つ代表的な遺構として貴重なもの。森一帯を敷均にして三段にし、上段には土帝君祀を造って農神土帝君を祀り、中段に赤瓦屋根と石壁のアサギ(神を招いて祭祀を行う場所)、下段には砂利を敷いた広場がある。

 

修理履歴

2004年

文化庁

説明文

沖縄本島北部西側の本部半島西端にほど近い瀬底島にある中国古来の土地神を祀る施設。自然林を背にした珊瑚岩を用いて整然と区画された一画に、本殿、拝殿などが建つ。建設年代は不明であるが、本殿及び拝殿の軸部石組等の状態から18世紀中頃の造営と考えられる。沖縄本島を中心に各地に存在する土帝君を礼拝する施設のうち最大級のもので、土帝君信仰に関する建造物の形態を良く保つ代表的な遺構として貴重なものである。

本殿、拝殿、庭、石段、炉、周囲及び区画の石垣(出入口二所を含む)よりなる

 




 
園比屋武御嶽石門

 

寺社名

  園比屋武御嶽石門

所在地

沖縄県那覇市首里真和志町一丁目7番地

周辺環境

首里城歓会門と守礼門との間にある

歴史由緒

16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)がこの御嶽の礼拝所である。

園比屋武御嶽石門は、1519年に第二尚氏王統第3代王の尚真のときに造られた。オヤケアカハチの乱(1500年)で王府軍が八重山へ出兵した際に、将の一人であった大里親方に見込まれ首里に連れてこられた西塘により創建されたという。

1933年1月23日旧国宝に指定されたが、沖縄戦の戦禍によって王城などとともに荒廃し、指定解除。1957年に復元され、さらにその後旧石門の残欠を再利用して修復作業が行われた。現在の石門を注意深く見てみると、明らかに摩耗の度合いが異なる部分があるのは、このためである。園比屋武御嶽石門は1972年にあらためて国の重要文化財に指定され、2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録された。

 

また、西塘によって作られた竹富島の国仲御嶽は、園比屋武御嶽の神を勧請した御嶽である。

 

創建建立

正徳14(明) 西暦: 1519 

指定

昭和47.05.15  附指定 古材

概要

石造一間平唐門、左右石牆附属

文化庁

説明文

 園比屋武御嶽石門はかっては国王が外出のときここで旅路の安泰を祈願したといわれ、元來門としての機能をもつ建物ではなく、沖縄固有の原始宗教である御嶽を拝する場所である。戰前国宝に指定されていたが戰災で大破し、1957年旧位置に復旧された。石造平唐門の左右に短い石牆を付けた形式からなり木製の扉を構える。

この石門は御嶽信仰の遺構として最も完備した形式を示すとともにその意匠、構造もたくみである。 

 

 


  玉陵

 

寺社名

  玉陵 3棟  たまうどぅん

所在地

沖縄県那覇市首里金城町一丁目3番地

周辺環境

琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1526年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。なお「玉陵」と名付く墓所はほかに「伊是名玉陵」、「山川の玉陵」がある。

歴史由緒

玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨した。洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。

 

第二次世界大戦末期には、日本軍総司令部に近かった玉陵は首里城と共に集中砲撃の巻き添えに会い、東室・西室が破壊されるなど大きな被害を受けた。現在見られる大部分は第二次世界大戦後に復元されたものである。また第二次世界大戦で亡くなった旧制沖縄県立第一中学校(現・首里高等学校)の生徒を弔うための「一中健児の塔」などが近くに建立されている。

 

2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された他、全体が国の史跡、「玉陵」5棟(墓室3棟、石牆2棟)が国の重要文化財(建造物)、石彫獅子と玉陵碑が県の有形文化財(彫刻)に指定されている。

 

創建建立

弘治14(明) 西暦: 1501 

指定

 昭和47.05.15  附 石獅子  石碑 

概要

石造、切妻造、瓦葺、前壇及び階級附属

文化庁

説明文

弘治14年(1501)建設の墓室と石牆からなる尚円王統歴代の陵墓。墓室は、洗骨前の遺体を安置する中室、王と王妃の遺骨を安置する東室、その他王族の遺骨を安置した西室より構成され、その周囲を石牆で囲む。墓室正面は切石積で、中央に石扉を構える。意匠、構造に見所を持ち、沖縄における最大規模の墓の遺構。<br> 玉陵は沖縄における最大、最良の墓陵で建築としてもその意匠、構造に見るべきものがあり、また、石獅子をはじめとする石造彫刻や石碑も見事である。

 

石牆: せきしょう  四面一周、延長192.0m

石牆        第一門を含む 中門左右延長41.2m

 


    
         その他は、今後記載していきます。(未定)


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30年続く寺社めぐりのメンバーです
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