8-5 京都ー平等院
平等院鳳凰堂 | 宇治市宇治蓮華116 0774-21-2861 | 入園+鳳翔館 600円 鳳凰堂内部拝観 300円 |
平成26年10月末、久しぶりに探訪しました。人気があり、平日でも沢山の参拝客で内部拝観は、3時間待ち!
鳳凰堂の修理は平成24年9月に開始。26年4月完了です。
建立当初の姿に近づけるよう、1950年代の前回の修理から年月を経て傷んだ屋根瓦を、光沢のない「古色仕上
げ」に替えた。一対の鳳凰像には金箔を施し、扉や柱を赤茶色の顔料「丹土」で塗り直した。
堂内には本尊の阿弥陀如来坐像、本尊を囲むように壁面に掛けられた雲中供養菩薩像などがあり、浄土さながらの
優美な造り。堂内の改修は行われていない。
1、平等院の歴史(修理)
年号 | 歴史 | ポイント |
859 | 左大臣源融 別業造営 | |
889 | 扶桑略記「宇治別業」記述 | |
869~949 | 57代 陽成天皇の離宮 | |
867~931 | 59代 宇多天皇の所領 | |
923~952 | 61代 朱雀天皇の離宮「宇治院」 | |
922~995 | 宇多天皇の孫 左大臣源重信の所領 | |
998(995) | 関白藤原道長 源重信より譲渡 別業「宇治殿」(花鳥余情) | |
1027 | 藤原道長没後、息子・頼道に譲渡 | |
1052(1051) | 寝殿を本堂に改修し「平等院」(扶桑略記) 開基:頼道 開山:明尊 | |
1053 | 阿弥陀堂(鳳凰堂)建立 定朝作阿弥陀如来坐像安置 丈六仏 | |
1074 | 平等院にて頼道没 | |
1190 | 阿弥陀堂、廻廊、経堂修復承久 以降荒廃する | 1180 冶承の乱 |
1336 | 阿弥陀堂、以外焼失 | 1221 承久の乱 |
1365 | 廻廊焼失 (200年以上荒廃した) | 13,14世紀 荒廃 |
15世紀 | 天台宗が納め、興福寺の宗徒、浄土宗、と変遷し 1582天台宗になる | |
1610 | 天台宗が放棄し真言宗寺院となる、その後対立が続く | |
1662 | 阿弥陀堂の修理開始、幕府茶道頭 桜井宗恩 | |
1670 | 阿弥陀堂大修理完了、鳳凰堂と呼ばれるようになる。 | |
1698 | 宇治大火 北大門、西大門焼失 それ以降再度荒廃する。 | |
1732 | 浄土宗 真誉「平等院略記」を編纂 (200年近く荒廃した) | 18,19世紀 荒廃 |
1895 | 鳳凰堂修理 明治政府 京都府社寺掛 | 1868神仏分離令 |
1897 | 特別保護建造物に指定(明治30年) | |
1902~1907 | 鳳凰堂大修理 日本美術院が修理担当 | |
1922 | 史跡、名勝の指定 | |
1950~1957 | 明治の鳳凰堂解体修理 基壇を創建時に復原 | |
1951 | 国宝指定 (昭和26年) | |
1990 | 庭園発掘調査 1993年まで | 1911 大正 |
1994 | 世界遺産に登録 | |
2002 | 発掘調査 庭園復元工事2003終わる | |
2012~2014 | 中堂、両翼廊の修理 | |
●近年の修理履歴
1、明治修理(明治35-40年)1902~1906・・・・中堂裳階、左右翼廊及び尾廊は解体修理
中堂は彩色等の装飾を保持に重点が置かれ、軸部の解体は行わず屋根小屋組の補強が行われた。
小屋組の補強は建物の実情に合わず有効に働かなかったことと、基礎構造に根本的な欠陥があることが判明
2、昭和修理(昭和25-32年)1950〜1957・・・・中堂解体・明治修理の見直し・基礎補強など
平安時代の屋根小屋組構造の解明、その復原及び補強方法の検討、建築彩色の技法調査と復原模写
3、平成修理(平成10-15年)1998~2003・・・・主に庭園整備 州浜及び翼廊基壇復元整備
4、平成修理(平成24-25年度末)2012~2013・・瓦の葺き直し、中堂・翼廊・尾廊の全塗装、金物修理
その修理の概要は、
● 屋根の軒瓦を12世紀初頭のものに復原
発掘調査で、天喜元年(1053)年、創建された際は屋根瓦が木製だったのが、約半世紀後の修復で、現在の
ような粘土瓦による総瓦葺になったことが判明した。
発掘で出土した瓦は、平等院の荘園だった向山(大阪府八尾市)の瓦窯で焼かれていた。
軒丸瓦のデザインはハスの中心に巴文があり、平等院用の特注品だった。
これが、実に900年ぶりに復活する。
屋根瓦はいぶしを使わない「古色仕上げ」とし、大阪・河内系(大阪府八尾市)の瓦を復元し、約9割の
4万5千枚をふき替えた。
● 「鉛丹」で塗りから「丹土塗り」に復原
昭和25年に修理され際の外観の彩色は、鉛を焼いて作った赤色顔料の「鉛丹」で塗り直しをした。
しかし今回、古い瓦に付着した顔料を分析したところ、かつては鉛丹でなく酸化鉄と黄土を混ぜた「丹土(に
つち)」だったことが判明した。丹土色は酸化鉄の粉末と黄土を混ぜ、べんがらに似た色味で、明治時代の修
理で使われていた。
同じ赤色顔料ながら、丹土は鉛丹に比べてより落ち着いた色調になる。
最近再建された平城京大極殿も丹土塗りで、費用もほぼ同じことから、府教委は丹土塗りの採用を決めた。
● 金色の復原 屋根の上に据える青銅製の鳳凰と露盤宝珠に金箔を貼る。
鳳凰堂のシンボルで名前の起源の鳳凰は青銅製だが、創建当初は金鍍金されていたことがわかっており、
今回、金鍍金か金箔押しで復原される。また、左右の翼廊の屋根を飾る「露盤宝珠」も金色に変わる。
創建時の姿への復原が良いのか、「くすみ」などの経年変化が現れた現在の姿を大切にすべきか。
古建築を多く抱える奈良や京都では、大きな化粧直しがあるたび、議論が巻き起こった。
昭和56(1981)年、薬師寺に西塔が再建された際、外観は創建時を想定して極彩色に塗られた。
この時は「“凍れる音楽”と例えられる東塔(国宝)の古色にそぐわない」と地元から大反対が起きた。
【 復原、復元論争 】 「4-5 文化財の修理」を参照して下さい。
平等院鳳凰堂についても、専門家や古建築マニアから「創建時の姿への復原は意義がある」という意見と、
相変わらず「せっかくの『古色』が失われ、『わび・さび』が消失する」と、『陰翳礼讃』の現代人の意見も
多い。
平等院修理の方針について学識経験者らが話し合う「修理委員会」委員長、斎藤英俊・京都女子大教授(建築
史)は「歴史的に裏付けされた形態に戻すのは基本方針」と明言したようです。
【今回の修理の考察】
建造物文化財の修理にあたっては、① 可能な範囲で古い形式や仕様に復原する。② 現存時点の形態で修理
する・・の論争が後を絶たない。調査で、痕跡、文献などが確認されれば現状を改め、古い形態に戻すという
基本方針は、①の専門家の意見が採用されたことになる。(薬師寺西塔)
②では、現部材が腐食し取り替える場合、わざわざ古色に仕上げて修理することである。(法起寺)
①で決めたら、それを是とするか否かだろう。その点だけが問題の根幹でありそれ以外は方針どうりに修復す
るのが、現代の修理方針の決定方法であろう。
この修理方針は、「確証の有る資料に基づいた復原」の修理であり、類推、個人的意見に左右されずに決定さ
れたようで、支持する見解となる。『陰翳礼讃』の現代人は、平安時代に花開いた日本の美を再認識されたい。
数度の火災もあったが、長い荒廃の期間により逆に既存が改修されず、創建時の形式、様式が維持されてきたの
かも知れない。同時に、当時の誰もが優秀さを認め、解体、大改修に踏み切らなかったのかもしれない。
法隆寺、唐招提寺の江戸、明治の修理が現存しているより、平等院は創建当時のままなのかも知れず貴重な文化
財と賛美する。
2014年 秋の訪問で、その日本代表する和様建築の姿を堪能できたのは、今年の最高の探訪であった。
2、平等院を模倣した無量光院
そして、余り知られていない、平等院と平泉文化の繋がりを探訪してみます。
復元CGー無量光院
【 無量光院跡 特別史跡 】 文化庁DB解説文
一ニ新御堂トシ基衡ノ子秀衡ノ建立スル所ニシテ宇治平等院ニ模セルモノナリ 近時鐵道敷設ノ爲ニ其ノ一部壞
滅ニ歸セシモ土壇土壘礎石及庭石等殘存シ堂塔苑池ノ舊規略推知スベク藤原氏ノ盛時ヲ憶ハシムルモノ多シ
無量光院は吾妻鏡によれば、藤原秀衡が建立したものであり、宇治平等院を摸したという。
寺跡は大字平泉字花立の地域にあり、ほぼ東面して存し、東西約800尺南北約900尺の寺域を有する。
昭和27年、文化財保護委員会が調査した結果、本堂は正面5間側面4間で、左右に桁行折れ曲り、延長9間梁
間1間の翼廊が連繞し、中島には栗石が一面に敷設され、三箇所に建物の存したことが明かにされ 又苑池は本
堂及び翼廊の前面に設けられて中島を配し、しかもこの池は本堂翼廊の背後にも繞くことが認められ、堂宇庭園
の規模が宇治平等院に類似していることが立証された。
平安時代後期における寺院跡において、その規模の明かにされたもの少く、本寺院跡はこの種の示例に一基準を
与えるものとして学術上の価値はきわめて高い。
奥州藤原氏は、初代藤原清衡が中尊寺、二代基衡が毛越寺と、代々寺院を整備し浄土思想を具現化してきた。
そして三代秀衡が12世紀後半に建立したこの無量光院は、極楽往生を体感できるよう計算されて作られた空間
造形を持つ浄土庭園の極みであった。もし現存していれば、金色堂と並び証される日本最高の遺産になったこと
は間違いが無い。
藤原氏が滅びて以降、他の寺院同様に無量光院跡も荒廃し、火災により建造物はすべて失われてしまった。
しかし、その遺構は良好な状態で残されており、藤原文化を今に知ることができる【特別史跡】となった。
平泉の史跡全体は、京都や鎌倉などは違い、平泉は現代まで開発も少なく遺跡破壊が最小限にとどめられていた
ためである。
平等院鳳凰堂(阿弥陀堂) | 無量光院跡 | |
リンク | ||
創建 建立 | 永承7年(1052年) 天喜元年(1053年)建立<国宝> | 藤原 秀衡 奥州藤原氏第3代当主 保元2年(1157年)家督を相続 建立時期は不詳 <特別史跡> |
概要 | 長徳4年(998年) 摂政藤原道長の別荘「宇治殿」が発祥 その後、阿弥陀堂として1053年建立 | 平等院を模して建立した寺院 西方極楽浄土の観想を目的で造られた 秀衡の持仏堂的意味合いの強い存在 |
由緒 | 『観無量寿経』所説に基づき、 西方極楽浄土と阿弥陀如来を観想するために造られたとするのが定説である | 平等院の規模をも上回る煌びやかな寺院 【吾妻鏡文治五年(1189)9月17日】 無量光院(新御堂と号す)に関する報告 |
世界遺産 | 1994年(平成11年)「古都京都」 | 2011年(平成23年)「平泉」 |
境内規模 | 現在2.2ha 昔も無量光院が大きい。 | 東西約240m、南北約270m 6.5ha |
建物規模 ・中央 ・翼廊 ・尾廊 | 全長 67m 正面3間、梁間2間 折曲8間梁間1間 桁行7間梁間1間 | 全長 70m 正面5間側面4間 延長9間梁間1間 尾廊は無い |
相異点 | 無量光院は遺跡発掘のみ、上部は類推 | 中堂前に磚瓦を敷き詰め池に中島がある |
背後の山 | 朝日山 仏徳山 | 金鶏山 頂部に経塚が位置する |
国史跡指定 | 浄土式庭園。国指定の名勝。 平成2年(1990年)からの発掘調査により 平安時代築造の州浜が検出 | 1955年(昭和30年)特別史跡 浄土庭園の極み |
荒廃の記録 | 13,14世紀、18,19世紀の400年間荒廃 | |
発掘調査 | 1993年(平成10年)発掘調査 | 1952年(昭和27年)発掘調査 |
3、建造物の資料
寺社名 | 平等院 | 山号・宗派 | 朝日山 天台宗と浄土宗 |
創建 | 永承7年(1052年) | 開基 | 藤原頼通、明尊(開山) |
歴史 | 9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となった。 | ||
現況 | 現在の平等院は、天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院という2つの寺院(共に鳳凰堂の西側にある)が共同で管理している。 浄土院は明応年間(1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)寺社奉行の裁定によるものである。 宗教法人平等院の設立は昭和28年(1953年)である |
1)国宝 鳳凰堂
鳳凰堂は、建造物としては中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊の4棟からなる。
阿字池の中島に東を正面として阿弥陀如来坐像を安置する中堂が建ち、その北と南にそれぞれ北翼廊、南翼廊が接
続して建ち、中堂の西(背後)に接続して尾廊が建つ。
建物・棟 | 平等院鳳凰堂 中堂 | ||
建築様式 | 入母屋造 | 屋根・頂部 | 本瓦葺・棟上に一対の銅製鳳凰 |
平面形状 | (正面)3間、梁間(奥行)2間 | 基礎・縁 | 石造壇上積 |
外観形状 | 一重裳階付 | 外観特長 | 裳階の正面中央は屋根を一段高くする |
主要架構 | 円柱を頭貫と内法長押 | 架構特長 | 身舎と裳階のみで庇を設けない特異な構造 |
軒裏組物 | 三手先 二軒繁垂木(地円飛角) | 中備・支輪 | 間斗束 支輪部分には宝相華文 |
内陣架構 | 前後方向に虹梁を渡し、組入天井 | 内陣特長 | 中央部分を石敷きとした須弥壇 |
壁扉画九品来迎図・宝相華文など |
建物・棟 | 裳階(もこし) | ||
建築様式 | 中堂の四周の裳階 | 屋根・頂部 | 本瓦葺・屋根上には高欄 |
平面形状 | 東西南北とも1間の裳階 | 基礎・縁 | 切目縁(簀子縁) |
外観形状 | 裳階柱と身舎との間には繋虹梁 | 外観特長 | |
主要架構 | 大面取り角柱を頭貫と飛貫で繋ぐ | 架構特長 | 飛貫は後補 |
軒裏組物 | 平三斗 地垂木飛檐垂木面取の角垂木 | 中備・支輪 | 間斗束 |
外観特長 | 裳階の正面(東面)中央間は屋根を一段高く切り上げて身舎東正面中央間の扉を開けると、その内側の格子には軍配形の窓が開けられ、阿弥陀如来の面相が見えるようになっている。 |
建物・棟 | 南北の翼廊 | ||
建築様式 | 切妻造 | 屋根・頂部 | 本瓦葺 |
平面形状 | 折曲8間、梁間1間 平面はL字形 | 基礎・縁 | 建具や壁を入れず開放とし、床も張らない |
外観形状 | 一重二階建 | 外観特長 | 直角に曲がる角の部分には隅楼 |
主要架構 | 頭貫、飛貫、腰貫 | 架構特長 | 飛貫、腰貫はなく、後から補強 |
軒裏組物 | 1階が二手先、2階が平三斗 | 中備・支輪 | 二軒繁垂木 |
天井:組入天井、虹梁と蟇股 ・中央間を板扉、両脇間を連子窓 2階内部の構架は二重虹梁蟇股で、天井は張らず、垂木がそのまま見えている 3階部分は方3間、宝形造、本瓦葺き、組物は出組、屋根頂部に瓦製の宝珠を乗せる。 | |||
外観特長 | 各翼廊に16本ずつの柱があるが、うち古いものは北翼廊の柱1本、南翼廊の柱5本のみで、他の柱は明治の修理時の取り換え材である。 |
建物・棟 | 尾廊 | 中堂西側裳階に接続 | |
建築様式 | 切妻造 | 屋根・頂部 | 本瓦葺 |
平面形状 | 桁行7間、梁間1間 | 基礎・縁 | |
外観形状 | 平屋建 | 外観特長 | 南側の第3間の左右の柱のみは古い。 |
主要架構 | 架構特長 | 二重虹梁蟇股とし、天井は張らない | |
軒裏組物 | 平三斗 | 中備・支輪 | |
外観特長 | 中堂裳階に接する第1間は片引戸、第2・3・6・7間を花頭窓、第4・5間を格子窓。 尾廊は第5・6間の部分で池をまたいでおり、その部分の柱(西から3本目)は池中に立っている。 |
●外観のバランス
身舎の円柱は径2尺(約60cm)ある太いものであるが、周囲を裳階がとりまいているため、外観では身舎の太い
柱が目立たなくなっており、これによって建物全体を軽快に見せている。
裳階柱も幅8寸5分(約27cm)あるが、大面取りが施され、断面八角形に近い柱形状になっているため、実際よ
り細く見える。
中堂は前述のように身舎と裳階のみで庇を設けない特異な構造であることに加え、屋根の出が非常に大きく、構造
的には不安定な建物になっている。
身舎の屋根の先端部は、裳階屋根の先端部や基壇の端部よりもさらに外側に突き出ている。
明治期の修理以前の古写真をみると、中堂には、屋根の垂れ下がりを防止するための突っかえ棒が設置されて、外
観を損ねていた。
●本瓦葺ではなく木瓦葺きであった
こうした構造に加え、境内からは創建当初の瓦がほとんど出土しないこともあり、当初の鳳凰堂は屋根に大きな荷
重の掛かる本瓦葺きではなく、木瓦葺きだったのではないかと推定されていたが、今回の発掘調査で木瓦葺きの確
証が得られた。
木瓦葺きとは、外観を瓦に似せた板で屋根を葺くもので、平安時代の実物としては中尊寺金色堂のものが唯一現存
する。
2)その他の文化財
2-1 建造物
●観音堂 重要文化財 境内北側、表門を入って左側に建つ
建物・棟 | 観音堂 「釣殿観音」 | 建立 | 鎌倉前期 指定明治35.04.17 |
建築様式 | 寄棟造 | 屋根・頂部 | 本瓦葺 |
平面形状 | 桁行七間、梁間四間 | 基礎・縁 | |
外観形状 | 中央三間が開戸、左右二間ずつが引戸。側面は扉と連子窓 | ||
主要架構 | 架構特長 | ||
軒裏組物 | 大斗肘木 地円飛角 | 中備・支輪 | 間斗束 |
●養林庵書院 - 山内寺院の浄土院に建つ。非公開。
2-2 仏像
木造阿弥陀如来坐像 国宝 | 寄木造 漆箔、像高284cm。 | |
製作年代 | 仏師定朝の確証ある唯一の遺作 天喜元年(1053) | |
頬がまるく張った円満な顔。伏目がちですが意外に大きな眼は拝む者を静かに見つめ、その表情はかぎりないやさしさにあふれています。胸をひいて背をわずかにまるめた姿勢には無理がなく、いかにも自然で、どこにも硬い緊張感がありません。 |
木造天蓋 国宝 | |
本尊阿弥陀如来像の頭上に吊られた木造天蓋で像とは別個に彫刻部門の国宝に指定されている。折上小組格天井形の方蓋と、その内側に吊る円蓋からなり、透彫と螺鈿で装飾されている。 |
雲中供養菩薩像 国宝 | 年代:定朝工房で天喜元年(1053)に製作木造、彩色・漆箔・切金 |
鳳凰堂中堂母屋内側の長押上の小壁に懸けならべられている52体の菩薩像。 | |
極楽浄土において阿弥陀を讃嘆する菩薩像とする説もあるが、いずれの像も飛雲に乗ることから、阿弥陀如来と共に来迎する菩薩像を表したものとみられる。 52躯が現存し、すべて(平成20年(2008年)に追加指定された1躯を含む)国宝に指定されている。各像のポーズは変化に富み、琴、琵琶、縦笛、横笛、笙、太鼓、鼓、鉦鼓などの楽器を奏する像が27体あり、他には合掌するもの、幡や蓮華などを持つもの、立って舞う姿のものなどがある。菩薩形の像が主だが、僧形の像も5体ある。本尊阿弥陀如来像と同様、天喜元年(1053年)の作とされるが、補修はかなり多く、頭部が明治時代の修理で補作されているもの、像全体が鎌倉時代の補作であるものが各数体ある。 |
鳳凰堂中堂壁扉画(へきひが)14面 国宝 | 鎌倉時代、仏後壁前面画は 藤原頼通在世時(11世紀末) |
九品来迎図 旧扉画8面(上品中生、上品下生、中品上生、下品上生)、壁画3面(中品中生、下品中生、中品下生、下品下生)日想感図 扉画2面 本尊後壁画 1面 中堂の扉10面、壁4面は、国宝建造物の一部であると共に、そこに描かれた絵は絵画部門の国宝にも指定されている。主な主題は『観無量寿経』に基づく九品来迎図である。 |
鳳凰(鳳凰堂中堂旧棟飾) 国宝 | 北方像:総高235.0cm、像高98.8cm、総幅34.5cm、 南方像:総高228.8cm、像高95.0cm、総幅44.5cm。 |
阿弥陀堂中堂大棟の南北両端部に設置されていた金銅製の鳳凰像 | |
製作・年代 長久2年(1041年)条に拠れば同年2月に仏師定朝に対して龍頭の製作が命じられている | |
頭部・胴部・翼・脚部の各部は別々に鋳造され、銅板製の風切羽と共に鋲で留められ組み立てられている。一部に鍍金が残されているが、現在は全体が銅錆で覆われている。円盤状の台座に立つ鳳凰像で、頭部には鶏冠・冠毛・肉垂が表現され、太い眉と鋭い嘴をもつ。 |
梵鐘 国宝 | 口径123cm、高さ199cm、重量約2トン |
「音の三井寺」「銘の神護寺」「姿、形の平等院」と謳われ、神護寺、園城寺(三井寺)の鐘と共に、「天下の三名鐘」に数えられている。 | |
製作・年代 鳳凰堂と同じ11世紀頃の制作と推定 銘文がない為、時期については平安後期とする説が有力 | |
全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮き彫りを施した、他に例を見ない鐘である。 鬣を真上に逆立たせた竜頭、宝相華唐草の地文の上に鳳凰や、踊る天人などが刻まれている。 |
● 史跡・名勝 平等院庭園 - 浄土式庭園。大正11年(1922)3月8日に史跡・名勝に指定。
阿字池(あじいけ)の中島に阿弥陀堂(鳳凰堂)を建て、その美しい姿が水面に映る様子は、現世に極楽浄土を
あらわしたものである。 また宇治川の清流・背景の山々を取り入れた雄大な貴族好みの借景庭園となっている
● 平等院鳳翔館
設計 栗生明+栗生総合計画事務所 施工大林組
規模地上1階、地下1階 地上S造、地下RC造
建築面積814.04㎡ 延床面積2,297.59㎡ 2001年竣工
建築家栗生明の代表作。日本芸術院賞、日本建築学会作品選奨を受賞
全体のヴォリュームは地下に埋めつつも、スリットの入った庇空間は存在感を見せている。
○国宝 梵鐘1口、 木造雲中供養菩薩像26躯、鳳凰1対、鳳凰堂中堂扉画8幅
≪ 8-5-2 京都の文化財探訪 | HOME | 8-5-2 京都三大唐門 ≫
Author:masatias
30年続く寺社めぐりのメンバーです
<TIAS>グループ名称
Improvement of a spirit boundary
by Temple and shrine =<TIAS>