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寺社建築と文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源、歴史、文化財の紹介と文化財の問題点を探訪しています。 常時更新中です!
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8-9-1 長崎県の文化財

 8-9-2 長崎県の文化財 

 

 

 

  九州・沖縄 各県へのリンクです。

 

 8-9 九州・沖縄

福岡

長崎

佐賀

大分

熊本

宮崎

鹿児島

沖縄

 

 

 

 

 

8-9-2

  長崎県の建造物文化財の探訪

 

 

古くは肥前国(佐賀県と、壱岐・対馬を除く長崎県全域)、対馬国、壱岐国に分かれていたが、肥前の国府は佐賀県の佐賀市(旧大和町)にあった。  

 

 

 

 肥前国の施設

 

 

施設

施設名称

概要

国府

 

国府は、『色葉字類抄』によると、佐嘉郡にあった。現在の佐賀県佐賀市大和町惣座にあった。8世紀前半に造営され、そのまま移転せずに規模を変化させているが、10世紀に入ると急速に縮小していく。1975年(昭和50年)から1984年(昭和59年)までの発掘で政庁などの遺跡が発見された。易林本の『節用集』では、「小城郡に府」と記載がある。

 

国分寺

肥前国分寺跡

佐賀県佐賀市大和町大字久池井

国分尼寺

 

不詳

延喜式内社

 

大社1座1社・小社3座3社の計4座4社

 

名神大社

松浦郡 田嶋坐神社 (現 田島神社 佐賀県唐津市呼子町加部島)

 

  小社

松浦郡 志志伎神社 (長崎県平戸市野子古町)

基肄郡 荒穂神社 (佐賀県三養基郡基山町大字宮浦)

佐嘉郡 與止日女神社 (佐賀県佐賀市大和町大字川上)

総社・一宮

総社

 所在不明

 

一宮

與止日女神社 - 国衙と結びついていた。

千栗八幡宮 - 宇佐神宮を背景とした。

 

 

最も社格が高いのは田島坐神社であるが、一宮にはなっていない。一宮は中世以降、上記の2社が一宮を主張し並立した。二宮以下は不詳である。

 

 

 
  8-9-2 田島神社全景 20150705   8-9-2 田島神社肥前鳥居 20150705
    田島神社  全景                  田島神社 肥前鳥居

 

  8-9-2 與止日女神社 全景 20150705   8-9-2 與止日女神社 鳥居 20150705
    與止日女神社全景                  與止日女神社 肥前鳥居


 

2

 対馬国の施設

 

 

施設

施設名称

概要

 

 

魏志倭人伝には「対馬国」が倭国の1国として登場し、邪馬台国に服属したことが記されている。

国府

 

国府は下県郡にあった。現在の対馬市厳原町国分の対馬市役所(旧厳原町役場)付近と推測されているが、未だ遺跡は見つかっていない

国分寺

対馬島分寺

金石城(厳原城)の位置がこれに比定される。

金石城跡の発掘調査によって島分寺の伽藍配置などが解明されつつある。

755年(天平宝字7年)、国・島講師(正確には国・島師)が廃され、復されて島分寺に講師が置かれたのは855年(斉衡2年)であっ
 1468年(応仁2年)、対馬府中に居をかまえた宗貞国が弟の甫庵宗睦に国分寺復興を命じ、古代島分寺跡の山際に再建されたと推定されている。

これは、江戸時代に入って1665年(寛文5年)に宗義真が金石城を拡張した際に日吉へ移された。さらに1863年(文久3年)になって、以酊庵と振り替わって厳原町天道茂の現在地に移されたのが釈迦如来を本尊とする現存国分寺である

国分尼寺

 

島分尼寺(国分尼寺)については詳細不明である

延喜式内社

 

大社6座6社・小社23座23社の計29座29社

 

名神大社

上県郡 和多都美神社 - 和多都美神社(対馬市豊玉町)または海神神社

           (対馬市峰町木坂)に比定。

上県郡 和多都美御子神社 - 和多都美御子神社(対馬市豊玉町)ほか

             論社3社。

下県郡 高御魂神社 (対馬市厳原町)

下県郡 和多都美神社 - 八幡宮神社(対馬市厳原町)または

           乙和多都美神社(対馬市厳原町)に比定。

下県郡 太祝詞神社 (対馬市美津島町)

下県郡 住吉神社 (対馬市美津島町け知) - 住吉神社は元来大阪湾周辺

   の海神であったと考えられるが、対馬の住吉神社もまた神功皇后
   の
羅出兵伝承と不可分なかたちで語り継がれてきたものである

 

総社・一宮

総社

不詳

 

一宮

海神神社

 

二宮以下は存在なし

 

 

 

 

 

3

 壱岐国の施設

 

 

施設

施設名称

概要

国府

 

国府は石田郡にあった。壱岐市芦辺町湯岳興触の興神社付近ではないかと推測されるが、他にも場所は諸説あり遺跡もまだ見つかっていない。

国分寺

壱岐国分寺跡

長崎県壱岐市芦辺町中野郷西触。

国分尼寺

 

不詳

延喜式内社

 

大社7座7社・小社17座17社の計24座24社

 

名神大社

壱伎郡 住吉神社 (壱岐市芦辺町)

壱伎郡 兵主神社 - 八幡神社(壱岐市勝本町)ほか論社1社。

壱伎郡 月読神社 - 八幡神社(壱岐市芦辺町)ほか論社1社。

壱伎郡 中津神社 - 聖母宮(壱岐市勝本町)ほか論社1社。

石田郡 天手長男神社 - 興神社(壱岐市芦辺町) ほか論社1社。

石田郡 天手長比売神社 - 現在は天手長男神社に合祀。

石田郡 海神社 - 名神大社ではない。

 

 

小社

 

総社・一宮

総社

所在不明

 

一宮

天手長男神社または興神社

 

二宮

聖母宮

 

 

 

 

 

4

 長崎県の「寺院」建造物の文化財探訪

 

 

 

 

名称・棟名

区分

年代

概要

重文指定

所在地

1

興福寺 本堂

(大雄宝殿)

重文

明治16(1883)

桁行三間、梁間四間、もこし付、
 切妻造、本瓦葺

19330123

長崎市寺町4-32

旧唐人屋敷門

重文

江戸中期

桁行一間梁間一間、切妻造、本瓦葺

19610607

興福寺境内

2

崇福寺 護法堂

重文

享保16(1731)

桁行三間、梁間五間、入母屋造、本瓦葺

19100829

長崎市鍛冶屋町7-5

崇福寺 三門

重文

嘉永2(1849)

桁行三間梁間二間、入母屋造、 本瓦葺

19060414

崇福寺 鐘鼓楼

重文

享保13(1728)

桁行三間、梁間二間入母屋造、本瓦葺

19100829

崇福寺大雄宝殿

国宝

正保3(1646)

桁行五間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺

19060414
19530331

崇福寺第一峰門

国宝

寛永21(1644)

四脚門、入母屋造、本瓦葺

崇福寺 媽姐門

重文

寛文6(1666)

三間三戸八脚門、入母屋造、桟瓦葺

19720515

3

聖福寺大雄宝殿

重文

元禄10(1697)

桁行三間梁間四間、入母屋造、本瓦葺

20140918

長崎市玉園町3-77

聖福寺 天王殿

重文

宝永2(1705)

桁行三間、梁間三間 入母屋造、本瓦葺

聖福寺 鐘楼

重文

享保元(1716)

桁行三間、梁間三間 入母屋造、本瓦葺

聖福寺 山門

重文

元禄16(1703)

桁行三間、梁間二間 切妻造、本瓦葺

4

清水寺 本堂

重文

寛文8(1668)

桁行五間、梁間五間入母屋造、本瓦葺葺

20101224

長崎市鍛冶屋町8-43

 

 

 

 

1

  興福寺

所在地

電話

長崎市寺町4-32

095-822-1076

環境・周辺

 

歴史

1624年(寛永元年)に中国僧の真円により創建された。崇福寺・福済寺とともに長崎三福寺の一つに数えられる。本寺には、浙江省・江蘇省出身の信徒が多いため、南京寺とも称せられた。黄檗宗の開祖隠元隆琦ゆかりの寺院

創建

1624年(寛永元年) 開基 真円 

山号

東明山    あか寺、南京寺

札所

 

リンク

 Wiki   HP

概要

浙江省、江蘇省など南京地方出身の人たちが建立し、「南京寺」ともいわれています。

 当時は国際都市長崎の市民の6人に1人は中国人で、キリシタンでないことを明らかにするためにも出身地ごとに唐寺を建てたそうです。

 

重文

大雄宝殿  ・旧唐人屋敷門(長崎市の所有)

他の文化財

山門  ・媽姐堂(天海司命堂)  ・鐘鼓楼  ・瑠璃燈  ・三江会所門

中島聖堂遺構大学門(長崎市所有) ・黄檗開祖国師三幅対 ・本堂の仏像群

・ 聯額  ・梵鐘

 

   8-9-2 興福寺長崎本堂20150705

 

 

1-1

 本堂 (大雄宝殿)

建立

明治16 : 1883 

指定年

昭和8.01.23

建築様式

切妻造、本瓦葺

再建

 

確証附

なし

平面規模

桁行三間、梁間四間

屋根

本瓦葺

妻面

 

立面外観

もこし付

壁・窓

 

外周

 

軒裏組物

 

中備

 

 

 

内陣

 

リンク

 

特長

元禄2年(1689)再建、慶応元年(1865)暴風で大破したため、明治16年(1883)再建

され現在に至る。

材料は中国で切り込み、中国から招いた工匠が作った純中国式建築。

柱や梁には巧緻な彫刻、 とくに、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井、大棟の瓢瓶

(ひょうへい・災害が振りかかると瓢瓶が開いて水が流れ、本堂を包み込むという意が

 火除けのおまじない)高さ1.8mなどが珍しい。

ポイント

 

修理履歴

 

文化庁

解説文なし

 

   8-9-2 興福寺旧唐人屋敷門20150705

 

 

1-2

 旧唐人屋敷門

建立

江戸中期  1661-1750 

指定年

昭和36.06.07

建築様式

切妻造

 

長崎市の所有

確証附

なし

平面規模

桁行一間、梁間一間

屋根

本瓦葺

妻面

 

立面外観

 

壁・窓

 

外周

 

軒裏組物

 

中備

 

 

 

内陣

 

リンク

 

特長

旧唐人屋敷門寛永18年(1641)出島にオランダ人が収容されたが、約50年後、市

内に散宿していた唐船主以下中国人も民宿を禁じられ、元禄二年(1689)、十善寺郷

(現在の館内町)に収容された。

 

この処置は、密貿易を防ぐためともいわれたが、外出は比較的自由で、約一万坪の広大な

敷地内には住宅、店舗、祀堂などが軒を連ね一市街地を形成し、唐館あるいは唐人屋敷と

呼ばれた。

当時の建物は大火や移転などで何一つ残っていないが、この唐人住宅門だけが民家の通用

門として遺存していたのを、昭和三十五年、保存のため中国にゆかりの深い興福寺境内に

復元した

 

ポイント

扉は二重で内門は貴人来臨専用だった。用材は中国特産の広葉杉、柱上部の藤巻、脂肘

木、鼻隠坂、懸魚などに中国建築特有の様式が見られる。

 

建築年代は不明だが、天明4年(1784)の唐館全焼の大火以降のものと推定される。

修理履歴

 

文化庁

解説文

もとの長崎唐人屋敷にあった門であって、中国南部の建築様式をもっているので日本では

珍らしい。 江戸時代。

 

 

 

 

 

2

  崇福寺

所在地

電話

長崎市鍛冶屋町7-5

095-823-2645

環境・周辺

興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられる。

歴史

寛永6年(1629年) 長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から超然

を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。

福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や支那寺と称せられた

創建

寛永6年(1629年) 開基 超然

山号

聖寿山

札所

 

リンク

  wiki

概要

 

重文

絹本著色仏涅槃図 呉彬筆 明・万暦38年(1610年)

他の文化財

 

 

   8-9-2 崇福寺護法堂20150705    8-9-2 崇福寺大雄宝殿ー礎盤20150705

 

 

2-1

  護法堂
 (関帝堂又観音堂)

建立

 享保16 : 1731

指定年

明治43.08.29

建築様式

入母屋造

再建

 

確証附

なし

平面規模

桁行三間、梁間五間

屋根

本瓦葺

妻面

 

立面外観

 

壁・窓

 

外周

 

軒裏組物

 

中備

 

 

 

内陣

 

リンク

 

特長

長崎の福済寺(原爆焼失)・聖福寺・宇治の黄檗山萬福寺には天王殿があり、弥勤(布

袋)と韋駄天が背中合わせに置かれ、左右を通り抜ける門の形式を有し、大雄宝殿の前に

配置する。これは黄檗寺院の特徴の一つである。

当寺のこの堂は韋駄天を祀り、柱割りも天王殿形式に類似するが、背面を壁にして普通の

仏殿となっているのは、地形の関係上門にできなかったからであろう。大梁下面の墨書に

より享保16年(1731)の建立と知る。

 柱上部の籐巻・挿肘木・扇垂木・半扉・黄檗天井などに黄檗様式があり、柱礎石の彫刻模

様も中国工匠の作と思われるが、妻飾りは和様で日本人工匠の参加が看取される

 

ポイント

 

修理履歴

 

文化庁

解説文なし

 

   8-9-2 崇福寺山門 20150705

 

 

2-2

 三門(楼門)

建立

嘉永2 : 1849 

指定年

明治39.04.14

建築様式

入母屋造

再建

 

確証附

なし

平面規模

桁行三間、梁間二間

屋根

本瓦葺

妻面

 

立面外観

左右脇門付

壁・窓

 

外周

 

軒裏組物

 

中備

 

 

 

内陣

 

リンク

 

特長

1673年(寛文13)に創建された当時は、三間一戸八脚門入母屋造り単層で、現在のものとは
全く形の異なるものであった。

1766年(明和3)長崎大火によって焼失。その後再建された門は、1826年(文政9)の台風に

よって倒壊。

現在の三門は、游龍彦十郎・鄭幹輔の発願によって1849年(嘉永2)に再建されたもので、

日本人棟梁大串五良平の手による。

 

ポイント

基部は石の練り積み漆喰塗り。これに屋根を架し、その上に入母屋屋根の上層をのせ、勾

欄をめぐらした楼門形式で、左右脇門は漆喰塗基部に瓦屋根をのせている。

修理履歴

 

文化庁

解説文なし

 

   8-9-2 崇福寺鐘鼓楼 20150705

 

 

2-3

  鐘鼓楼

建立

享保13 : 1728 

指定年

明治43.08.29

建築様式

入母屋造

再建

 

確証附

なし

平面規模

桁行三間、梁間二間

屋根

本瓦葺

妻面

 

立面外観

 

壁・窓

 

外周

 

軒裏組物

 

中備

 

 

 

内陣

 

リンク

 

特長

重層の上階に梵鐘を吊り太鼓を置く。即ち鐘楼と鼓楼を兼ねる。

中国で材を切組み、唐船で舶載し建立したというが、享保13年(1728)の年号と木匠頭

荒木治右衛門の墨書がある。妻の懸魚や破風等の細部に和風様式が混入しているのは、棟

梁が日本人のためであろう。

上層は,梵鐘や太鼓の音を拡散させるために、丸窓・火灯窓等の開放された開口部が多

い。柱上部籐巻・挿肘木・鼻隠板など他と共通する特徴があり、軒裏軒下を除き、雨がか

り部の朱丹塗りも、隣接の護法堂に同じである。

なお創建時の鐘鼓楼は八(六?)角円堂の重層建物で、書院前庭の南隅にあった。

 

ポイント

 

修理履歴

 

文化庁

解説文なし

 

   8-9-2 崇福寺大雄宝殿20150705   8-9-2 崇福寺大雄宝殿逆宝殊20150705

 

 

2-4

 大雄宝殿 国宝

建立

正保3 : 1646 

指定

昭和28.03.31

建築様式

入母屋造

再建

 

確証附

 

平面規模

桁行五間、梁間四間

屋根

本瓦葺

妻面

 

立面外観

 

壁・窓

 

外周

 

軒裏組物

 

中備

 

 

 

内陣

 

リンク

 

特長

釈迦(大雄)を本尊とする大雄宝殿は、大檀越(有力な財物施与者)何高材の寄進によ

り、中国で切組み唐船で運び正保3年(1646)上梁建立された。

当初は単層屋根。35~6年後の延宝天和の頃、外観重層を付加し現在の姿となった。

下層部分は軒回りの逆凝宝珠束の持送りや、前廊部分が俗に黄檗天井と呼ばれるアーチ型

の天井であるなど、中国建築様式であるのに対して、上層部の建築細部様式は和様を基調

とし、しかも両者は違和感なく調和している。

この上層部の意匠は福済寺大雄宝殿(原爆焼失)のそれに類似する。

 

ポイント

 

修理履歴

 

文化庁

解説文

崇福寺は寬永六年支那僧超然の創建にかゝり、大雄宝殿はその本堂で正保三年に建立され

た。上の重は元禄時代に附加され和様の手法が濃厚である。

 

   8-9-2 崇福寺第一峰門 20150705

 

 

2-5

  第一峰門 国宝

建立

寛永21 : 1644 

指定年

昭和28.03.31

建築様式

四脚門、入母屋造

再建

 

確証附

なし

平面規模

 

屋根

本瓦葺

妻面

 

立面外観

 

壁・窓

 

外周

 

軒裏組物

 

中備

 

 

 

内陣

 

リンク

 

特長

唐門・海天門・二の門・中門・赤門ともいわれている。中央に即非禅師の書である「第一

峰」の扁額がある。当初はここが第一門であったが、この下段西向きに、新たに三門(楼

門・竜宮門)が建立され、ここは二の門となるが第一峰門という。

軒下の構造組物に特徴があり、四手先三葉栱と呼ばれる複雑巧緻な詰組は他には例がな

く、華南地方にも稀という。垂木を平に使った二軒の扇垂木・鼻隠板・挿肘木・柱上部の

籘巻等は寺内他の建物にも見られる。軒下軒裏には極彩色の吉祥模様を施し、雨がかり部

分は朱丹一色塗にしてある。当初はここが山門であったが、延宝元年(1673)この下段西向

きに、新たに三門が建立されて、ここは二の門となった。

・なお、1655年に隠元を迎えたときの山門は、この第一峰門

ポイント

・四手先三葉栱と呼ばれる複雑巧妙な詰組

・ 第一峰門の扉には青い蝙蝠(こうもり)と牡丹の花

修理履歴

 

文化庁

解説文

第一峰門もまた同時頃の建立で、大雄宝殿の初重と共に江戸時代初めに輸入された明末清

初建築の影響著しいものとして文化史上重要である。

 

   8-9-2 崇福寺媽姐門 20150705

 

 

2-6

  媽姐門 まそ

建立

寛文6 : 1666

指定年

昭和47.05.15

建築様式

三間三戸八脚門

再建

 

確証附

なし

平面規模

 

屋根

入母屋造、桟瓦葺

妻面

 

立面外観

 

壁・窓

 

外周

 

軒裏組物

 

中備

 

 

 

内陣

 

リンク

 

特長

媽祖堂の前にあり大雄宝殿と方丈玄関をつなぐ渡廊下を兼ねた巧みな配置になっている。

現在の媽祖門(媽祖堂門)は文政10年(1827)再建されたもの。

媽祖は、ぼさ(菩薩)ともいい、ぼさ門とも呼ばれる。八脚門3間3戸形式で、扉の前面は

黄檗天井、背面は山形天井。木割が大きく、外観は雄大。

細部に僅かの塗料を用いるほかすべて素木のままとし、建築様式は大体和様が基調であ

る。興福寺媽祖堂には門がなく、福済寺では観音堂が媽祖堂にあたるが、これには門があ

った。聖福寺及び宇治の黄檗山萬福寺には媽祖堂がない。

媽祖堂の門というのは、その意味でも数少ない遺例である。

ポイント

 

修理履歴

 

文化庁

解説文

崇福寺は長崎の唐三箇寺の一つで、禅宗黄檗派の寺院として夙に知られる。媽姐門は菩薩

門とも呼ばれ、三間三戸の三棟造の八脚門形式になる。 前面は黄檗系の建物によくみら

れる輪垂木の化粧屋根裏とし、意匠的にもみるべきものがある。

崇福寺の伽藍景観を形成する一要素として重要な建物である。

 

 

 

 

 

3

  聖福寺

所在地

電話

長崎市玉園町3-77

 

環境・周辺

聖福寺は,長崎市街北辺の山麓に所在する黄檗宗の禅宗寺院である

歴史

日本に黄檗宗を伝えた隠元の孫弟子に当たる鉄心道胖を開山として、長崎奉行の後援や在崎唐人、鉄心の母の実家である地元豪商西村氏などの出資を得て1677年(延宝5年)に建立された

創建

延宝五年(1677)開山鉄心道胖

山号

万寿山

社格・札所

 

リンク

  wiki

概要

境内南の下段に山門を構え、曲折する石段を登ると境内の上段に至る。南面する天王殿と北奥に建つ大雄宝殿が南北軸を構成し、大雄宝殿東側に方丈および庫裏、西側に開山堂を配し、天王殿西側に鐘楼が東面して建つ。大雄宝殿、天王殿、山門が昭和361124付で、鐘楼が平成26325日付で長崎県指定有形文化財に指定されている。

 

文化庁

詳細解説


聖福寺は、大雄宝殿と天王殿を軸とした殿堂で中庭を囲むという、禅宗寺院特有の伽藍配
置をよく継承している。

18世紀初頭までに一連で造営された殿堂は、黄檗様の特徴を具備しつつも、平面形式や架構、細部意匠に独自の工夫が発揮され、柔軟かつ創意に富んだ意匠をもつものとして高く評価できる。またこれらの造営には長崎と堺の工匠が携わっていたことが判明しているが、同じ長崎の崇福寺などとは造形に差異が認められ、わが国における黄檗宗寺院の建築様式の受容と進展を理解する上で、深い意義を有している。

【参考文献】

『美原町史紀要「美原の歴史」特別号 黄檗宗寺院の伽藍計画に関する研究』(美原町教育委員会 1983年)『長崎県指定有形文化財聖福寺調査報告書』(聖福寺2013年) 

 

他の文化財

 

 

   8-9-2 聖福寺大雄宝殿20150705  

 

 

3-1

  大雄宝殿

建立

元禄10 : 1697 

指定年

平成26.09.18

建築様式

入母屋造

再建

 

確証附

棟札

平面規模

桁行三間、梁間四間

屋根

本瓦葺

妻面

 

立面外観

北面切妻屋根付

石製礎盤に几帳面取角柱

壁・窓

桟唐戸、背面中央間を格子戸引違い

外周

逆蓮柱間に卍崩し

の木柵

軒裏組物

二軒繁垂木 三斗

中備

蟇股 間斗束

 

 

ポイント

 

修理履歴

 

文化庁

解説文


聖福寺は,長崎市街北辺の山麓に所在する黄檗宗の禅宗寺院である。

境内奥に建つ大雄宝殿と前面の天王殿を軸として,鐘楼や方丈などの殿堂で中庭を囲むと

いう禅宗寺院特有の伽藍配置をよく継承している。

大雄宝殿は元禄10年(1697)建築で,前面を吹放して黄檗天井をあらわすなど,随所に

黄檗宗寺院の建築様式の特徴を有している。

 

天王殿,鐘楼,山門も同様の特徴を具備しつつ,平面形式や架構,細部意匠に独自の工夫

が発揮されており,価値が高い。伽藍の造営には地元長崎と堺の大工が造営に携わってい

るが,同じ長崎の崇福寺などとは造形に差異が認められ,我が国の黄檗宗寺院における建

築様式の受容と進展を理解する上で,深い意義を有している。

 

文化庁

詳細解説

大雄宝殿は、棟札より元禄十年(1697)に、長崎大工の楠原與右衛門が棟梁で、31名
大工を擁して建てたことがわかる。

桁行三間、梁間四間を本体とし、後端間を後方に半間拡張した平面で、さらに背面中央間

を後方に半間分張り出している。また西側面第三間には仏壇を張り出し、媽祖を祀る。

 

屋根は入母屋造本瓦葺で、棟に鯱と宝珠を飾り、四周に下屋を廻らして二重とし、背面仏

壇上に切妻屋根を架ける。軒は上下重とも二軒繁垂木、妻壁は竪板張目板打とする。

上重の軸部は、内部で建て登らせた四本柱の外側に別構造として組む形式で、外観を方三

間に見せ、三斗を組み、中備は正面蟇股、ほかを間斗束とする。

 

 吹放しの前一間通りは、矩形隅丸の黄檗様石製礎盤に几帳面取角柱を立てて虹梁で繋

ぎ、正面中央間の虹梁を鯱彫刻、両脇間の虹梁を植物紋彫刻の持送りで支持する。

組物は実肘木付三斗組で、中備は正面が蟇股、側面を間斗束とする。

天井は虹梁上に唐草を陽刻した台座を置いて束を立て、二筋の天井桁の間に輪垂木を並べ

て天井板を張り、いわゆる黄檗天井を構成する。正面両脇にコ字形に廻らす高欄は、逆蓮

柱間に卍崩しの木柵を入れる。土間はモルタル塗で四半敷風に目地を切る。

 

 三間四方の内部は土間の一室で、中央間の奥に高大な仏壇を構えて釈迦如来を祀り、背

面両隅に花頭枠の脇壇を備える。中央の太いケヤキの四本柱を建て登らせ、矩形断面の梁

で固めて台輪を廻らし、三斗を置いて格天井を張り、周囲は化粧屋根裏とする。側廻りは

礎盤上に立てたヒノキの角柱を貫と虹梁で固め、側柱と四本柱を虹梁で連結する。

正面入側通りと両側面第二間には桟唐戸をたて、背面中央間を格子戸引違い、東側面第三

間を窓とするほかは、土壁と板壁である。 

 

 

   8-9-2 聖福寺天王殿20150705

 

 

3-2

  天王殿

建立

宝永2 : 1705 

指定年

平成26.09.18

建築様式

入母屋造、

再建

 

確証附

棟札

平面規模

桁行三間、梁間三間

屋根

本瓦葺

妻面

木連格子 蕪懸魚

立面外観

石製礎盤に几帳面取角柱

壁・窓

 

外周

 

軒裏組物

二軒繁垂木 三斗

中備

蟇股 間斗束

 

鯱彫刻の持送り

ポイント

 

修理履歴

 

文化庁

詳細解説

天王殿は棟札により宝永二年(1705)の建立で大工は堺の藪本次兵衛ほか7名とわかる。

 

桁行三間、梁間三間で、屋根は入母屋造本瓦葺、軒は二軒繁垂木で強い反りをもち、妻飾

を木連格子とし、破風拝みに蕪懸魚を吊る。中央間の後方二間分を前後二室につくり、前

面に弥勒菩薩、背面に韋駄天を背中合わせに祀り両脇間を通路とする特異な平面になる。

 

 軸部は、石製礎盤に几帳面取角柱を立てて虹梁や貫で固め、柱上に三斗を置き、中備は

虹梁上に蟇股、頭貫上に間斗束を配する。正面は桁行に三間梁を渡して中柱二本を省き、

梁両端に鯱彫刻の持送りを付す。前面一間は、天井桁一本を虹梁上の蟇股で受ける形式の

黄檗天井とし、後方二間は格天井とする。柱間装置は、中央間の後方二間分では、正面

下半を格狭間付きの板戸、上半を格子とし、両側面を土壁、背面は下半を格子戸、上半を

格子とする。両脇間は第二柱筋に両開き板戸を吊る。土間は四半石敷である。

 

 

   8-9-2 聖福寺鐘楼20150705 

 

 

3-3

 鐘楼

建立

享保元 : 1716

指定年

平成26.09.18

建築様式

入母屋造、

再建

 

確証附

棟札

平面規模

桁行三間、梁間三間

屋根

本瓦葺

妻面

木連格子

立面外観

石製礎盤に角柱

壁・窓

桟唐戸、花頭窓

外周

禅宗様高欄付の縁

軒裏組物

二軒繁垂木 出組

中備

蓑束

 

 

ポイント

 

修理履歴

 

文化庁

詳細解説

鐘楼は、棟札より享保元年(1716)の建立で、泉南大工の藪次兵衛と崎陽大工の楠原與右

衛門が棟梁、二階建、入母屋造本瓦葺である。

 三間四方の一階は、前一間通りを吹放し、後方二間は一室でモルタル塗土間とする。

軸部は石製礎盤に角柱を立て、正面三間に虹梁を渡し、他は内法貫、頭貫などで固める。

桁は大斗上の通肘木で受け、中備に絵様肘木を入れる。

正面中央間には桃や唐草の彫刻で飾った桟唐戸、両脇間には花頭窓を設ける。

北側面は中央間を土壁、西間を戸口、背面中央間を板壁、ほかはガラス窓引違いとする。

前一間は鏡天井、内部は棹縁天井で、軒は二軒繁垂木とする。

 

 二階は正方形平面で禅宗様高欄付の縁を廻らせる。

四隅に角柱を立てて頭貫と台輪で固め、四面中央の開口部を板戸引分けとし、方立と隅柱

の間を板壁とする。組物は出組で中備蓑束とし、内部は井桁に組む梁上に天井板を張り、

中央に梵鐘を吊る。軒は二軒扇垂木で隅を大きく反らせて軽快にみせ、妻飾は木連格子と

する。

 

 

   8-9-2 聖福寺山門20150705

 

 

3-4

  山門

建立

元禄16: 1703 

指定年

平成26.09.18

建築様式

切妻造段違

再建

 

確証附

棟札

平面規模

桁行三間、梁間三間

屋根

本瓦葺

妻面

 

立面外観

石製礎盤に几帳面取角柱

壁・窓

藁座吊両開き板戸

外周

 

軒裏組物

二軒繁垂木

中備

蟇股

 

大瓶束に笈形

ポイント

 

修理履歴

 

文化庁

詳細解説

山門は天王殿と同じ堺大工の藪本次兵衛を棟梁として元禄十六年に建立されたとみられる

桁行三間、梁間二間で、屋根は中央間が一段高い切妻造段違、本瓦葺とし、軒は二軒繁垂

木とする。棟通りの各間に藁座吊の両開き板戸を設け、土間を四半石敷とする。

 

 軸部は、石製礎盤に几帳面取角柱を立て、中央間は、正背面に虹梁と頭貫を渡し、棟通

りは貫と虹梁を交互に四段重ねとし、大瓶束で棟木を受ける。

中備に蟇股をおき、最上段は大瓶束に笈形を付して飾る。

また両脇間では、正背面に虹梁を渡し、棟通りは貫と虹梁を交互に三段重ね、中備は蟇股

または間斗束とする。

両側面は虹梁と海老虹梁を重ねて柱を固める。大雄宝殿と同様に、正面中央間の虹梁は鯱

彫刻、両脇間は植物紋彫刻の持送りで支持し、また横架材両端には根肘木を多用する。

同形式の遺構の中でも、雄大な規模と充実した意匠をもつ。

 

 

 

 

 

 

4

  清水寺 きよみず

所在地

電話

長崎市鍛冶屋町8-43

095-823-3319

環境・周辺

清水寺は長崎市街東方の風頭山麓に所在する真言宗寺院

歴史

崇福寺大雄宝殿の建立を一手寄進した唐商何高材は、寛文6年(1666)69歳にして妻(日本人)を亡くし、その年榎津町(現在の長崎市万屋町と鍛冶屋町の一部)の木橋を石造アーチ橋に改架した(寛政7年(1795)崩流)。また息子の兆晋(ちょうしん)・兆有(ちょうゆう)と共にこの清水寺本堂の建立も寄進し、寛文8年(1668)10月に落成した。亡妻亡母の供養のためであったといわれる。

 

創建

京都の清水寺の僧、慶順

元和九年(1623)創建

山号

長崎山

社格・札所

 

リンク

  HP

概要

境内は高石垣により上下二段に分かたれ、下段は南端の石段側に中門を開き、中央に聖天堂(1851年建築)が建つ。また上段は石段上部に石門を構え、石門の南北に鐘楼と本堂が配置され、北東側に大師堂(1760年建築)と客殿が並び建つ。

 現在の本堂の建つ位置には、創建後、寛永四年(1627)に前身本堂が建立されていた。その後、寛文八年(1668)に中国人商人の何高材の寄進により再建されたのが現在の本堂で、昭和57年長崎県指定有形文化財に指定された。

 

黄檗天井・平垂木等黄檗寺院建築様式が混入しているのは何父子が建立に関係したためと考えてよかろう。

唐商は航海安全祈願の意味で観音信仰が深く、当寺は本尊が千手観音であったからここにも寄進したのであろうが、唐寺(とうでら)以外の寺院建築の黄檗様式混入は珍しい。

 

重文

・重建清水寺紀縁 石碑(国指定重要文化財)

・不動明王三童子像(国指定重要文化財)

他の文化財

 

 

   8-9-2 清水寺本堂 長崎 20150705   8-9-2 清水寺本堂-2 長崎 20150705  

 

 

4-1

  本堂

建立

寛文8 : 1668 

指定年

平成22.12.24

建築様式

入母屋造

再建

 

確証附

石碑  厨子 

平面規模

桁行五間、梁間五間

屋根

本瓦葺 しころ葺

妻面

大瓶束 海老虹梁

立面外観

 

壁・窓

 

外周

 

軒裏組物

一軒疎垂木

中備

 

 

 

ポイント

 

修理履歴

 

文化庁

解説文

清水寺は元和9年(1623)に創建された真言宗寺院で、本堂は、中国人商人であった何高材

(かこうざい)の寄進により寛文8年(1668)に建立された。

 平面は、桁行、梁間とも5間で、中央部の前側を外陣、後ろ側を内陣とし、周囲を吹き

放しの下屋とする。屋根は入母屋造、本瓦葺である。

 清水寺本堂は、周囲を吹き放しとする平面形式や外陣の黄檗天井、下屋虹梁上の彫刻付

台座など、黄檗宗寺院仏堂の独特の細部意匠を持つ建築として高い価値がある。また長崎

県下における最古の密教系寺院本堂としても重要である。

 

文化庁

詳細解説

本堂は西面し、桁行五間、梁間五間、入母屋造、本瓦葺のしころ葺とし、南側面に桟瓦葺

の張出しを設ける。

 平面は、方三間の本屋を板敷として、前面一間通りを吹放しの外陣、奥の二間を一段高

い内陣とし、周囲を吹放しの下屋とする。内陣は、後方の半間通りを仏壇として中央間に

禅宗様須弥壇をつくり、厨子を安置する。外陣の正側面に切目縁を廻らし、下屋は切石の

四半敷とする。また内陣南側面の張出し部分には間仕切を設けて、座敷や表間など四室を

配する。

 軸部は、本屋では円柱を貫・長押で固め、内陣では仏間前面に架け渡した虹梁を、三段

の挿肘木で支持する。内外陣境には半蔀を吊り、両側面前間は板戸を建て、天井は格天井

を張る。

 外陣では、梁行に架けた虹梁上に、花唐草を陽刻した台座を置いて束を立て、虹梁を介

して天井桁を二列支持し、輪垂木を並べて天井板を張る、いわゆる黄檗天井を構成する。

 このような独特な天井の構成や細部意匠は、隣接する黄檗宗寺院である崇福寺の建物と

類似しており、同寺との技法的な関連が認められる。

 本堂の下屋柱は折入れ面取の角柱を石製礎盤上に立てて上部を虹梁で固め、本屋柱とも

虹梁で繋ぐ。虹梁上には外陣同様に台座を置いて円束を立て、三斗組を介して母屋を受け

る。

 軒は、本屋では一軒疎垂木で鼻隠しを付け、下屋は一軒繁垂木で、垂木を五平に使い、

同じく鼻隠しを付ける。妻飾は前包に大瓶束を立て、左右に海老虹梁を付す。

 内陣の厨子は延宝二年(一六七四)の造立になり、桁行一間、梁間一間、正面入母屋

造、木瓦葺である。組物は三斗組で中備蟇股、軒は二軒繁垂木とする。正面に桟唐戸を吊

り、柱や長押などを錺金具などで飾る。

  清水寺本堂は、開放的で独特な形式の平面を有するとともに、外陣や周囲の下屋まわり

黄檗宗寺院の軸部構成や細部意匠を摂取した特色ある真言宗寺院本堂として、高い価値

がある。また長崎県下の密教系寺院本堂として最古に属し、重要である。

【参考文献】

『長崎県指定有形文化財清水寺本堂保存修理工事報告書』(清水寺 2010年)

 

 

 

 

 

 

5

 長崎県の「教会」建造物の文化財探訪

 

 

 

 

名称・棟名

区分

年代

概要

重文指定

所在地

5

田平天主堂

重文

大正7(1918)

三廊式教会堂、煉瓦造及び木造、

 建築面積459.90㎡、桟瓦葺

20031225

平戸市田平町

小手田免19-19

6

黒島天主堂

重文

明治35(1902)

三廊式教会堂、木造及び煉瓦造、

 建築面積489.4㎡、桟瓦葺

19980501

佐世保市黒島町3333

7

旧羅典神学校

重文

明治8(1875)

木骨煉瓦造、建築面積232.8㎡、

 三階、地下一階、桟瓦葺

19720515

長崎市南山手町5-3

8

大浦天主堂

国宝

元治元(1864)

五廊式教会堂、桟瓦葺、北端八角尖塔付

19530331

9

大野教会堂

重文

明治26(1893)

石造及び木造、建築面積127.49㎡、

桟瓦葺

20080609

長崎市下大野町2619

10

出津教会堂

重文

明治15(1882)

三廊式教会堂、煉瓦造及び木造、

 建築面積395.46㎡、切妻造、桟瓦葺

20111129

長崎市西出津町2602

11

旧五輪教会堂

重文

明治14(1881)

木造三廊式教会堂、面積150.3㎡、桟瓦葺

19990513

五島市蕨町993-11

12

江上天主堂

重文

大正7(1918)

三廊式教会堂木造、面積161.76㎡、

桟瓦葺

20080609

度投資奈留町

大串郷1131

13

青砂ヶ浦天主堂

重文

明治43(1910)

三廊式教会堂、煉瓦造及び木造、

 建築面積264.9㎡、桟瓦葺

20011114

南松浦郡新上五島町奈摩郷1241-1

14

頭ヶ島天主堂

重文

大正8(1919)

単廊式教会堂、石造、建築面積131.6㎡

 正面塔屋付、桟瓦葺

20011114

南松浦郡新上五島町友住郷638-1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5

  田平天主堂 たびら

所在地

電話

平戸市田平町小手田免19番地19

 

環境・周辺

平戸市田平町西部の開けた丘陵地の上に立つ赤煉瓦造りの教会からは平戸瀬戸とそこに架

かる平戸大橋が望め、写真や絵画の題材としてもよく用いられている。

歴史


明治時代にパリ外国宣教会のラゲ神父、ド・ロ神父らが私費で荒れ地を購入。

そこに8家族を九十九島の黒島(佐世保市)や西彼杵半島の長崎市外海地区等から移住させたのが田平天主堂の信者の最初である。

 当時は6畳ほどの集会所であったが、1879年(明治12年)に仮聖堂が造られる。

その後も信者数が増え、1914年(大正3年)に着任した中田神父のときに天主堂の建立が

計画され、1918年(大正7年)、信徒たちが開墾した瀬戸山の地に、教会堂を得意とした

棟梁鉄川与助の設計及び施工により建立される。5月にコンバス司教によって「日本二十六聖殉教者」に捧げて献堂された。総工費に2万円を要した。

 

 

設計・施工:鉄川与助

リンク

 世界遺産  HP

概要


今村天主堂とともに、鉄川与助の煉瓦造りの集大成と評価されている。 

正面に会堂から飛び出した三層の長方形の塔が建ち、上部に8角形のドーム型の鐘塔を持つ形式は、日本独特のもので鉄川が好んだと言われている。

煉瓦はイギリス積みで、交互に色の異なる煉瓦を積んでいる。 

聖堂内側壁のステンドグラスは、ドイツ人マキシミリアノ・バルトズにより、2年かけて制作された

 

5-1

 田平天主堂

建立

大正7(1918)

指定年

平成15.12.25

建築様式

三廊式教会堂、煉瓦造木造

再建

 

確証附

 

平面規模

建築面積459.90㎡

屋根

桟瓦葺

妻面

 

立面外観

正面塔屋左右側面出入口

壁・窓

 

外周

 

ポイント

 

修理履歴

 

文化庁

解説文

田平天主堂は,長崎県北部,海峡を介して平戸島を西望する位置にある。設計及び施工は

鉄川与助で,大正4年12月着工,大正7年5月14日に献堂式が行われた。

 木造及び煉瓦造の教会堂で,屋根は小屋組木造キングポスト・トラスの桟瓦葺である。

主体部は三廊式バシリカ型の長方形平面で,重層の断面形式をそのまま現した正面中央に

八角形ドームを戴く鐘塔を備える。

 長崎を中心に九州地方で建設された煉瓦造を主としたカトリック教会堂の最晩期に属

し,重層構成にもとづく外観や内部空間など,最も整った姿をみせるものの一つであると

ともに,意匠的にも優れている。

 司祭館をはじめ,門柱,石段,石垣などが残り,周辺の歴史的環境がよく保存されてい

る点も貴重である。



   8-9-2 田平天主堂 20150705    
 

 

 

6

  黒島天主堂

所在地

電話

佐世保市黒島町3333番地

 

環境・周辺

佐世保市本土から西へ約10km離れた九十九島最大の島である黒島には、江戸時代の迫害

を逃れて移住してきた隠れキリシタンが多く住んでいた。

歴史


当初は信者の家を御堂にしていたが、明治11年(1878)に木造の教会ができた。明治30年

(1897)に着任したマルマン神父は、本格的な教会を建設することを伝え、自らペンをとって設計する。信者もこれに応え、資金供出と献身的な労力奉仕により、明治35年

(1902)にレンガ造りの堂々たる教会が完成した

 

設計-マルマン神父 棟梁-前山佐吉

リンク

 Wiki  

概要

この島特産の御影石が多く使われ、祭壇の下には1800枚の有田焼磁器タイルが敷き詰められている。その後、マルマン神父は明治45年(1912)に没するまで黒島で過ごした。

6-1

黒島天主堂

建立

明治35年 1902

指定年

平成10.05.01

建築様式

様式 - ロマネスク様  三廊式教会堂

確証附

なし

平面規模

間口15.0、奥行32.6

面積489.4m2

屋根

桟瓦葺

妻面

 

立面外観

レンガおよび木造、瓦葺き平屋建て 

外周

 

特長


外壁は大部分を煉瓦壁とするが、上方のクリアストリー部分の外壁は下見板張りとする
内部は柱列によって身廊部と側廊部に分ける三廊式で、身廊部はアーケード、トリフォリウム、クリアストリーからなる三層構造であり、天井はリブ・ヴォールトとする。側廊の壁面とクリアストリーにはステンドグラスを嵌める。

この天主堂は保存状態がよく、明治時代に、外国人神父の指導によって建設された、様式的にも整った本格的な教会堂建築として貴重な遺構である

ポイント

煉瓦の一部は信徒らが焼いたものである

修理履歴

 

文化庁

解説文なし

 

    
   8-9-2 黒島天主堂 20150705

 

 

7

 旧羅典神学校 らてんしん

所在地

電話

長崎市南山手町5番3号

大浦天主堂 095-823-2628

環境・周辺

大浦天主堂敷地内

歴史

キリスト教(カトリック)のパリ外国宣教会宣教師ベルナール・プティジャン

(Bernard-Thadée Petitjean)により日本人司祭育成を目的として設立された長崎公教神学校の校舎兼宿舎として、1875年(明治8年)に大浦天主堂敷地内に建設された西洋館である

 

マルク・マリー・ド・ロ

リンク

  Wiki 

概要


明治6年(1873)明治政府のキリスト教禁教令廃止を契機に、大浦天主堂のプティジャン

神父はラテン神学校設立を計画し、明治8年(1875)に完成した。

大正15年(1926)浦上神学校ができるまでは、神学校の校舎兼宿舎として使用された。

その後司祭館や集会所にも使用され、昭和になって1階の間仕切を撤去して広い部屋をつくり、更に3階を改造して学生の寝室とした。設計はド・ロ神父。構造は木骨煉瓦造で、骨組を木造にし壁に煉瓦を積む特殊なものであるが、ド・ロ神父は建築技術に造詣が深く、その設計監督した建物は極めて堅牢であるのが特徴である。

大浦天主堂内司祭館・出津教会等、数多くの建物を遺している。

 

 

旧羅典神学校

建立

明治8 : 1875 

指定年

昭和47.05.15

建築様式

木骨煉瓦造

 

 

平面規模

面積232.8m2

屋根

桟瓦葺

 

 

立面外観

地下一階

 

 

特長

1階は校長室と教室、2階は神父の個室と教室、3階は学生宿舎、地下は食堂として使用さ

れたとみられる。

当時は、講義が全てラテン語で行われていたため、「羅典神学校」と呼ばれた

ポイント

 

修理履歴

 

文化庁

解説文なし

大浦天主堂(国宝)と並んで建てられた木骨煉瓦造の三階建の建築で地下一階を設ける。
 ド・ロ神父の設計になるもので、前面にベランダを設け 三階は中央部のみを高
め、
前後を錣葺にするユニークな形をもつ。 
長崎における木骨煉瓦造建築の遺例として
著名なものである

 

   8-9-2 旧羅典神学校 20150705

 

 

 

8

  大浦天主堂

所在地

電話

長崎市南山手町5番3号

 

環境・周辺

日本最古の現存するキリスト教建築物。正式名は日本二十六聖殉教者堂。その名のとおり

日本26聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。

 

歴史


•フューレ神父とプティジャン神父の設計により1864年に建設された教会堂である。

•1864年に横浜のジラール神父に宛てた書簡により、神父たちが自らこの新しい教会堂の

 イメージ図を描き、日本人大工に指導したことがわかっている。

•1875年および1879年に増改築され、竣工当時の三廊式から五廊式の現在の姿になった

•施工は、天草あまくさ出身の大工、小山秀こやまひいで之進である。

•身廊側廊の天井は8分割のリブ・ヴォールト天井で、漆喰仕上げの下地は日本建築の
 伝
統的な技法である竹小舞を用いている。

•19世紀の開国後、日本各地の開港地に西洋人の指導で建設された初期の教会堂の代表例
 で
あり、長崎地方に教会堂が建設されていく起点ともなった重要な教会建築である。

 

 

 

リンク

  wiki

概要

大浦天主堂は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂で、1865年(元治2年)に建立さ

れた日本最古の現存するキリスト教建築物。正式名は日本二十六聖殉教者堂。その名のと

おり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられて

いる。

1953年(昭和28年)に国宝に指定された。また、2007年(平成19年)にユネスコの世

界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」

を構成する文化財の1つである。

観光客の増加に伴い、1975年(昭和50年)に、天主堂に登る石段横の隣接地にカトリッ

ク大浦教会が建てられ、毎日のミサは大浦教会で行われている

 

8-1

  教会堂

建立

元治元 : 1864

指定年

昭和28.03.31

建築様式

五廊式教会堂

再建

明治12(1879)年

平面規模

煉瓦造平屋 525㎡

 

桟瓦葺

設計

フューレ神父、

プチジャン神父

立面外観