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寺社建築と文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源、歴史、文化財の紹介と文化財の問題点を探訪しています。 常時更新中です!
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カテゴリー  [ 2-2 韓国の建築史探訪 ]

韓国の文化財の事情を探訪します。

2-2 韓国の建築史探訪 2013/08記述

 

 

 

 

2-2

  韓国の建築史探訪

 

 

 朝鮮半島の神社建築は明治時代以降の日本系神社建築以外に、独自の神社が有るのか少し調べてみよう

  と いつものようにネット探訪をしていました。

 

 仏像の盗難騒ぎ、靖国神社問題等最近の話題から「韓国起源説」「崇儒廃仏政策」等興味深いテーマが数

 多く検索され どう収拾するか困惑しました

 

 今回、神社、文化財を中心に諸先輩のHPを参考に記述し、韓国の歴史、仏教伝来の経過等から韓国の建造

 物まで、まとめてみます。

 

 

  1、 韓国に神社は有るのか 

 

 

 現在は、神社のようなものは、現存していない。粗末な祠程度のものが散在しているだけのようです。

 その祠は、ムーダンと称する巫女が司祭を行うもので、韓国で根付いている信仰とはいえないようです。

 

 韓国の全羅南道小鹿島に韓国で唯一現存すると言われている日本の神社「小鹿島更生園神社」が在ります。

 文化財庁によると、1935年に建立され、2004年に登録文化財第71号に指定されています

 

 日帝時代には韓国内に1000以上の神社が建てられましたが、すべて撤去され、現在は小鹿島に位置する

 この神社だけが唯一原型を維持しているものです。

 

 しかし 神社の保存について否定的な気運が高まってきており 存命は厳しそうです。


            グラフィックス3小鹿島更生園神社
                      小鹿島更生園神社

 

 戦前には、国幣大社、商社が近代社格制度で各地に造営されましたが、戦後全て解体されています。

 

   朝鮮神宮  (廃社) 朝鮮京畿道京城府(大社) 扶余神宮  鎮座されず

   京城神社  (廃社) 朝鮮京城府         竜頭山神社 (廃社) 朝鮮慶尚南道釜山府 

   大邱神社  (廃社) 朝鮮慶尚北道大邱府    平壌神社  (廃社) 朝鮮平安南道平壌府 

   光州神社  (廃社) 朝鮮全羅南道光州府    江原神社  (廃社) 朝鮮江原道春川郡

   全州神社  (廃社) 朝鮮全羅北道全州府    咸興神社  (廃社) 朝鮮咸鏡南道咸興府 

 

 

1)日本統治時代の韓国

 

  これらの神社に、日本人以外の人々は参拝していたのでしょうか

神道の朝鮮半島への普及は進まず、1925年にようやく朝鮮神社が設置された。1937年盧溝橋事件を期

に日中戦争は全面化し、朝鮮における皇民化教育の一環として皇国臣民ノ誓詞が発布され、日韓合邦の

実を挙げ帝国臣民化を図る目的として国家神道が利用され、神道非宗教説をもとにキリスト教会や仏教

会は神社参拝が強要された。1938年前後から朝鮮各地に官幣神社が増設されてゆき「皇国臣民化」「内

鮮一体」の重要な役割を担うようになる。

 

2) 神社参拝にしても

 

  神社参拝にしても、強制的にさせられた。確かに、韓国人に聞きますと、いかざるを得なかったと言います。

けれども、日本人に聞いてみると、日本人の学生がみんな行くので、韓国人の学生も一緒に行ったけれど

も、行きたくない人を強制的に連れて行ったわけではないと言うのです。

学校の先生をされていた日本人は、教え子にクリスチャンが1人いて、神社参拝はできませんというので、

みんなが神社参拝している間、外で待たせていたと語っておられます。 

 

 3)神社参拝の強制

 

日本人の氏子に対し、朝鮮人の氏子は、4倍の数になっていた。神社は、現地の人々に支えられていた。 


  グラフィックス3朝鮮神社   グラフィックス3京城神社        
        朝鮮神社                  京城神社




  2、 韓国の文化財 

 

 

1、韓国の文化財

  

  1962年に文化財保護法が制定され、1962年12月20日に116点の文化財が国宝に指定されました。

その後、順次、新たな文化財が追加指定され、2012年7月現在、316点が国宝に指定されています。

 

 

 韓国の文化財保護法

 

 第二章 国家指定文化財

第1節 指定

第4条 (宝物・国宝の指定)

(1)文化財庁長は文化財委員会の審議を経て有形文化財のうち重要なものを宝物として指定する

 ことができる。  

(2)文化財庁長は第1項の宝物に該当する文化財のうち、人類文化の見地に立ってその価値が

   大きく、類例のい物に関しては、文化財委員会の審議を経たのち国宝として指定することが

   できる。

 

 

 

法律は、日本と余り変わらないようですが指定基準など詳細は不明です。

 

韓国の国宝建築余り多くないようです。

1番は、有名な 崇礼門(南大門)です。50番までで建造物は8件で、石造美術品が多いようです。

勿論神社はありません。

 

これらを、参考にしてください。

        大韓民国指定国宝  韓国古蹟写真帳  韓国国宝1号”崇礼門のきのうときょう  韓国のユネスコ世界文化遺産


 崇礼門(南大門)韓国の国宝第1号 

   

 wiki崇礼問より   火災後の復元でも 非常にレベルが低い管理しか出来ていません。

 

 

 

 2013年4月に復元工事が終了し、同年5月4日に復元記念式典が開催された。

 

ところが同年10月頃から丹青に亀裂や退色が、また一部の木材に亀裂が走るなどしたため、復元

工事に問題があったのではないかとの指摘が相次いだ。

 

この際、韓国の一部では原因は日本の塗料や接着剤を使用したためとも報道された。

 

同年11月には韓国文化庁が手抜き工事を認めて謝罪、保存管理に最善をつくすことを発表した。

 

その後の調査により、丹青の膠が予定されていた天然のものではなく、化学顔料を用いた安いもの

を使用していたこと、乾燥が不十分であった木材を使用していたことなどが判明した。

2013年12月の頭より立ち入りが禁止されている。

 

32本の柱に使用した木材の内、確認されただけでも3~4本、予測では7~8本が本来予定され

ていた韓国産の金剛松ではなく価格が100分の1程度の安価なロシア産であったことが判明した。

警察関係者は何者かが金剛松を横流しし、費用を着服したと見ている。

 

2014年5月になって監査院は、手抜き工事は言うまでもなく職人の独断で燃えやすい油が使われ

たため火災の危険があり、再工事が必要との意見を表明した。

 

 

 

 

2、朝鮮半島の最古の寺院  詳細は、「3-3 寺院建築の起源」 で詳述します。

 

375年  肖門寺・伊弗蘭寺

 「374年、符堅はまた別の僧・阿道を派遣してきた。そこで、小獣林王は順道のために肖門寺を創建し、

 また、阿道のために伊弗蘭寺を創建してそれぞれの僧を住まわせ、海東における仏法、ここに始まると

 されている」。百済の聖明王が我が国に仏教を伝える164年(538)も前の話である。 

 

● 高句麗では (仏教建築は伽藍跡だけで、木造建築は残っていない) 

393年 平壌に建てられた9つの寺

478年 清岩里廃寺「金剛寺」・上五里廃寺(定陵寺)

    平壌特別市大聖区域清岩里にある三国時代高句麗の寺院址。大同江右岸の清岩里土城内にあり,

    1938年に発掘調査された。その結果,平面が八角形の建物を中央に置き,その東・西・北の三方

    に堂宇と,南方に中門を配置するという,一塔三金堂式の伽藍であることがわかった。

    北方建物の北側の台地でさらに数棟の建物跡が認められたが,いずれも高麗時代のものである。

    《三国史記》によると,文咨王7年(498)に〈秋七月創金剛寺〉と記す

    1938年と1939年に日本によって調査された。

 

● 百済では  (仏教建築は伽藍跡だけで、木造建築は残っていない)

  公州と扶余に寺院跡があり、扶余の軍守里廃寺、東南里廃寺、金剛寺などで伽藍配置が知られている。

    定林寺址,金剛寺址,軍守里廃寺は中門と講堂を回廊で結び,金堂を囲う四天王寺式伽藍であり,

    弥勒寺址は回廊が金堂と講堂の中間で閉じる日本の山田寺伽藍と同形式である。

    東南里廃寺は塔がなく金堂を中心にして中門と講堂を回廊で結ぶ形式で日本には紀寺に例がある。

 

● 新羅では

566年 皇竜寺

    発掘調査によって,566年竣成から統一新羅時代にわたる大伽藍の全容と変遷が明らかにされた。

    創建伽藍は百済式で,三面僧房が中門の東西方まで延びて中門とは回廊で連結する。

    この形式は唐の西明寺を模したと伝えられる日本の大安寺伽藍と類似する点で興味深い。

 

645年 皇竜寺 九重の木造塔が完成 

    塔の後ろ両わきに小金堂を配した中金堂、その後ろに講堂があり、中門から発する回廊が塔と三

    金堂を囲んで講堂につながる珍しい配置が確認されている。

    高句麗の塔を中心とする一塔三金堂配置に対し、塔と並列する一塔三金堂配置である。

    古新羅の他の寺院では百済と同じく、一塔一金堂を一列に並べた配置と推定されるがさだかでは

    ない。

 

● 新羅の三国統一後 新羅は唐と結んで660年に百済を668年に高句麗を滅ぼした

 

669年 四天王寺 金堂の前方左右に双塔を配する形式の「二塔一金堂」の配置である。

682年 感恩寺

684年 望徳寺  金堂の前方左右に双塔を配する形式の「二塔一金堂」の配置である。

751年 仏国寺

    盛行がうかがえるが、当時の木造建築は現存しない。加藤清正が焼いたのではない。

    石塔では感恩寺、高仙寺の三重塔や、仏国寺の多宝塔、浄恵寺十三重塔などが著名である。


 

● 高麗時代後半の建築

  高麗時代に入って半島北部の開城に首都が遷り,仏教は国教として厚く保護され,全国各地に多くの

  寺院が建てられた。しかし,度重なる外寇とくに高麗末期の倭寇の侵入によってその多くは焼失した。

 

  高麗時代後半の建築には強い胴張りをもつ柱,斗(ときよう)形式に三国時代以来の古い要素をなお

  も残しているが,三国統一前後から唐文化の影響を強く受けて統一新羅時代に定着した唐様式を継承

  している。

 

  例えば,現存最古の木造建築である鳳停寺極楽殿(12世紀)や浮石寺無量寿殿(13世紀)の斗形式や,

  二重虹梁蟇を基本とする構造形式に唐様式が根強く生きている。

  しかし,鳳停寺極楽殿の頭貫木鼻を垂直に切った形式や,母屋桁下架構の発達などは,中国華北の遼

  時代建築細部を受容したものであり,また,肘木下端の繰形は12世紀ころに南宋から伝わった様式

  (日本でいう大仏様=天竺様)の影響と認められる。

  新羅以来の伝統様式の上に新しく中国の建築様式を採り入れて折衷様化を図り,日本の折衷様式と同

  じ経過をたどっている。

 

  この様式は斗の組み方から柱心包様式と呼ばれ,前記2例に続く例に 修徳寺大雄殿(1308),江陵密

  舎門(14世紀),成仏寺極楽殿(1320ころ),浮石寺祖師堂(1377),道岬寺解脱門(1473),無為寺極楽

  殿(15世紀),松広寺国師殿(15世紀)などがある。

 

  16世紀後半からの儒教興隆に伴い仏教が衰退し、仏寺も平地を離れて山間に造営されるようになった

 

 

●現存する最古の建造物

 

1376  浮石寺 無量寿殿(国宝第18号)

    修徳寺の大雄殿(国宝第49号)、鳳停寺の極楽殿(国宝第15号)と共に韓国最古の木造建築の

    一つとされている。

    扁額は恭愍王(在位1351年 - 1374年)の親筆である。1916年の解体補修のさい、1358年(恭

    愍王7年)に盗賊によって建物が燃やされ、1376年(禑王2年)に再建したと書かれた墨書銘が

    発見された。

 

 

 

3、朝鮮半島の仏教公伝と寺院

 

朝鮮半島への仏教の伝来は、

・高句麗へは372年(小獣林王2年)・百済へは384年(枕流王元年)

・新羅では528年(法興王14年)に公認とされています。

 又、375年に、「肖門寺・伊弗蘭寺」が建立されたとされています。

 

肖門寺と伊弗蘭寺については,その位置さえもはっきり分かっていない状況であり,そこに仏塔があっ

たのかを明確にするには、今のところ限界を認めざるを得ないようです。

 

高句麗で2~3年で寺院を4世紀に建立したことは特筆すべきことと思ったのですが、中国の属国であ

り中国が高句麗に来て寺院を建立したということでしょう。それなら直ぐに寺院が完成します。

 

 

 

 

  3、 韓国の歴史(概要) 

 

 

1、韓国の歴史の特長

 

 韓国の歴史で、世界的にも稀なのかもしれないが開闢以来1900年の長きに亘り 独立国となっていなか

 った事大きな特徴です。

 

 古代の三韓時代、朝鮮半島のソウル以北が400年の長きにわたって漢帝国の直轄領であったにもかかわ

らず、韓国の教科書には中国文明の寄与については 最小限の記述に留まっているのは驚愕します。

 

一方、高句麗及びその末裔である渤海が、旧満州に起源を発する、いわば中華帝国の“地方政権”にすぎ

  ないのは誰がみても明らかですが、教科書はこれに触れることはありません

 

更にモンゴルに100年 中国の明、清に500年も属国であった歴史を明解にすることもないのです

 

20世紀に入っても、日本 アメリカの支配下にあり 大韓民国として独立したのは、1948年です。

         この歴史を大きく曲解しているのが今の韓国です。呆れます。

 

このような環境下では、文化的に優れたものが創出されはずはなく悶々と1000年を経過してきた事は非常

に悲しむべきことであります・・・・・・・・・・・・が

 

現在、半万年(5000年前)独立していたという政府が作った嘘の朝鮮国史が教育され、1000年間の長き

に渡る清(中国)などの支配からの悲願の独立が、「日清戦争に勝利した日本のおかげ」とは絶対にいわ

ない嘘を教え込んでいるのが韓国です。

 

更に韓国起源説」まで現れ、世界の文化、伝播は、全て朝鮮半島に起因していると放言し 世界中を

れさせているのも現状です。

 

確証のある歴史に基づかない論説を自国で蔓延させる、世界にも発信する、教科書にも・・・。

紀元前から植民地、属国で繰り返し独立国家になったのは戦後、その僻みとしか思えない言動は 服従の

呪縛から解き離れた反動か、独立時の人種と古代からの人種は違うのか・・・

 

             理解できない国になってしまっています。

 

          

                表ー1  韓国の属国の歴史

年代

主権

 

概要

紀元前 土器時代

 

 

ヒスイの発掘・新潟糸魚川産と判明

紀元前108年~220年

中国、漢の植民地

 

 

221年~245年

中国、魏の植民地

南部

馬韓(百済)辰韓(新羅)弁韓(任那)

108年~313年

中国、晋の植民地

北部

高句麗、朱蒙によって建国

朝鮮半島の三国時代

 

 

 

4世紀~7世紀

 の属国

北部

高句麗(紀元前1世紀~668)首都は平壌

 

 

好太王の碑 倭(日本)高句麗と戦う

 

南西部

百済(4世紀半ば~660)首都は扶余

 

南東部

新羅(4世紀半ば~935) 首都はずっと慶州

  5世紀~6世紀

栄山江流域

南部

前方後円形墳(長鼓墳)10数基 存在

660年 

668

新羅、百済滅ぼす

新羅、高句麗滅ぼす

 

白村江の戦い

滅ぼされた百済、高句麗人は日本へ移住

668~935

朝鮮半島統一新羅

 

首都慶州

8世紀~10世紀

渤海属国

 

 

918~1392

高麗

 

首都は開城

1126年~1234年

金(属国)

 

 

1259年~1356年

モンゴル(属国)

 

1281年弘安の役

1392年~1637年

(属国)

 

倭寇撃退に功のあった李成桂が李氏朝鮮王朝を開く

李氏崇儒廃仏政策で寺院仏像消失

1397年

景福宮完成

 

1910年の併合まで李氏朝鮮の王宮

 

豊臣秀吉による朝鮮侵略・・・朝鮮に大きな被害と豊臣政権の弱体化をもたらす

1592年

文禄の役 

 

壬申の倭乱

1597年 

慶長の役

 

丁酉の倭乱

1637年~1897年

清の属国

 

 

1897年

下関条約

 

清の属国から開放

1903年

ロシアが南下

 

日本の尽力によりロシアの属国化を回避

1905年~1910年

日本(保護国)

 

 

1909年

 

 

伊藤博文内閣総理大臣が安 重根に暗殺

1910年~1945年

日本(併合)

 

韓国インフラの大整備資金や資材の支援

 

 

 

日本敗戦時に、1000以上もあった神社を破壊する

1945年~1948年

アメリカ(非独立)

 

朝鮮戦争

1948年

大韓民国成立

 

アメリカ軍による朝鮮統治、国家基盤が形成、成立

 

 

 

 

 

 

2、半島からの難民

 

 7世紀に、朝鮮半島にあった、百済、新羅、高句麗は、新羅により百済と高句麗が滅ぼされ、半島は統一

 されました。 日本は、百済を保護国としていていましたが、新羅、高句麗とも交流がありました。

 と言うか、朝鮮半島の三国は、お互いを牽制する為に、唐や日本に貢ぎ物を贈って、「イザッて時によろ

 しくね」と保険をかけていました。

 ちなみに、韓国が言う、「半島が日本に文化を伝えた」と言うのは[貢ぎ物]の事です。

 日本からの[貢ぎ物のリクエスト]が分かっています。

 

 そして、ついに[百済滅亡]と[高句麗滅亡]と言う[イザッって時]が来たので、日本は、百済と高句

 麗の難民を保護しました。

 百済人は西日本、高句麗人は東日本に、それぞれ千人単位の集落を作らせて、三年間、[生活保護費]を

 無償で与えました。だから、西日本に[百済の痕跡]が、東日本に[高句麗の痕跡]が残されています。 

 確か、高句麗は[王様も亡命]してきたはずです。そして、高麗は、新羅を滅ぼして作られた国なので、

 [亡命高句麗人]と[高麗]に、直接の関係はありません。

 

 高麗は[亡命しなかった高句麗人の国]で、200年以上の開きがあります。

 高麗が建国された頃には、亡命百済人も高句麗人も、普通に日本人になっていたでしょう。

 元々、朝鮮半島では、新しい国が建国されると、前の国を完全否定して、人は殺し、建物は壊し、書物は

 焼くので、何も残っていません。だから、韓国国内で歴史探索は出来ません。

 

 だから、韓国人は[日本文化は全部、半島人の作ったモノだから、日本の歴史文化を見れば半島文化を見

 た事になる]と決めているのです。もちろん間違っていますが、[正しいモノの無い]韓国には、間違っ

 ているモノが、何か分かりません。

  

仏教・儒教を伝えた百済であるが、高句麗・新羅・北朝に囲まれ、立場上日本に朝貢していたことは明白

です。そして、王子を日本に逃がすような関係であり、百済滅亡時にその移民はことごとく日本と済州島

に逃げている。

高句麗も滅亡時に一部日本に逃げてきているが、半島に残った遺民はどちらも強制移住させられ、奴隷と

して酷使され全滅したと記録にある。

百済の方はその後の羅唐戦争で土地そのものもメチャクチャにされた。つまり、日本に文化を伝えた国、

百済・高句麗と、日本と中国との海上航路を提供していた百済・耽羅は、結局ことごとく日本に逃げてお

り、現在の朝鮮人と無関係です。

 

 

 3、崇儒廃仏政策   (日本の明治初期の廃仏毀釈より大きな廃仏政策

 

李朝三代目の国王となった太宗(在位1400年~18年)の治世になると、仏教にさらに苛酷な弾圧が加え

 られた。高麗朝が倒れたときには、全国に1万以上も寺があったというのに、寺の数を242にまで減らし、

 寺が所有していた土地や、奴婢と呼ばれた奴隷を没収した。

 

●九代目の成宗(在位1469年~94年)は、出家することを全面的に禁じた。李朝時代は、そのまま仏教 

 を苛めた歴史であるといってよい。

 

十一代目の中宗(在位1506年~44年)は、全国にわたって仏像を没収して、溶かしたうえで武器に鋳

 造した。(秀吉の侵攻をより早い) 

 

 韓国では、廃仏毀釈が王制時代に大規模に行われていたことは、韓国の儒教は儒教唯一絶対主義であっ

 たことであり、宗教に対する価値観が当然他の宗教を排他することを実践した結果です。 

 日本の神道が仏教を受け入れ神仏融合を1000年以上も続けたことが世界史的にも特異な事であり 儒教

 も伝来されましたが台頭しませんでした。その背景には「日本人の特性」が特筆されます。 


 らのことから、戦国時代に戦国武将が、朝鮮半島を荒らしまわり寺院、仏像などを壊して回ったと

 の伝は、全くの虚実で有るといえます。

 日本の明治初期の短期間吹き荒れた廃仏毀釈とはスケール、時間も著しく異なり大きなものであったと

 いえます。

 

 仏教関連の文化財がないのは、日本の侵攻により消失したと言う韓国人の発言は、全くの嘘であります。

 

 そのことを理解している韓国人が発言すると捕まります。大変な国なんです

 

 

 4、金完燮『親日派のための弁明』とL・バード『朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期』の記述

 

■「現代韓国人が知らない日本統治以前の奴隷社会」~ 金完燮『親日派のための弁明』より

 

「韓国人が朝鮮王朝を慕い、日本の統治を受けず朝鮮王朝が継続したなら もっと今日の暮らしが良くなっ

ていると考えるのは、当時の朝鮮の実態についてきちんと分かっていないためだ。 

 

特に子供と青少年は、きれいな道ときれいな家、整った身なり、上品な言葉遣いのテレビの歴史ドラマを

観ながら、朝鮮もそれなりに立派な社会で外勢の侵略がなかったならば静かで平和な国家を保てたろうと

錯覚する。 しかし日本が来る前の朝鮮は、あまりに未開で悲惨だったという事実を知らねばならない。」 

 

金完燮がこの本を出した時、なんと彼はただちに逮捕された。 

彼が「こんなことで投獄するなら日本大使館に亡命せざるをえない」と抗議してようやく釈放された後も、

この本は韓国政府に都合が悪いので有害図書に指定され、一般書籍と一緒に販売できないように規制し、

事実上の販売禁止処置を受けてしまった。 

 

そして、金完燮のように真実を知る者が一部にはいるにも関わらず、韓国の教科書では恥ずかしげもなく

逆を教え、それが韓国では「常識」として信じられている。

 

たとえば韓国の歴史教科書では、江戸時代に朝鮮の使者が日本の首都に訪問すると、“江戸の野蛮な市民た

ちが”「文化を教えてくれ!」と哀願したとして 韓国の子供たちに誇らしく伝えられ、日本を見下す根拠

の一つとなっているのである。 

 

本当の江戸時代の日本は、金鉱を有し、交易をし、学問・教育・文化・芸術に恵まれ「世界有数の繁栄」

を極めていたということを韓国人は知らない。

 

当時の韓国には貴族階級以外の一般市民が残した日記や文学などは存在しない。貧しい市民が芸術などに

触れる余裕はなかったのだ。

 

一方日本では、町民までも生活を楽しむ余裕を持ち、芸術の分野では西欧絵画に影響を与えるほどの葛飾

北斎、写楽などを輩出し、松尾芭蕉、小林一茶、十返舎一九、井原西鶴、近松門左衛門、滝沢馬琴などに

よる浮世草子や俳諧、浄瑠璃など、“風雅な娯楽”が大衆に親しまれた。 

 

しかも栄えていたのは江戸だけではない。当然、大坂や京都も大いに栄えた。

陸上交通の代表である五街道には飛脚が手紙を持って地方と江戸を繋ぎ、発達した水上交通では特産品や

手形などを運輸した。

 

当時のソウル・ロンドン・パリが糞尿にまみれた不潔な衛生環境だったのに対し、日本は清潔に保たれた

都市環境と犯罪の少ない統治をしていたことが後に海外からも高く評価されるようになった。

当時の江戸は世界的にも珍しい 「上下水道を完備した先進都市」だったのである。 

(※よく誤解されているが、時代劇でもよくみる「街にある井戸」は地下水ではなく、工事を行って地下に水を引いて貯めた「上水道」である) 

 

1801年のロンドンの人口が約86万人、1802年のパリで約67万人だった時代に江戸は1725年の時点で約102万~112万人が生活する大都市だったのである。 

 

しかも増えた人口が生活できる豊かさを浪費にのみ向けたわけでなく、生活で出たゴミをリサイクルする

文化も活発だった。傘張り、そろばん直し、提灯の張替えなどに始まり、街のゴミは拾い集められて湯屋

(今でいう銭湯)の湯わかし燃料にされた。

 

先ごろノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイはエコ標語として日本語の「Mottainai(もったいな

い)」を提唱した。彼女は世界各国をまわったが、その概念を持った言葉は日本語にしかなかったという。

 

日本は江戸時代から「生活ゴミを海の埋め立てに利用」していたほどのエコ先進国でもあり、また、それらを含めた独自性の高い文化と豊かさを持った先進国だったのである。 

 

 

■イザベラ・バードが見たソウル    1894年以降4回に渡り朝鮮各地を旅した時の紀行文

 

     『朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・L・バード 

              a6韓国文化財イザベラ

 

 「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。 

 

 礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような道の「地べた」

 で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛同士が擦れ違えず、荷牛と人間ならかろうじて 擦れ違

 える程度の幅しかない。

 

 おまけに、その幅は家々から出た糞、尿の汚物を受ける穴か溝で狭められている。

 酷い悪臭のするその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たちと疥癬も

 ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、日向でまばたきしている。

 

 ソウルの景色のひとつは小川というか下水というか水路である。蓋のない 広い水路を黒くよどんだ水が

 かつては砂利だった川床に堆積した排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。

 水なら混合物を手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。

 

 Seoulには芸術品がまったくなく、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力

 がSeoulにはことごとく欠けている 古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはお

 よそ無関心だったため寺院もない。

 

 結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある堂々とした宗教建築物の与える迫力がここに

 はない。」 

 

 (『朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・L・バード)  

 

 

5、日本の行為 韓国インフラの大整備:発展のために必要な資金や資材などの支援

 

  ・朝鮮が無計画な浪費で返済不能になっていた莫大な外国からの借金を肩代わりしてチャラにした。 

 

  ・日本の国家予算で学校などの教育機関や裁判所、上下水道、公園、病院、警察署、道路、 水力発電

   所、農地、鉄道などの文化的生活に 必要な施設を作った。 

 

  ・日本の金で朝鮮全土に5000校もの近代小学校を建設し、近代教育をしハングルを必修で学ばせた。

 

  ・日本の技術と資本により2次産業を9倍も成長させると同時に1次・3次産業も大幅に伸ばした。 

 

  ・医療と衛生環境を向上させて平均寿命を26歳から42歳にまで 飛躍的に延ばした。

 

  ・人口を2倍まで増やし、その人口が全員が食べていけるほどの 驚異的な食料供給力を与えた。

 

  ・どの国も金を貸したがらない極貧後進国に、貸倒れも恐れずに 世界一安い金利で金を貸し与えた。 

 

  ・発展に必要な資金や資材などの「物的支援」だけでなく「人的支援」「技術支援」も同時に行った。

 

 

  ▲李氏朝鮮は「地獄」でした。 

    それは大韓帝国時代になっても同じでした。

   1904年、日本は朝鮮の惨状を救う為、財政支援を決断します。 

   例えば1907年度、朝鮮の歳入は748万円でしたが、歳出は3000万円以上でした。 

   その差額は日本が負担しています。 1908年には更に増えて、3100万円を支出しています。

   搾取されたのは、朝鮮人ではなく、日本人でした。

 

  ▲韓国と日本の歴史教育を比較すると、日本が10%歪曲だとすれば、韓国は90%歪曲です。 

   李氏朝鮮の異常な政治腐敗を教えず、日本が関与しなければ独立が出来たように書かれています。 

   日韓併合によって「教育」「医療」「工業」「社会インフラ」が整備されました。 

   近代国家の基礎が築かれた事は明らかな事実です。 

   その業績を「日本帝国主義の侵略政策の産物だ!」と糾弾する韓国には呆れます。

   更に「日帝が民族産業を停滞させた!」という主張にはコメントする気持ちも無くなります。 

 

  ▲民族産業を殺したのは、李氏Chosunです。 

   近代化を主張する先進的な思想家は反逆者として、親族までも処刑されました。忘れたのですか? 

   韓国人は「日帝の虐待!性奴隷!」と叫んでいますが、私は信じられません。 

   歴史の真実を知っているからです。 

 

              これらは、全て忘れたことになっています。

 

 

 

  4、 韓国のワンマンショー 

 

 

 1、韓国起源説」 

 

 韓国起源説とは、韓国の個人・団体などが、他国の文化などの起源・伝播を朝鮮半島に求める、根拠不

 十分で非合理な言説群の俗称。韓国起源論ともいいます。

 

 学者や文化人が個人的に主張する説から、公的団体が正式に主張する説まで多岐にわたり、一時的にマ

 スメディアで流布される場合から、継続的に国際的な広報活動が行われる場合まで様々で、特に、日本

 文化や中国文化が対象とされる場合が多くあります。

 

 韓国起源説の主な対象は、日本文化と中国文化をはじめ、メソポタミア文明・インカ文明・西洋文明・

 生態系まで多岐にわたり、有形・無形の文化だけではなく高名な歴史上の人物等のあらゆる分野が対象

 です。

 

 これらの主張の根拠は似非科学から語呂合わせや民間語源、一切根拠の無いものまで多岐にわたり、韓

 国内や海外で広く流布されている説から韓国内ですらほとんど受容されていない説まで様々です。

 ただし、韓民族優越主義的な視点で主張される点では広く共通しており、特に日本文化に対する起源説

 の主張では、小中華思想と公教育に基づいた強い対日蔑視の視点で主張される事が多く、様々な日本文

 化が剽窃され韓国文化として外国に宣伝されています。

 

 このような起源主張は韓国以外にも存在するが、韓国起源説の特異な点は、他国の起源説とは比較にな

 らないほど対象分野が広く、頻度も高い上、宣伝活動が国内のみならず世界を意識したものであるが故

 に組織的・大規模で、自民族優越主義的であり、文化の発現、革新、発展、継承を無視しており、著し

 く事実誤認、歴史歪曲、捏造が多いとされています。

 

 とにかく数多いのでキリがありません。韓国人による起源説病は、日本文化への劣等感の裏返しで、言

 いかえれば朝鮮半島には世界に誇れる文化があまり存在しないと、自ら認めている事です。 

 

 韓国人自身が、1900年もの間「属国」で文化に恵まれなかった屈辱を払拭したい という悲しい願いを

 大半の人が持つように教育され、持たざるを得ない現況なのでしょう。

 

 韓国では

「島国の日本は文明を知らない民が住む地で、われわれの先祖がさまざまな文化文明を教えてやった」「優れた文物はすべて、朝鮮半島から日本列島に渡ったのだ」

といった刷り込み教育が行われています。

だから、純朴な人ほど「日本の良い文物」を見たら、その瞬間に「これは韓国に起源があるはずだ」と思

い込むのでしょう。日本での盗難の仏像も!

 

   下のHPを観てください。呆れてしまいますが?  全て朝鮮半島が発祥のようです。

 

         韓国起源説  起源説の一覧   韓国起源説の実例  

 

   「国の歴史問題を直視する」のテーマではありません。元に戻って神社へ!

 

 

 2、日本の神社、韓半島に由来」韓日史学者共同研究について

 

1)2006年01月02日  中央日報/中央日報日本語版  

   

 

 日本国内の相当数の神社が古代韓半島から直接的な影響を受けて建てられた、という調査結果が

 出された。 また、日本の多くの神社は韓半島の祖神を祭神としていることが分かった。 

 

  シン・ジョンウォン韓国学中央研究院教授ら韓国・日本の史学者4人は昨年、東京、埼玉、神奈

 川など関東地方と京都の神社50カ所余を訪問しこうした事実を確認したと、2日明らかにした。

 

  これら史学者が最近発刊した研究所「韓国の祖神を祭る日本の神社」によると、古代韓半島から

 の渡来人は日本に定着した後、故郷の慣習にならって祭壇を建て、祖神と豊年を祈願する祭事を

 定期的に行ったという。このため、韓半島系統の神社が日本に数多く生じることになった。

 

  西暦927年に完成した日本古代律令集「延喜式」(全50巻)の神名帳(9-10巻)には、

 当時の全国2861の主要神社と祭神が記録されており、このうち相当数が韓半島から渡来した

 神社と推定された。 

 

  ◇代表的な事例=埼玉県の「高麗(こま)神社」はすぐに韓半島系統の神社であることが確認

  できる。 古代日本で「高句麗(コグリョ)」を「高麗」と表記し、「こま」と読んだからだ。

  特に、この神社がある埼玉県日高市は、西暦716年、高句麗系の渡来人によって高麗郡が設

  置された所だ。 

 

   大阪の飛鳥戸神社は、百済(ぺクジェ)系の飛鳥戸造一族の祖神「飛鳥大神」を祭っている。

  「飛鳥大神」は百済の崑枝王だ。 

 

   四国地方の徳鳥県には「新羅神社」がある。 この神社は扁額に新羅の日本式発音「しらぎ」

  ではなく「しんら神社」と明記されている。 現地の人はこれを「しんら神社」と呼んでいる。

  特にの神社は代表的な新羅の神であり「牛頭天皇」で知られる素盞烏尊という神を祭っている。

 

   東京浅草にある浅草神社も、すぐ隣にある浅草寺を創建した韓半島系渡来人、桧前浜成の氏族

  3人を祭るために建てられたという。 

 

   研究陣はまた、温泉休養地の箱根にある箱根神社も、近隣の相模国に定着した高句麗出身の渡

  来人が創建したと推定した。 

 

 

    

 

2)報道(2006・1・2)に対する論評

 

 

● 肯定論 2008・11・13

  金達寿氏の「日本の中の百済・高句麗・新羅」「日本の中の高句麗文化」「日本の中の天日槍」

       

 【論文の骨子】

 ・古代韓国三国(高句麗、新羅、百済)からの渡来人によってもたらされたことを肯定している

 ・日本書紀には685年から760年の間に六回、渡来してきた百済、新羅、高句麗の僧俗男女

  多数を武蔵野国に置く記事がある。

  とくに716年には高麗郡、また758年には新羅郡が新設される。

 ・高麗神社  千七百九十九人の高麗人をもって高麗郡を置く、「続日本紀」 高麗を狛江

 ・箱根に駒ケ岳というのがありますが、あれは馬の駒ではない。元は高句麗のコマです

 ・コマ犬がいます。「狛」という字を当てておりますけれども、地方に行きますと「高麗犬」です

 ・高句麗の古郡一帯の古墳が積石塚である 長野には、千以上を数える高句麗系の積石塚古墳がある

 ・山梨県には北巨摩郡、中巨摩郡、南巨摩郡があります 

 ・伊勢神宮・籠神社・新羅神社など朝鮮由来と・・・・・・

 

 ● 否定論 2006・2・25

   神社、神社信仰の起源について

  

 【論文の骨子】

 ・韓国には日本の神社のようなものがなく、粗末な祠の類がまれにあるくらいで神社はない。

 ・地政学的に考えて土地が痩せて食糧供給のままならない朝鮮半島で独自の文明が発生するとは

  考えられない

 ・狛犬について補足すると、これは古代オリエントのスフィンクスかインドの獅子像に起源

 ・神明造は、中国の江南地方に起源がある高床式建物と同じ形式

 ・神明造りの神社建築とよく似た家型埴輪が継体天皇陵とされる古墳から出土

 ・高床式建築は熱帯から亜熱帯の湿潤気候帯に見られる様式であり、乾燥冷涼な気候帯に属する

  朝鮮半島でそのような建築様式が発達するとは考えられない。遺構もない。

 ・新羅、百済、高麗あるいはそれに由来すると思われる名を冠した神社が多いことによる。

 

  飛躍した論理に基づいており、各神社の社伝を見れば多くの場合、そうでないことがわかる。

 

 【事例

 ・第一に、その地名が本当に朝鮮語に由来するかどうかを検証する必要がある

 ・そもそも古代朝鮮語はほとんど現在に伝えられていないとされているのである。

 ・予め学術的根拠に乏しいことを前提とした上で遊びとして行うのは構わないがそのようには断

  っていない。公的教育関係機関にあるまじきことである。

 

 

 

3)「全てが朝鮮半島が由来韓国起源説

 

 上記、2つの文章から肯定論が劣勢ですが、5~8年前の事で再反論が出ているのかも知れません 

 

 ・「照葉樹林文化」からの論旨は、説得性が高いと思います。

 ・ 戦争に負け日本に救助されて定住した民族が多数いた事は事実でしょう。【難民を受け入れた】

   日本人の感性である曖昧さ。仏様と神様を同居させてしまう日本人ですから、異国の人もすぐ同化

   し 日本人もふるさとの名前を附けることもすぐ許可したのでしょう。

 ・ 彼らが、韓国の文化に神社があり、それを伝播させたとは考えにくい。

 ・ 神明、出雲の「掘っ立て柱」の建築様式を朝鮮文化が発祥していた確証はない。

 

 ・ そんなに由来を、朝鮮半島にしたいなら、やはり確証を明示しなければ、朝鮮系の名前が各地に有

   るからと言う根拠は、由来の根拠ではない。単なる背景です。

 

 

 

少なくとも、伊勢神宮神明造と類似の建築様式が6~7世紀に朝鮮半島に存在していた確証がない限り

「公的教育関係機関にあるまじき論文」と言われ、「韓国起源説」をまた振り回しているだけなのか!

 

    ・・・・世界からまたまた、失笑をかう?  もうすでに、かっている?

 

 

 

 

 

  4、 朝鮮半島における日本の痕跡 

 

 

1、朝鮮半島往来の起源

              表ー2 古代の交流 三国史の年表

 

三国史記 (新羅本紀)

 

 

 

14

倭人が兵船百余隻で海辺に侵入

 

三国史記(高句麗本紀)

倭・倭人関連の記載なし

 

57

倭国東北一千里にあり

 

 

59

倭国と修交、使者派遣

57

奴国王漢の光武帝より金印を賜る。

 

73

倭人が木出島を侵して来た

 

 

 

121

倭人が東の辺境を攻めた

 

 

 

158

倭人が交際のために訪れた

 

 

 

173

倭の女王卑弥呼使者が訪れた

 

三国史記 (百済本紀) 他

 

193

倭人が大飢饉となり避難民到来

 

 

 

232

倭人が金城を包囲

221

馬韓(百済)辰韓(新羅)弁韓(任那)

倭国内乱続く

233

倭兵が東辺を攻めた

 

 

 

249

倭人が舒弗邯、于老を殺した

239

卑弥呼、魏に遣使を送る。

 

287

倭人が一礼部を襲う

 

 

 

289

倭兵が攻め戦船、鎧と武器を修理

 

 

 

292

倭兵が沙道城を攻め落とす

 

 

 

294

倭兵が長峯城を攻めて来た

 

 

 

295

百済と共に謀って倭を討ちた

 

 

 

300

倭国と使者を派遣し合った

 

 

弥生時代終了

312

倭国の国王が求婚娘を倭国

 

 

古墳時代

344

婚姻を請うたが、断った

 

 

 

345

倭王、書を送国交を断ってきた

 

 

 

346

倭兵が風島に来て金城を包囲した

367

七支刀 百済王世子奇生が倭王に贈る

 

364

倭人は大いに敗れて逃走した

391

好太王の碑 倭(日本)高句麗と戦う

 

393

倭人金城を包囲5日解かなかった

397

倭国と友好関係を結び、腆支を人質

 

402

倭国と通好し人質倭に送った

399

百済は先年の誓いを破って倭と和通

 

405

倭兵が明活城を攻める

402

使者を倭国につかわ大珠を求めた

 

407

倭人が東辺を侵し、南辺を攻める

405

腆支は倭国訃報倭王は護送

朝鮮半島に

前方後円墳

408

倭人が対馬島に軍営を設置

413

神功皇后の使者派遣

418

高句麗と倭国への人質が逃帰った

418

使者を倭国に、白綿を十反を送った

 

431

倭兵、東の辺境に攻めて来た

428

倭国の使者が来たが、随行者が五十名

 

440

倭人が、南の辺境に侵入

438

倭の5王 珍 安東将軍・倭国王

 

444

倭兵が金城を十日包囲し帰った

443

倭の5王 済 安東将軍・倭国王

 

459

倭人が兵船百余隻を以って東辺を進撃したが追撃してこれを破る

 

462

倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った

 

463

倭人が歃良城(梁山)を攻める

451

倭の5王 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・

     任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

476

倭人が東辺を攻める

 

 

 

477

倭人が兵をあげて五道に侵入

478

倭の5王 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・

     新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

500

倭人が長峯鎮を攻め陥した

 

 

 

 

 

527

磐井の乱

仏教伝来

 

・・・・

608

隋が文林郎裴清を倭国へ使者送った

 

663

倭国の水軍が来て、百済を助ける

653

王は倭国と修交した

 

670

倭国が国号を日本と改めた

660

高句麗と倭国に使者を派遣し援兵乞う

 

698

使臣が来たので王は崇礼殿で引見

662

倭軍の軍船400艘を白江に焼く

白村江の戦い

703

使臣が来たが、みんなで二百四名

668

新羅、高句麗滅ぼす

 

 

 

 

 

 

 

       紀元頃から、半島に船で渡っていた事実は驚愕です。

 

       弥生時代位から古墳時代、半島との交通往来の事実は多数ありました。

 

       これだけの交流があったことは文化、宗教の交流もあったことになります。

 

 

5世紀になると確証が多くあります。

 

● 後漢書韓伝  塚田敬章  2013/02/17

 

 後漢書・韓伝には、三韓について「南は倭と接する」と書かれています。

 「范曄の後漢書韓伝は魏志韓伝を要約したものですが、要約の過程で范曄の解釈が入ってきます。

 范曄が、東晋、義煕九年(413)の神功皇后の使者派遣時のデータを加えて、魏志倭人伝を修正しながら

 倭伝をまとめ、韓伝でも、范曄時代の地理資料を加えて修正しています。

 

韓有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰馬韓在西有五十四國其北與楽浪南與倭接辰韓在東十有二國其北與濊貊接弁辰在辰韓之南亦十有二國其南亦與倭接凡七十八國伯濟是其一國焉大者萬餘戸小者數千家各在山海間

 

「韓は三種がある。一は馬韓といい、二は辰韓といい、三は弁辰という。馬韓は西にあり、五十四国がある。その北は楽浪と接し、南は倭と接す。辰韓は東にあり、十二国。その北は濊貊と接す。弁辰は辰韓の南にあり、また、十二国。その南はまた倭と接している(地図2)。すべてで七十八国。百済はその一国である。大国は万余戸、小国は数千戸で、それぞれ山や海の間にある。」

 

地図

 

魏志では、辰韓、弁辰(弁韓)は馬韓の東で雑居していることになりますが(地図1)、後漢書では国境が定められて辰韓、弁辰が分離されています(地図2)。辰韓の北に濊があり、弁辰瀆盧国が倭と界を接しているとされる魏志の記述に、范曄が生きていた五世紀の地理資料(地図3)を加えた彼の理解です。

 

 

神功皇后が朝鮮半島に侵攻し(高句麗、広開土王碑、391年)、おそらく南端を直轄領にしていたのでしょう。范曄は辰韓伝の弁辰狗邪国と、倭人伝の狗邪韓国は別国だと考えていたようでもあります

 

 

 

● 日本と朝鮮半島の歴史・・・縄文前期から5世紀、6世紀頃までと韓国の起源

● 六世紀の倭と朝鮮半島諸国  佐藤信

 

                勉強しましょう!

 

 

1、糸魚川のヒスイが朝鮮半島で多量に出土

 

 ● Wiki ヒスイ製勾玉 詳細が記載されています。

 

・朝鮮半島で出土した勾玉は、新潟県糸魚川産と判明:

 朝鮮半島には勾玉に使われるヒスイの産地はなく、東アジア全体でも日本の糸魚川周辺とミャンマーしか

 産地がないこと (門田誠一「韓国古代における翡翠製勾玉の消長」『特別展 翡翠展 東洋の神秘』

 2004、及び『日本考古学用語辞典』学生社)に加えて、

 最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明した

 

 古墳時代、5世紀以前から海上輸送の手段があり、半島との人物往来がすでに始まっていた。 

 

 

2、半島南部の「前方後円墳」の存在

 

 ● 日本と朝鮮半島の歴史・・・縄文前期から5世紀、6世紀頃までと韓国の起源

 

● Wiki 朝鮮半島南部の前方後円形墳   詳細が記載されています。

 

● 朝鮮半島に前方後円墳12基 奈良・橿考研博の学芸員が報告(newswなので全文転記)

 

 

 大和政権のシンボルとされる前方後円墳が、韓国南西部に少なくとも12基あることがわかり、

橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)の坂(ばん)靖・総括学芸員が、日韓の考古学者らが出席

して同研究所で開かれた研究集会で発表した。

 

12基の築造は5世紀末~6世紀前半。当時、韓国南西部を支配していたのは百済(くだら)だが、

中央集権体制は確立されておらず、被葬者は日本列島との関わりを権勢の基盤にした、地域の有力

者と考えられるという。

 

 韓国では1980年代ごろから前方後円墳に注目が集まり始めた。研究機関の調査により、光州

広域市や全羅南道(ぜんらなんどう)地域(咸平郡や海南郡など)で前方後円墳が確認されている。

 

研究者によっては判断が分かれる古墳もある中で、坂総括学芸員が前方後円墳と判断した古墳は

計12基。うち新徳1号墳(咸平郡)は、全長約51メートル。横穴式石室と周濠、葺石

(ふきいし)を持ち、金銅製の冠片や鉄刀、馬具、玉類などの副葬品が出土している。

 

月桂洞1号墳(光州広域市)は全長約45メートル。横穴式石室と周濠、埴輪(はにわ)を持ち

、鉄斧や鉄鏃なども見つかった。また、最も大きい長鼓峯古墳(海南郡)は全長77メートルで、

横穴式石室と埴輪が確認されている。

 

前方後円墳は大和政権のシンボルとされ、日本国内では北は岩手県から南は鹿児島県まで、数多く

点在する。

 

当時、朝鮮半島の南西部を支配していたのは百済だが、中央集権体制は確立されておらず、その領

土も明確ではなかったという。そうした中、朝鮮半島と日本(倭)の間を自由に往来する集団がい

たとみられ、前方後円墳の被葬者については倭人将軍説や、亡命倭人説、百済王権内の倭人官僚

説など、諸説がある。

 

坂総括学芸員は「前方後円墳の起源が日本列島にあることは疑う余地がない」とした上で、「被葬

者は在地首長に次ぐ立場の人物。日本列島との深い関わりを示すために、前方後円墳の墳形を採用

したのだろう」としている。

 

 

 

 

 

3、任那日本府が存在

 

 ● Wiki 任那日本府  詳細が記載されています。

 

 ● 韓国との歴史認識の相互理解・・・・異論の論説がネットにたくさんあります。

 

これだけ、ある時期に日本の影響を受け、古代から交流のあった挑戦半島との関係を建築史という観点

から見直し共同研究するスタンスが、発祥しつつあるようで期待していきます。

 

 

  日本の歴史家が反論しても、自分たちの都合のよい歴史を捏造してくるのが韓国です。

  そして、それに迎合する日本人多いのにも驚きます。

歴史の確証を正確に相互で認識しあってして、明確に後世に伝承させていくのが学問です。

 

 

           韓国の建築史探訪については以上にしておきます。

 

 

 

 

 

韓国では建築史というよりも、遺跡発掘の遺構をベースに建築史を確立しているようです。

その発掘の技術、資料の信憑性などからすると、日本統治時代の調査結果が信頼できるだけで、韓国側

の調査研究の意見は直ちに採用できるわけではないようです。

 

百済仏教で蘇我氏が私的に仏寺を建立させ、後に推古天皇が新羅仏教を導入し仏教繁栄につながった事

は明解なようです。

 

このような点よりも、実質的に仏教伝来538年、寺院建築技術が法興寺596年建立というけれど、

 

       この年代が正しいのか、公伝と伝来・・・・・疑問が沢山湧いてきます。

 

               順次解明できればと思います。

 

 

 

          続いて、中国の建築史について探訪してみます。

 

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