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寺社建築と文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源、歴史、文化財の紹介と文化財の問題点を探訪しています。 常時更新中です!
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カテゴリー  [ 2-4 神仏習合と神仏分離 ]

日本建築史の重要な特徴を探訪します。

2-4 神仏習合分離 

 

 

 

 

2-

  神仏習合・神仏分離

 

 

 

    日本の建築史の中で特筆すべき出来事として、「神仏習合」と「神仏分離」があります。

 

 

● 神仏習合とは

  古代からあった神道と538年に伝来した仏教は、1,100年余に渡り共存してきました。

  2つの信仰が永年併行してきたことは、世界的にも例が無いことです。

 

  その長い期間、仏教は神道よりも常に隆盛を極め、日本の独自の文化の中心として信仰されてきました。

仏教、神道ともお互いに排他、侵略することなく共存共栄してきたことも 他の宗教が侵略戦争に明け

暮れていた西洋史と比べ、非常に稀れなことといえます。

 

 

● 神仏分離令とは

  明治政府は明治元年(1868)に神仏分離令を出します。

  明治維新の嵐の中で激しく揺れ動き 明治政府は王制復古思想ため神道を国教化を強制しました。

  天皇制による「王政復古」と「祭政一致」の実現をめざしたのです。

  習合されてきた神と仏を明確に分離し、神道国家の道を歩み始めようとしたのです。

 

  それと、江戸時代の寺院の特権に対する民衆の反発も燻っていた時期にも当たります。

  この神仏分離は、日本だけではなく世界の宗教史の中でも例のない大転換といえます。

  明治政府の神仏分離政策は、複数の法令の総称である「神仏判然の令」によって始まりました。

  そして、多数の寺院の宝物、施設が破壊され、仏教関連の人々への制裁等の暴挙が各地で起きました。

 

 


   この「神仏習合」と「神仏分離」が日本建築史(学)に与えた影響について探訪します。

 

 


 

  1、 神仏習合

 

 

 1、神道と仏教の共生の要因 

 

 1)日本人の曖昧な感性と受動的な思考


  仏教が何故、奈良時代以降 優位な立場にありながら
神道を排他せず共存していたことの原因の一つ

は「情緒的な日本人は、曖昧な感性と受動的な思考を持つにあると思われます。

日本人の柔軟性の有る感性、農耕民族の自然共生のスタンスで「仏教をまずは受け入れよう、良い所は

勉強しよう」という「駄目、いや」ではなく「まあーいいか」と受容するのです。

 

現在でも神仏習合の思想(?)は継続しています。

同じ家に仏壇と神棚が共存し、お寺で除夜の鐘を聞き、初詣に神社に行く。

子供が生まれると神社でお宮参りをし、七五三を祝う。

結婚式はキリスト教、だけど葬式は仏教。

神社の中に仏教建築の三重塔があり、お寺境内にお稲荷さんや神社があります。

 

明確に一つ宗教を信仰されて居られる人々も居られますが、今でも大半の日本人は、「神と仏」両者を

受け入れているのです。

 

 

 2)排他的でない仏教  

 

ヨーロッパ、中東、西アジアでは20世紀まで戦争、侵略の歴史が繰り返されてきました

その原因はキリスト教やイスラム教が排他的、戦略的である事に起因しています。

それらの地域の土着宗教は大半が駆逐されています。 

 

インドの近くルンビニで生まれた仏教は、インドでは仏教信仰が蔓延しましたが、現在では仏教信者は

少なく人口の80%以上が土着の宗教ヒンドゥー教です。

このように仏教は、土着信仰を駆逐することはなく、非戦略的な信仰といえます。

 

日本において仏教は土着の神道の神々を否定せず、神々を諸仏の世界に取り込み、聖徳太子以来の神

仏習合の宗教観を創造し 仏の世界の一部に位置づける信仰を隆盛させました。

 

神道が迎え入れたのが仏教がであったことは、神道にとって幸運なことであり キリスト教やイスラム

教が奈良時代に伝播していたらの日本史がどう変わっていたのか 学者の意見が拝聴したいところです。

 

 

2、神仏習合成立の経過

 

1)仏教伝来の時点

物部氏(排仏派)と蘇我氏(崇仏派)との対立抗争がありました。

 

物部氏が在来の与党で神祇を重んじていたのに対して、蘇我氏が新興野党で新来(新羅仏教)の仏教信

仰に熱心であった事による権力抗争です。

崇仏派排仏派勝利したという宗教抗争ではなく、蘇我氏が権力を得たということです。

しかし、崇仏派の勝利したならば神祇の否定や排斥の史実が、その後にあるはずですが確認できません。

 

その背景には、天皇が日本人(渡来人?)特有の感性「曖昧な感性と受動的な思考」が窺えます。

崇仏派で最高の権力者、天皇が、神祇祭祀に対し何も排斥するアクションがありません。

 

逆に言うと、神祇祭祀の最高権限神祇を脅かす存在として 新興仏教を考えていないことです。

新しい仏教の流入に危機感を持っていない天皇であったし、その後も仏教を弾圧する所作をだれも成し

得なかったことも「曖昧な感性と受動的な思考」に自然に立脚しているのでしょう。

 

仏教が1000年以上も神道排斥せずにいたように、他宗教を排斥する性質でないからこそ神仏習合が成立

してきたのでしょう。

 

しかし、当時の天皇がイェスノーを明解にジャッジする独裁者で神道排斥を徹底した場合、日本は天皇

制を維持できていたのか、これも学者さんに伺いたい点です?

 

 

 

 

2)本地垂迹の思想

 

奈良時代、聖武天皇までは、仏とはあくまで外国から来た「蛮神」であり、八百神の1柱に過ぎないと

考え神道が「主」で仏教は「従」でした。

聖武天皇になると天皇家が仏教に深く帰依し東大寺、国分寺の創設に努めるなど仏教のランクを上げま

した。しかし、仏教を「主」としたのではなく、外来の仏教と日本古来の神道とが習合した形を理想と

解いたのです。

天皇が、公式には神道、個人は仏教という神仏習合を率先したのです。 

 

  仏教では、悟りを会得する過程で如来、菩薩、明王、天などと姿が変化する多身説があります。

そこで考えられたのが仏様が神様に変わってこの世に現れたとする権現です。

「権」は権威、権力の意味ではなく「仮」の意味で「仮の姿」で神道信仰の中に仏を参入させるよう時

のトップを解いたのです

 

・薬師如来が垂迹して素盞嗚命、

・天照大神は大日如来、

・熊野の神を熊野権現と呼び阿弥陀如来 

・八幡神は阿弥陀如来 = 応神天皇等・・・・・

                        仏教に都合の良い説教を展開してきました。

 

 

 本地垂迹  ほんじすいじゃく

 

 日本古来の神祇信仰と仏教の仏菩薩の信仰が同化する、いわゆる神仏習合に基づく考え方で、仏菩薩がこの世の

 人を救うために仮に姿を現すとし、仏菩薩を本地(真実の身)、神を垂迹(仮の身)とする思想である。

 

 もとは『法華経』の本門・迹門、『大日経』の本地身・加持身などの説に発し、歴史上の釈迦を永遠普遍の超越

 的な本仏の現れとする思想に基づく。

 外来思想である仏教は早くから神祇との習合に努め、奈良時代には、神は仏をいれないとする抵抗を排除して、

 接近に成功した。

 

 神宮寺の出現がそれで、698年(文武天皇2)伊勢国(三重県)度会郡に遷された多気大神宮寺が初見である。

 そして各地の大社に神宮寺の建立をみた過程で、神を罪業の報いとする劣等感を神祇に植え付け、仏はその神を

 守るとした考え方や、逆に神は仏を守り、仏法を喜ぶとした考えを生み出したが、神仏の習合に積極的に働いた

 のは八幡神である。

 

 東大寺大仏の建立に協力した宇佐八幡がそれで、菩薩号が与えられたのは八幡神が最初である。

 こうした神仏習合の進行は神前読経、度僧、写経、写仏の盛行を生み、また寺中に寺を守る鎮守神を置くに至

 るが、八幡神が大安寺行教によって石清水に勧請された859年(貞観1)、天台僧恵亮が賀茂・春日二神のため

 に年分度者を置くよう請うた表に初めて垂迹の語を用いたことは、習合が一段と進んだことを示している。

 

 「皇覚(仏)物(衆生(しゅじょう))を導くに且は実、且は権、大士(菩薩)迹を垂れて或は王、或は神」と説

 いた。こうした素地は、937年(承平7)筑前(福岡県)筥崎宮の神宮寺多宝塔の建立を計画した天台僧兼祐の

 申状の「権現菩薩の垂迹」という表現を生み、神は仏菩薩が権(かり)に姿を現してこの世に迹を垂れたものとし

 たのである。

 

 こうして垂迹としての権現の思想は、平安後期には熱田権現、蔵王権現などの権現を生み、それがその本地の明

 確化を要求するに至った。その初め、幽玄にして計りがたいとされた八幡権現の「本覚(本地)」が阿弥陀仏と

 され、熊野権現が弥陀・観音の垂迹とされるにつれて、やがて熊野三山の三所、五所王子などの本地が明らかに

 されることによって本地決定の傾向が一段と進んだ。

 

 またこの動きと呼応して天台、真言両宗では教義的裏づけが行われ、天台に山王一実神道、真言に両部習合神道

 が生じた。しかしこれら仏本神迹の説に対して、南北朝期には神国日本の理念にたって神本仏迹の神道論も生じ、

 北畠親房はその先駆けをなした。[石田瑞麿]

 

 

 

  本地垂迹説は平安時代中期から後期にかけて全国的に流布し、上記のように国内の神々には特定の仏、菩

 薩号があてられました。仏の霊験は神の神徳の説明に役立ち、民衆教化の出発点でもあり、中世の神道は、

 これを理論化し展開したといわれています。

 

     a3若一王寺神社神仏         a3御上神社神仏

    長野 若一王寺神社  鳥居をくぐると三重塔     滋賀 御上神社本殿 白壁、組物など仏殿




3、神仏習合の始まり

 

1)東大寺と宇佐八幡

 

宇佐神宮HPより

奈良の大仏は聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会

が行われました。

大仏を作るために使われた金属は銅499.0トン、すず8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンです。

聖武天皇は疫病や社会不安から国を鎮護するための国家的大事業として東大寺を建立していましたが、天皇が沢

山の費用を使って仏教寺院を建立すれば、貴族からどんな反対の意見が出るかもしれません。

 

そんな心配のある時に、宇佐の八幡神から「われ天神地祇を率い、必ず成し奉。銅の湯を水となし、わが身を

草木に交えて障ることなくなさん」という協力の託宣が出されました。

 

八幡神は天の神、地の神を率いて、わが身をなげうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させるというのです

から、聖武天皇にとって、これほど心強いことはありません。

大仏に塗る金が不足すると金は必ず国内より出るという託宣を出しやがて陸奥国から金が献上されてきました。

 

また、大仏鋳造直後の天平勝宝元(749)年12月に八幡大神とお供の宇佐宮の女禰宜・大神杜女が大仏を拝

するため、紫の輿に乗って転害門をくぐりました。これが「神輿の始まりとされています。

紫の輿とは天皇が使用する高貴なものでした。転害門では大勢の僧侶、文武百官が出迎えました。

 

東大寺では八幡神を迎え、聖武太上天皇、考謙天皇、光明皇太后の行幸のもと、僧侶5000人の読経、呉楽、

五節舞などの法要が賑々しく営まれました。

 

また、三年後の天平勝宝4(752)年に行われた東大寺大仏開眼法要について、『東大寺縁起(えんぎ)』に

は、次のように記されています

開眼法要のため聖武太上天皇・孝謙天皇が大仏殿に入御され、続いて八幡神も入御になりました。

そのとき、「神明霊威」により内裏に「天下太平」の文字が出現しました。

おめでたいということで、年号を天平勝宝から天平宝字に改元したといわれています。

 

大仏建立の協力の褒美として朝廷から八幡神へ封戸800戸・位田60町がおくられ、東大寺が完成すると東大

寺を護る神として、寺の近くに手向山八幡が分霊として祀られました。

八幡神は奈良の人々に強力な印象を与え、国家神としての第一歩を踏み出したのでした。

 

 

 

2)寺社一体の神宮寺

 

 715年(霊亀元年)には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レ

 ベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始めました。

 満願禅師らによる鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設され、宇佐八幡神の

 ように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)まで現れました。

 

 奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行 

 をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津

 島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依したいとの意思を示すよう

 になったようです。

 

 こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるよ

 うになってきました。

 

 寺院も神社側への接近し、8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするように

 なりました。710年(和銅3年)の興福寺における春日大社は最も早い例で、東大寺は大仏建立に協力し

 た宇佐八幡神を勧請して鎮守としたのが現在の手向山八幡宮です。

 

 他の古代の有力寺院を見ても、延暦寺は日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などといず

 れも守護神を持つことになりました。

 熊野は本宮・新宮・那智の三社(熊野三所権現)より構成され、熊野本宮の本地・阿弥陀如来は平安末以

 降の阿弥陀仏による救済願望に応える神として衆庶の信仰を集め、一大霊場として繁栄を極めました

 

 

        「がらくた置場」に詳細が記述されています。熟読ください。

           
                
初期古代神宮寺

 

 

 

4、神仏習合と建築史学

 

 1)神社と寺院が併設の事例

寺院建築は、当然6世紀の仏教伝来以降に出現していますが、神社建築はいつから出現したのか起源は、

6世紀以前なのか、以後なのか明快ではありません。(3-2 神社建築の起源)参照して下さい。  

 

 8世紀初頭、まず「神社が寺院を併設」を始めました。寺院建築様式で神宮寺を建築したのでしょう。

その頃は神社境内に三重塔などの塔婆を建立することが多かったようです。

 

  ●神社に寺院が併設

   ・越前国気比神宮寺  霊亀年間(715~)  ・若狭国若狭彦神宮寺の建立 養老年間(717~)

   ・筑前国筥崎宮の神を権現 承平五年(935) ・尾張国熱田神社も権現   寛弘元年(1004)  

   ・伊勢大神宮寺、 若狭比古神願寺、 宇佐八幡神宮寺、 松浦神宮弥勒知識寺、 多度神宮寺、

    八幡比売神宮寺、 補陀洛山神宮寺、 三輪神宮寺、 高雄神願寺、 賀茂神宮寺、熱田神宮寺、

    気多神宮寺、石上神宮寺、石清水八幡神宮寺、鎌倉八幡神宮寺・・・・

    等、現在でも有名な神社が寺院を併設していました。  

 

 

① 気比神社

    越前国気比大神の託宣により神宮寺715年(霊亀元年)に神宮寺が建立

  715年建立時の詳細は探訪できません。  982年平安時代に再建されているようです。

気比神宮社頭図・・・(がらくた置き場より)

 神宮寺があり、五重塔1基、三重塔2基(北塔・南塔)があった。この図は中世の景観とされる。


         気比神社伽藍絵図

 「三代実録」清和天皇御巻:

 この当時気比大神宮寺の大造営が行われたと推定される。

 天元5年(982)前越前権守中臣丸良用に気比大神宮寺を造立させるようにとの越前国司宛の太政官符

 が発布。太政官符によれば、その規模は以下のようであった。       
 

  七間檜皮葺 講堂1宇、南檜皮葺 二重金堂1宇、北二重檜皮葺 金堂

  南三重檜皮葺塔1基 高6丈6尺、毎廻3丈8尺

  北三重檜皮葺塔1基 高6丈6尺、毎廻3丈8尺

  東三間檜皮葺中門1宇、南五間檜皮葺中門1宇、西三間檜皮葺中門1宇

  廻廊四面、経蔵、垣、大間、宝蔵、僧坊、食堂・・・など

 

塔婆が3棟もある 大伽藍です・・・・残存していれば素晴らしい寺院の景観が望めたことでしょう! 

 

 

② 宇佐神宮寺(弥勒寺)・・・・(がらくた置き場より)

 

「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」(承和11年・844)

神亀2年(725)、宇佐八幡宮創建及び弥勒足禅院創建。

この弥勒足禅院は菱形宮の東に造立されたと推定される。この地には奈良期の瓦が出土するという。

天平9年大御神の発願で、弥勒足禅院は宮の西に移され、弥勒寺となるという。

天平15年三重塔一基を建立。 天平宝字7年弥勒寺金堂東に妙法堂(後の四王堂となる)建立。

また縁起によると、養老4年(720)の隼人征伐での霊を慰める放生会が始まり、これが神宮寺の成立と

も考えられる。

あるいは法鏡寺(大神氏氏寺)と虚空蔵寺(宇佐氏氏寺)とが統合されて弥勒寺が成立したとの説もあ

る。いずれにしろ天平10年弥勒寺に金堂・講堂が創建される。

創建時の金堂規模は三間四面堂(5間×4間)で、建久3年(1192)の再興で五間四面堂(7間×4

間)に拡張されたとされる。

(昭和29~35年の発掘調査で、金堂は7間×4間で、東西の1間は後の拡張であることが判明する。)

 
    
           宇佐神宮神宮寺

 

その後、承和5年(838)、永承6年(1051)、承暦元年(1077)、元暦元年(1184)に焼失の記録

がある。建久3年(1192)金堂炎上、

東に経蔵、南に東三重塔・西三重塔、西に鐘楼、北に講堂ありと記される。

 

 文永年間(1264-75)、建久3年の焼失金堂が再興。

  ※建保2年(1215)文書では金堂五間四面で再興と記される。

 延慶2年(1309)弥勒寺灰燼に帰す。元徳年間にほぼ再興される。再興金堂は五間四面を踏襲。

 大永3年(1523)弥勒寺焼失、翌及び翌々年には半分は再興。

 天正4年(1576)諸堂塔が焼失。

 慶長年間細川忠興による造営。・・以下省略

 


③ 鹿島神宮寺

○2008/09/07追加:「茨城県史 原始古代編」1985

鹿島明神南東約2kmの鉢形の台地縁にあった。昭和48年土採作業で全て削平され旧観を留めない。

破壊の過程で僅かに塼積基壇を持つ幾つかの建物跡が出土したとのみ伝える。

「新編常陸国誌」:神宮寺 鹿島郡鹿島宮中 鹿島山大神宮寺と号す。

 大神宮御本地とも称す。始めは鉢形村神宮寺澤にあり。・・・・   詳細の記録はないようです。

 


④ 石清水八幡宮寺

「石清水八幡宮寺の宝塔院(琴塔)について」中安真理、

       (「美術史研究」第42冊、2004年12月、早稲田大学美術史学会 所収) より

諸種の記録から、平安末期以降、宝塔院内で「法華三昧」が修されていたことは確かである。

宝塔院に法華経を安置した記録は見つからないが、「法華三昧」が修される宝塔とは、最澄の発願にな

る「六所宝塔」との類似性が指摘できる。

即ち石清水八幡宮宝塔院も六所宝塔院と同じく法華塔と考えられるであろう。

要するに、六所宝塔の設置目的(鎮護国家・護国)は八幡神の役割と重なり、その八幡宮に法華塔が建

立されるのはいわば必然と云えるのかもしれない。

ちょうど宇佐八幡宮に「安南:豊前:宝塔院」の設置が計画されたのと軌を同一にするのであろう。

                           ・・・・   詳細の記録はないようです。




 

8世紀後半、寺院が神社を併設するのですから、神社建築様式で建築された・・・これが違うようです。

 

●寺院に神社を併設

 ・興福寺 + 春日大社   710年(和銅3年)

 ・東大寺+手向山八幡宮  延暦寺+日吉大社 金剛峯寺+丹生神社 東寺+伏見稲荷大社・・・・

 

          と寺院も守護神を持つことが一般的になりました。

 

⑤ 春日大社

   社殿は、神社建築春日造ですが、その境内には仏教建築が配置されています。

  ・春日大社に2つの五重塔がありました。

 春日西塔:

   天永3年(1112)関白藤原忠実の御願塔起工。よって「殿下の御塔」と称される。

   永久4年(1116)御塔落慶。

           興福寺五重塔(永暦再興塔)を参考とする。(「殿暦」「中右記」)

           塔内には木造釈迦・薬師・地蔵・観音(各2脇侍を有する)の

           いわゆる春日四所の本地仏を安置、

           釈迦の脇には羂索観音が添えられていたという。(「殿暦」)

   治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちによって焼失。(「山槐記」「玉葉」)

   寛元4年(1246)再興塔の立柱(心柱)、相輪をあげる。(葉黄記?」)、

           恐らく寛治年中頃には完成と推定される。

   応永18年(1411)両塔とも落雷により焼失。その後は再興されず。

 春日東塔:

   保延6年(1140)鳥羽上皇の本願によって建立される。(「百錬抄」)「院の御塔」と称される。

   治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちにより焼失。

   建保5年(1217)再興(「興福寺別当次第」)。

   応永18年(1411)落雷によって焼失。その後は再興されず。

 
                        春日大社五重塔ー2


2)建築形式、様式の変化

 

 ① 初期神宮寺では塔を多く建立する例が多い。

  ・宇佐八幡神宮寺(弥勤寺)・住吉大社神宮寺などでは、薬師寺式の伽盞配置南面する。

 ② 山岳寺院、金堂、塔婆ではなく「講堂」が中心となります。


 ③ 
神社の勢力が大きい軸線と直交するように配され、寺院の勢力が大きいと中軸線上に建つ傾向がある。


 ④ 神社形式において
双堂式の権現造の創造されるなど寺院の形式、仕様細部様式が採用が多くあります。 

 

     

       上記が、神宮寺の建築について特徴がないかまとめてみました。

 

      何か、論文、文献がないか 今後も探訪していきます。 

 

 

 

神仏習合長く続き、1868年 王政復古の実現とともに、復古神道を基礎理念とした明治維新政府が発令したいわゆる神仏判然令(神仏分離令)によって神仏が分離されるまで、神仏習合した信仰や思想は、国民の間に広く浸透し 近現代においても日本人の精神構造に影響を及ぼしています。

 

 

         次に、明治政府の神仏分離について探訪いたします。

 

 

 

 

 

 

  2、 神仏分離

 

 

1、神仏分離令について   (明治政府は神道国家を目指す・・・)

 

神仏習合の思想が1000年以上続いてきましたが、明治維新の嵐の中で激しく揺れ動き 明治政府は、

王制復古思想ため神道を国教化を強制しました。

    幼い天皇(当時15才)を補佐する人々が、政治を独占しているとの批判に対応し、天皇みずからが主導

する政治体制を早期に確立する必要がありました。

天皇制による「王政復古」と「祭政一致」の実現をめざしたのが発端です。


 

 ● 神仏分離令

   明治維新政府の打ち出した神仏分離政策は、複数の法令の総称である「神仏判然の令」によって具体

   化され、概要は次のとおりです。

 

   ① 神社では仏像を神体としてはいけない。神社内にある梵鐘、鰐口、仏具等、仏教関係のものは除

     去する。

   ② 神社では、仏教的建造物も撤廃する。

   ③ 寺院が神社の祭祀に関与してはならない。神社での仏事は行わない。

   ④ 従来、神社の管理・祭祀は別当とか社僧と呼ばれる下級僧侶が行っていたが、それらは退職するか、

     またはその名称を神主、社人等と改める。つまり、僧侶を廃業するか、廃業したのち神主・社人

     として再就職する。

   ⑤ 神社では権現、菩薩、牛頭天王などの仏教後の名称を廃止する。

 

   この内容は、神社から仏教的な色彩を一掃し、神と仏をはっきりと区別することを命じているのであ

   って「仏教を止めなさい、仏像などは捨てなさい」という命令ではなかったのです。

 

   要するに、神社から仏教的な色彩を一掃し、神と仏をはっきりと区別するというもので、必ずしも廃

   仏毀釈が目的ではなかったのです。

 

   しかし、一般には廃仏毀釈と受け取られ、多くの仏像や仏具・経巻などが破壊・焼却され、これを煽動

   するものが多発したのです。仏教界に大きな打撃を与え、多くの貴重な文化遺跡が失われました。

   その行動の下地は、江戸時代中期ごろから渦巻いており、仏教、寺院に対する不満が維新によって爆

   発したのです。

 

 

2、廃仏毀釈の要因   (強大になった寺院、僧侶に対する不満・・・)

 

・江戸時代の仏教は一般民衆には嫌われていて その仏教を説く坊主は侮蔑の対象ともなっていました。

 「坊主丸儲け」「地獄の沙汰も金次第」「布施の分だけ経を読む」「経も読まずに布施を取る」「くそ

 坊主」などという言葉は当時が起源と云われています。

 

 ・廃仏毀釈がこれほど激しくなったのは、江戸時代には寺院が特権を持っており、寺社奉行による寺請制

度で寺院を通じた民衆管理が法制化され、汚職の温床となったことで、それに対する民衆の反発があっ

たことも要因です。

 

・また、寺院には檀家制度があり寺の周辺住民はその寺の檀家にならざるを得ず 冠婚葬祭は必ず寺に依

 頼せざるを得ませんでした。寺の坊主はことあるごとにお布施を強要し 横暴、暴利の限りを尽くし民

 衆の怒りを増長させていました。

 

 ・このような背景がにあり 江戸時代の中期ごろから廃仏論的な事は論じられています。

  水戸藩主・徳川光圀(黄門様)と岡山藩主・池田光政の政策が代表的な例と言えます。

 

 ・多数の寺院が建立されたため、各寺院に属する檀家数が少なくなるので 由緒ある大寺の維持が困難に

なり、寺院の経営維持のため、檀家に華美な葬儀や法要を強制し多額な布施を要求したり各種名目での

寄付を強要したりで、民衆は疲弊していた事態に徳川光圀と池田光政は憂慮したわけです。

 

 ・徳川光圀は領内の半数以上の寺院統廃合を行い神社に対しては積極的な保護策を実施し、池田光政も寺

  院の統廃合を実施しましたが領内の寺院から抵抗され、あまり効果をあげる事はできなかったようです。

しかし幕府が異端視し弾圧していた 日蓮宗不受不施派寺院と信者への徹底した弾圧は幕府と各藩の注

目を集めたと言う事です。

 

 ・徳川光圀は寺院の統廃合に関する回答書で僧侶の堕落を糾弾し、多数の寺院は民にとって有害なもので

あり、寺院統廃合すれば一ヶ寺あたりの檀家数も増え寺院の経営維持も楽になり檀家も負担が少なくっ

て有益な事であると答えています。

 

 

            徳川斉昭                        島津斉彬

 

 ・幕末期の水戸藩主・徳川斉昭も大規模な寺院の統廃合を実施していますが寺院側に抵抗され、幕府から

藩政改革の行き過ぎを持って謹慎、致仕を命じられています。

 

 ・鹿児島藩においても国学者で神道学者である田中頼庸や平田派の国学者、後醍院真柱などの復古神道、

廃仏論がおおいに流行し、すでに島津斉彬は報時鐘以外の梵鐘は全て鋳潰して兵器製造にあてようと計

画し、また慶応元年(1865年)には神道で信仰界を統一する廃仏の計画を推進していました。

  鹿児島藩は王政復古の先頭に立つとともに廃仏毀釈運動の先頭にも立っていたのです。

 

 ・明治元年(1868年)三月十七日、神祇事務局から神仏判然令が公布されたので、かねてからの計画通り

  直ちに実行したということです。

明治初年に行われた神仏分離や廃仏毀釈は、明治維新が神武復古を理想とし、国学、とりわけ平田篤胤、

鉄胤たちによって唱導された廃仏論が、ひとつのイデオロギー的支柱になっていたため、祭政一致の形

態を取る神祇官、太政官を頂点とする政治形態が出現したのが原因のひとつであります。

 

 ・徳川光圀が大日本史の編纂に着手し水戸学と呼ばれる国学の基礎を作り、それ以降、水戸学が盛んにな

  って倒幕運動や明治維新にも影響しているといえます。

 

 

3、廃仏毀釈による文化財の消失

 

神仏分離だけには終わらず廃仏毀釈が全国で発生しました。

寺院の廃寺、仏像の破壊は凄かったようです。

今までの寺領は国に没収され経済的に窮地に追いやられ、坊主が自ら神職や軍人に成る者も有れば、仏像

を売り払って逃亡する者まで現れたのです。

神仏習合の寺院は廃止、破壊の標的にされ、逃れる為に仏像を秘かに隠くす、寺院の堂内に神像を祀る、

鳥居を設けるなどの存命策を弄していました。

 

その経過事例を下記に示します。 

 

● 慶応3年3月17日

「神祇事務局より諸社へ達」で、「このたびの王政復古の方針は悪い習慣を一掃することにあるので、

全国各地大小の神社のなかで、僧の姿のままで別当あるいは社僧などと唱えて神社の儀式を行っている

僧侶に対しては還俗を仰せつける」という通達を出しました。

 

● 慶応3年4月1日  

 比叡山麓坂本の日吉山王社を、突如として100人をこえる武装した一団が襲う。

 日吉山王は長らく延暦寺の管轄になっていたところだ。そこへ「神威隊」と名のる者50名、人足50

 名、さらに日吉社の社司・宮仕20名が加わって、どかどかと土足で本殿に乱入し、安置されていた仏

 像を壊し、仏具・経巻のたぐいを次々に放り出して焼き捨てました。

 仏像の代わりに「真榊」(まさかき)と称する「古物」を置くと、そのほかの七社に対しても同様の

 傍若無人なふるまいで、焼却された仏像・仏具・経巻は124点、掠奪された金具や調度は48点にのぼ

 りました。

 

 「廃仏毀釈」の最初の断行の例です。リーダーは樹下茂国(じゅげしげくに)という日吉社の社司で、

 明治政府の神祇官の事務局の権判事に就いており、岩倉具視と昵懇で、新政府の国教政策チームに玉

 松操を引き入れた当人でもあります。

 

● 4月4日~5月19日

 石清水八幡=男山神社 愛宕大権現=愛宕神社  金毘羅大権現象頭山金光院松尾寺=金刀比羅宮

 竹生島の弁才天妙覚院=都久夫須麻神社、奈良多武峰の妙楽寺=談山神社  名称を変更しました。

 

 ● 藩が主導した廃仏毀釈 

 津和野藩、隠岐藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩・高鍋藩・飫肥藩 薩摩藩・・・現存する寺院は少ない

 

● 廃寺は南九州で2000寺以上と云われています。 寺院、仏像の文化財が著しく少ない原因です。

 徹底に破壊されたのが薩摩藩で 寺院の1,616寺院が廃され、還俗した僧侶2,966人を数え僧侶の3

 分の1は軍人になったと云われています。

 

●その他の事例

・大阪住吉大社は 神宮寺の大きな堂塔も破壊され、修験道の出羽三山も、多くの坊舎が壊されました。

・千葉県の 鋸山の五百羅漢は当時すべて破壊されましたが 現在復元さらえています。

・興福寺は 貴重な文化財といえる仏像は壊され五重塔が「廃仏毀釈」で25円で売りに出されました。 

・地域によって差は有ったものの美濃国では仏教の施設が無くなって、神道になることを余儀なくされ

 現在でも葬式も神式で行なう家庭は少なくないようです。

・明治3年 富山藩では廃仏、領内313寺院を各宗一寺合わせ8カ寺に統合する為廃仏が行われた。

・明治5年 修験宗の廃止、本山、当山、羽黒山とも天台、真言に帰入、吉野金峯山寺、湯殿山、月山

      で廃仏。

 

神仏習合の寺院などは悉く廃止、破壊の標的にされ、逃れる為に仏像を秘かに隠したり、俄かに鳥居を

設けて神道を装う寺院も出て、浄土真宗では明治政府に廃仏毀釈による被害で訴訟を起こしました。

 

 

●神仏分離の終焉

Wiki 転記

明治政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、明治5年3月14日(1872年4月21

日)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫した。

これは特に平田派の国学者が主張する復古的な祭政一致の政体の実行が現実的には困難であったからで

ある。

神道の国教化は宣教経験に乏しい神道関係者のみでは難しく、仏教界の協力がなくては遂行できないこ

とは明白であった。そこで、浄土真宗の島地黙雷の具申をきっかけとして、明治5年に神祇省は教部省

に再編成、教育機関として大教院を設置、教導職には僧侶なども任命されて、神道国教化への神仏共同

布教体制ができあがった。

神道国教化にはキリスト教排斥の目的もあったが、西洋諸国は強く反発、信教の自由の保証を求められ

た。結果、明治8年には大教院を閉鎖、明治10年には教部省も廃止し、内務省社寺局に縮小され、神道

国教化の政策は放棄された。代わって神道は宗教ではないという見解が採用された。

 

 

 

4、まとめ

 

  神仏分離については「がらくた置き場」を読まれれば、建築史を含め理解できます。参照してください。 

 

  

  廃仏毀釈の徹底は、地域により大きな差があったのは、主に国学の普及度合いのによるものです。 

  平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への反論が、仏教の排斥につながったようです。 

廃仏毀釈のその後は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとし

た政府の動きと呼応して国家神道の発端となりました。

その効果として 靖国神社をはじめ全国の護国神社や、橿原神宮などという歴史的根拠のない神社を創

設の起因となっています。

 

日本人の信仰も 2008年5月に実施した年間連続調査「日本人」では、何かの宗教を信じている人は

26%にとどまるという結果が出ていましたが、そんな我国は世界で最も信仰心が薄い国の1つであるこ

とが米ギャラップ社の世論調査から判明しました。ちなみに143ヶ国中136位となっているのが現状で

のようです。

 

日本人は、特定の宗教を信じている人は他の国と比べ少ない。

けれども、日本人は「宗教的な気持ち」を大切にする気持ちは強く、宗教に対する意識が低い「無宗

教」という訳では ないのかも知れません。

その証拠に 一之宮巡りが流行し、四国遍路も盛ん、仏像展は満員などの現象があります。

 

 

いずれにしても、国宝、重要文化財クラスの寺院、仏像、石造美術品の多数が明治初期に多数消失して

いる事実は悲しい限りである。残存していれば「世界文化遺産」となり 各地方の自治体も観光収入が

増えていたと思われ残念です。 

          




 


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