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寺社建築と文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源、歴史、文化財の紹介と文化財の問題点を探訪しています。 常時更新中です!
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カテゴリー  [ 2-1 日本建築史学の歴史 ]

日本の建築史学の発展経過を探訪します。

2-1日本建築史学の歴史



 

2-1

 日本建築史学の歴史

 

    日本建築史(学)の確立までの歴史を探訪

  a11和様組物ー善水寺  

 


1

 日本建築史学の特徴

 

 

1、建築史学の特徴

   日本の建築史は、他の文化的歴史と異なる特徴があります。

 

 1)日本建築史=寺社建築の歴史 

   建築史の対象は寺社建造物で古社寺保存法(明治30年制定)で特別保護建造物44件

   (京都の北野神社本殿をはじめ、京都府内のもの23件、大阪府1件、奈良県18件、滋賀県2件)

   の指定から始まり、近代まで「日本建築史は寺社建築の歴史」だったのです。

   「顕著な普遍的価値」を有するのは、まずは関西の寺社建築とするのは必然だったと思われます。

   寺社以外では、民家の文化財指定が戦前に僅か2件でしたが、1960年以降になって指定件数が増加し

   ました。同時に建造物全体の調査研究も進捗し始め、建築史の対象が拡大したのは近年のことです。

 

 2)建築史学=細部の様式理論

   2点目は、建築史の基幹である建立年代等の比定は「建築部材細部の様式理論」が主流な点です。

   昭和4年に国宝保存法が制定され、国宝建造物845件 1,081棟が指定されたました。
   
   その国宝の評
価にその様式理論が適用されています。その理論は、確立した「関野貞」(昭和10年没)
   が人生を賭
した多大な調査研究によるもので、日本建築史の学問としての基盤となっています。

 

   年代判定の確固たる確証がなくても年代を比定でき、素人にも理解し易いこの様式理論は、現代でも

   古建築ファンのバイブルとも言えるものです。(川勝政太郎著:古建築入門)

 

 3)他の歴史学との対比 

   しかし、その建造物の建立前後の歴史的記述、建造物のその形状に至る過程、大工、彫刻家を含めた

   技術的歴史などについては言及が少ない点は、他の文化的歴史学と異なるようです。

 

   仏像の歴史なら、外観様式だけではなく、作者、発願人、製作に至る理由、時代背景、制作技法等、

   広範囲に調査研究されています。考古学においては、原子物理学、化学、地質学、土壌学、動物学、

   植物学、古生物学、建築学、人口統計学、冶金学、社会学、地理学、民俗学、文献学など幅広い分野

   の専門的知識、情報とその確証に基づいた論議がされています。

 

   建築史は、建造物のみに特化し考古学との連携、美術史等の共生の調査研究報告はあまり見受けられ

   ません。俗に言う「オタク」的な学問なのかもしれません。

 

 4)建築史の研究範囲

   明治(近代)時代以前と以降では、建築形式が大きく異なるのに文化財関連の評価が同じ基準である。
   飛鳥時代以前の竪穴住居などに対するの建築史学としての研究は少なく、考古学に依
存している。
   この様に、文化的通史として未だ骨格が定まらず、曖昧な学問とも言えます。

 

   明治時代以降の文化財の評価は、それ以前の寺社主体の基準と異なる無いようで設定すべきであり、

   地面から下層の調査研究は考古学の範疇でも良いですが、地上は建築史学が主体性を発揮し日本最古

   の建築史の調査研究を行うのは必然です。

 

   その点に気づかれ最近は、考古学の先生からクレームの付きそうな建築考古学と呼称する学問を

   提唱する建築史の先生がおられるようです。

 

 5)文化財保護への逆風

   明治時代以降、文化財の危機が数回訪れています。

 

    ・明治維新後の廃仏毀釈の嵐、殖産興業の政策による文化財の転売・海外流出。

    ・大正までの西欧文化の隆盛による社寺の荒廃、更に近代化に伴う国土開発による文化財の破壊。

    ・昭和初年の経済不況による大名等旧家所蔵等、個人所有の文化財の散逸・海外流出。

    ・第二次世界大戦後の経済混乱、復興事業による文化財の転売・海外流出。 

    

 

  これらの危機に対し、先達の尽力により建築史学がどのように発展してきたのか、次に探訪します。

 

 

 

2、建築史学の年表

明治時代に入ってからの建造物の調査、保護活動、法整備の変遷などを年表にまとめてみました。

 

                表ー1 近代の文化財関連年表

西暦

年号

 文化財関連の出来事

 

1868

慶応4

神仏分離令太政官布告

廃仏毀釈の始まり

1871

明治4年

古器旧物保存方の太政官布告

廃仏毀釈の反省

1872

明治5年

近畿東海地方、古社寺調査【壬申検査】

町田久成、蜷川式胤等が調査

 

 

 東京の図書寮付属博物館の設立

(興福寺廃寺 正倉院開封)

1874

明治7年

古墳発見ノ節届出方

(内山永久寺廃寺)

1879

明治12

寺社明細帳、宝物目録帳作成

 

1880

明治13年

人民私有地内古墳等発見ノ節届出方

第1回観古美術会開催政府主催

1882

明治15年

近畿社寺宝物調査

九鬼隆一、岡倉天心等が調査

 

 

英国:古代記念物保護法の制定

明治16年興福寺堂塔 再興保存

1884

明治17年

文部省令:京阪地方古社寺調査 岡倉天

フェノロサ加納鉄哉等が調査

 

 

仏国:歴史的建造物の保護に関する法律

(法隆寺夢殿 救世観音開扉)

1886

明治19

文部省令:奈良地方古社寺調査 岡倉天心

フェノロサ藤田文蔵等が調査

1888

明治21年

近畿地方宝物調査(政府の組織的調査)

九鬼隆一 岡倉天心等

 20名の調査団

 

 

臨時全国宝物取調局設置(九鬼隆一)

10年間設置  岡倉天心取調掛

1889

明治22

  帝国博物館に改める

東京美術学校が開校

1895

明治28年

帝国奈良博物館の開館

日清戦争

1896

明治29年

古社寺保存会の設置(会長九鬼隆一)

伊東忠太

「古建築を保存すべし」発言

 

 

関野貞委員伊東忠太から、奈良の修理事業責任者に推され奈良県に赴任

1897

明治30年

古社寺保存法の制定 国宝155件指定

特別保護建造物 44件指定

 

 

 古社寺保存会の諮詢を受けて特別保護建造物または国宝を指定

 

 

 帝国京都博物館の開館

 

1899

明治32年

遺失物法(出土遺物)制定

新薬師寺、薬師寺、法起寺等修理

 

 

古社寺保存会

大宰府、大阪、九州琉球調査

岡倉天心 高村光雲

1900

明治33

古社寺保存会調査: 岐阜県

岡倉天心

1901

明治34年

古社寺保存会調査: 京都・奈良  

関野貞奈良の古建築調査5年間

 

 

史蹟名勝天然紀念物保存協会の設立

 

1902

明治35年

古社寺保存会調査:

京都奈良、山形、宮城、福島、栃木

六角紫水等 岡倉天心同行せず

1903

明治36年

古社寺保存会調査:

鳥取 島根 山口 千葉 茨城県

岡倉天心、六角紫水

1913

大正2年

岡倉 天心 

天沼 俊一奈良古社寺修理技師

1919

大正8年

史蹟名勝天然紀念物保存法の制定

 

1929

昭和4年

国宝保存法の制定 宝物類3,704件指定

      造物845件 1,081棟

絵画754件、彫刻1,856件、

書跡479件工芸347件刀剣268件

1930

昭和5年

台湾:古物保存法

 

1933

昭和8年

重要美術品等ノ保存ニ関スル法律の制定

認定件数は約8,200件急増

1935

昭和10年

関野貞  

 

1947

昭和22年

天沼俊一 

 

1949

昭和24年

法隆寺金堂壁画が失火により焼損

 

1950

昭和25年

文化財保護法の成立

文化遺産保護制度の総合立法

 

 

 国宝保存法と史蹟名勝天然紀念物保存法は廃止

 

 

 美術工芸品5,824件、建造物1,059件が新制度に移行した

1954

昭和29年

伊東 忠太 

 

1955

昭和30年

ドイツ:文化財の国外流出防止に関する法律

1966

昭和41年

アメリカ:国家歴史保護法

 

1968

昭和43年

文化庁の設立

 

1972

昭和47年

世界遺産条約 1975制定 日本加盟せず

 

1975

昭和50年

重要伝統的建造物群保存地区

 

1982

昭和57年

中国:文物保護法

 

1992

平成4年

日本が世界遺産条約の批准

 

1994

平成6年

世界遺産 奈良ドキュメント採択

 

1996

平成8年

登録有形文化財の制度の導入

 

2008

平成20年

地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律(愛称:歴史まちづくり法)

2011

平成23年

歴史文化基本構想 (地方公共団体の文化財保護行政の促進)

 

  上記、年表から考察してみました。

 

 

  ① 日本建築史学の確立

  古社寺の建築史は、明治30年古社寺保存法の制定以降、部材様式理論などの年代判定を可能にす

  る調査研究が開花し「古社寺保存法」が昭和4年に制定されるまでの期間に確立されたと言えます。

 

② 調査場所の件数と範囲

 「京都奈良、滋賀、和歌山、兵庫、大阪、九州全域、琉球、岐阜山形、宮城、福島、栃木鳥取 

  島根 山口 千葉 茨城」を古社寺保存会調査が調査した、という記録はありますが、四国、中国、

  中部の一部は未確認です。

  又、明治30年特別保護建造物の44件指定から「古社寺保存法」が昭和4年制定され、国宝

  物845件指定に増加されるわけですが、その調査、評価選定管理の状況は、探訪できていません。

 

③ 指定件数の推移

 

      表ー2 明治から昭和初期の文化財指定件数 5年ごと (文化庁国指定文化財DB)

指定年

明治30年

明治33年

明治38年

明治43年

大正3年

大正8年

大正15年

昭和5年

西暦

1897

1900

1905

1910

1915

1920

1925

1930

延件数

(44)

39

233

443

522

591

688

723

増加件数

 

 

194

210

79

69

97

35

 

5年間で200件を明治時代に評価指定しています。指定前に岡倉天心、六角紫水、関野貞等が、年間

 40件、月3~4件の文化財を各地方に出向き調査し、価値を評価してきたのでしょうか?

 明治33~36年の調査で確認できている地方②の評価は、可能だったかもしれません。

 

●当時は、調査方法、評価判定方法を彼等が確立しつつある時期で、標準化された基準、マニアルもな

 い状況での調査は、彼ら以外には不可能であったと思われます。

 彼ら以外の調査員が評価した場合、必然的に地域間格差、情報量の格差を生じ、更にその地域の行政、

 住民からの推薦圧力なども想定され、指定水準にばらつきが生じたこと推察されます。

 

●これらの調査記録等が探訪しきれていない環境ですので、推察の域を脱しないのが残念ですが、この

 点に現在の文化財管理の問題点の要因があるようです。

 

 

  日本の文化財の「Authenticity」「真正性」に係わる事項であり再評価が必要ではないでしょうか!

 

 

 

2

 日本建築史学の発展

 

 表ー1の年表から、

 明治時代~昭和の文化財の保存への取り組みと建築史学の発展は、4段階に分類することができます。

 日本の寺社建築を明治時代から調査研究し、日本建築史学を確立した功績の有る「先達」も探訪します。

 

    【 第10篇 建築史学史  伊藤延男以下が詳述されています。 ご一読ください。】

 

     東大寺明治時代写真
                    東大寺大仏殿 明治時代の写真 

 

1、明治時代初期  【古器古物は輸出振興の有力商品

 

明治初期は西洋文明の崇拝、仏寺の荒廃、廃仏毀釈の時期で、古文化財に対し関心が及ばず殆んど無視

  された環境で、廃仏毀釈の嵐で建物、仏像、工芸品破壊破棄され寺院著しく荒廃したようです

 

しかも、美術工芸品は殖産興業推進で博覧会などに出展し、注目され「近代化政策の商品」になっ

ていました。日本美術文化の紹介で日本ブームが起き、美術工芸品を勝手に売却され、古器古物海外流

出に繋がりました。

「西洋かぶれ」のこの時期には、日本の美術は国民の注目度も低く寂しい時期でしたが、国立博物館

完成した時期でもあります。

 

 1)先達ー1 町田久成

  その時期 明治政府の殖産興業文化財展示派の政治的策動が有る中、明治初期の日本美術を

「国民の注目」を浴びるレベルに持ち上げ 文化財展示の博物館の建設に漕ぎ着けた先人がいました。

余り著名ではないのですが、

町田久成は、蜷川式胤らと共に明治初期の日本美術の保護に尽力された先達です。

 

               表ー3 町田久成の履歴

  町田 久成(まちだ ひさなり/ひさすみ)  wiki  町田久成の波瀾の生涯 (上)(中)(下)

1

   明治維新の混乱、荒廃期から、文化財の保存や博物館建設に生涯をかけ尽力した

1838

天保9年 

幕末の薩摩藩士で明治時代の士族

1859

嘉永2年

江戸就学を終え薩摩へ帰郷。御小姓組番頭となる

1863

 

大目付に取り立てられる。 「薩英戦争」に本陣警護隊長として参戦。

1865

 

薩摩藩英国留学生15名を率いて英国留学 ロンドン大学法文学部の聴講生となる。

1867

 

パリ万国博覧会に参加

1868

明治元年

参与職外国事務掛となる(同僚に五代友厚、寺島宗則、伊藤博文、井上馨等)。

 

 

参与職外国官判事・長崎裁判所判事・外国事務局判事・外国官判事・外務大丞歴任

 

 

国家の枢要な役割を期待される人材として、前途洋々としたものであった。

 

 

英国の王子の接待役を努めた後、何故か1週間の謹慎処分を受け文部省への異動

1871

明治3年

文部省博物局を設置し、「古器旧物保存方」および「集古館」建設を提言。

1872

明治4年

「古器古物保存方発布」集古館(博物館)を建設すべきであると発言

1873

明治5年

壬申検査:正倉院御物開封される

1874

明治6年

ウィーン万国博覧会が開催される

 

 

「博物館」は湯島から内山下町の旧薩摩藩邸(その後の鹿鳴館用地)に移転する。

1875

明治8年

第一回奈良博覧会:東大寺大仏殿と回廊を会場にして町田の助力での開催された。

 

 

正倉院御物出陳、約220件の品目が展示され反響を呼び観客数が17万人を超えた。

 

 

・以降明治23年まで15回開催される。現在の「正倉院展」に繋がっている。

 

 

正倉院宝物は町田等によって開封後、東大寺保管から内務省博物館の所管に移

 

 

・明治初期は奈良の大寺は廃仏毀釈の影響で、大半の寺院は維持運営ができずいた。

 

 

・維持のため寺宝を売却して維持費を捻出せざるを得ない厳しい状況の中にあった。

 

 

・町田等が主導した動きは、正倉院宝物、法隆寺宝物の散逸などの防止に繋がった。

1882

明治15年

上野博物館 3月開館、文化財展示派の町田久成が館長就任するが、7ヶ月で解任

 

 

殖産興業派の田中芳男が館長となる。殖産興業派と文化財展示派の政治的策動

1885

明治18年

岡倉天心、フェノロサ、ビゲローが町田宅で受戒。

1890

明治23年

三井寺光浄院住職となる

1897

明治30年 

療養先の寛永寺明王院で59歳で没 

 

  町田久成写真20141122 中央が町田久成(1865留学時)

定刻博物館コンドル20141122  帝国博物館明治写真20141122
            上野博物館 コンドル  明治15年開館  東京国立博物館HP

 

 2)明治初期の文化財関連の制度・・・建造物対象ではない】

 

   「古器旧物保存方」 明治4年(1871)制定の概要   

  ・古文書  17,709点、

  ・絵画   74,731点、

  ・彫刻   46,650点、

  ・美術工芸 57,436点、

  ・書跡   18,665点、

               215,091

交付金の交付: 交付された社寺は539社寺 交付金は総額121,000円(明治13~27年) 

 

  明治政府は廃仏毀釈の影響で,我が国の美術作品が海外に流れ出てしまうことに危機感をもち,

  「厚く保全すべきこと」として,美術工芸品(宝物,仏像,祭器),武器,農具,衣服装飾,遊戯

  具,化石等の品目を示定して,その保存を求める「古器旧物保存方」太政官布告を1871年5月に公

  布しました。

  その内容は貴重な古文化財の品名と所有者を県知事に届け出る等であったので,文化財の保護には

  不十分でした。

 

   古器旧物類を31の部門に分類。この分類は後世博物館の列品分類の基準になっています。

 

 

 

2、明治時代中期  【古器古物の調査を国が実施】

 

 明治中期は「西洋かぶれの政策」を国も反省し、日本美術の優秀性を再認識文化財保護策が打ち出

 されるようになってきました。

 ・・・その優秀性を説く先頭にいたのは、日本人ではなく、アメリカ人フェノロサでした。

 

 彼は、日本美術の世界的価値を説き、岡倉天心等一緒に「九鬼隆一檀那」の支援を受けて、古社寺の

 調査、法隆寺夢殿・救世観音開扉を実現する等 革新的な活動が展開されました。

 

 その後も、「文部大臣九鬼隆一」と共に岡倉天心等近畿地方を中心とした宝物調査が国家施策と

 して実施されるようになり、臨時全国宝物取調局設置明治21年委員長九鬼隆一)、古社寺保存会

 の設置明治29年会長九鬼隆)にまでつながり 古社寺保存法の制定(明治30年)へとこぎつけま

 した。この様に文化財保護策が、行政施策して位置付けられた時期です。

 

 

1)先達ー2 フェノロサ

               表ー4 フェノロサの履歴

 アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)    wiki   日本の恩人

2

    日本美術の発見、発掘に熱情を注ぎ、宝物調査に取り組んだ

1853

 

マサチューセッツ州生まれ

1870

明治3年

ハーバード大学で政治経済を学ぶ。先に来日していた動物学者モースの紹介で来日

1878

明治11年

25歳で「お雇い外国人」として来日。

東京大学で、政治、哲学、理財学を講

 

 

講義の受講者には岡倉天心、井上哲次郎、高田早苗、坪内逍遥、清沢満之がいる。

1880

明治13年

京都・奈良の古社寺を訪問 1882年も

1882

明治15年

第1回内国絵画共進会で審査官を務めた

 

 

龍池会(財団法人日本美術協会の前身)にて「美術真説」という講演

1884

明治17年

文部省図画調査会委員に任命

法隆寺・夢殿の開扉 救世観音

 

 

岡倉天心らに同行して近畿地方の古社寺宝物調査

1886

明治19年

フェノロサ、天心らは欧米の美術界の現状を調査する為に渡航する

1888

明治21年

東京美術学校(現・東京芸大)フェノロサは副校長に就き、美術史を講義する

 

 

お雇い外国人に頼るより日本人を中心とする体制が確立され、冷遇される

1890

明治23年

失意のうちに米国に帰国ボストン美術館東洋部長となる 日本には10年程度居住

1896

明治29年

滋賀県大津市の園城寺(三井寺)で受戒した

 

明治30年

1898年、1901年来日するが、もはや日本で美術の職を得ることは出来なかった

 

明治41年

ロンドンの大英博物館で調査をしているときに心臓発作により55歳で急死

 

 

フェノロサの遺志により火葬ののち日本に送られ大津の法明院に改めて葬られた

 


  フェノロサ顔写真20141122     九鬼隆一顔写真20141122  

      フェノロサ                  九鬼隆一

 

2)
先達ー3 九鬼隆一

                 表ー5 九鬼隆一の履歴

九鬼隆一   (くき りゅういち)                       wiki     九鬼隆一

3

    近代日本の官僚、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は男爵、

1850

嘉永3年

三田藩(兵庫県)の家臣で180石取りの星崎貞幹の次男

1870

明治3年

慶應義塾(後の慶應義塾大学)に入塾して英語などを学んだ

1874

明治7年

文部少丞となる

 

1877

明治10年

パリ万国博覧会のため派遣され、明治12年(1879年)5月に帰国した

 

 

アーネスト・フェノロサや岡倉天心と面識を持ち、その美術研究の支援者となる

 

 

「九鬼の文部省」と呼ばれるほどの権勢を振るった。

1881

明治14年

明治十四年の政変:福澤諭吉からは酷評を受ける。

         九鬼と福澤の関係は極度に緊張した。

1882

明治15年

強力な支持者であった岩倉具視が亡くなると文部省での九鬼の権勢は弱まった

1882

明治15年

近畿社寺宝物調査 岡倉天心等と調査

1884

明治17年

文部省を去り、駐米特命全権公使でワシントンに赴任

1888

明治21年

臨時宝物取調べ局」を設立 自ら委員長に就任

 

 

帝国博物館総長、貴族院議員       明治十四年の政変

 

 

近畿地方宝物調査(政府の組織的調査)  岡倉天心等20名の調査団

1889

明治22年

帝国博物館設立:初代総長となり、明治33年(1900年)まで務めた。

 

 

九鬼の支援した東京美術学校も設立され、フェノロサが校長となっている。

1893

明治26年

シカゴ万国博覧会:九鬼や天心の意向から日本画を中心伝統的なものとなった

1896

明治29年

古社寺保存会の設置に尽力

会長 九鬼隆一、岡倉天心も東京美術学校長

1897

明治30年

古社寺保存法の制定に係わる

特別保護建造物 44件指定

1898

明治31年

美術学校騒動が起き、岡倉天心と九鬼の妻・初子の不倫が公になる。

 

 

東京美術学校校長や帝国博物館美術部長を辞任 岡倉天心と決裂

1931

昭和6年

鎌倉で 80歳で没

 

 

3)先達ー4 岡倉天心

                 表ー6 岡倉天心の履歴 

岡倉天心

本名:岡倉覚三(かくぞう)

        wiki        五浦美術館

4

   明治初期、廃仏毀釈の破却を救い、九鬼隆一をスポンサーに古社寺の全国調査を実施

1863

文久2年

福井藩の武家の子として横浜に生まれる

 

 

長延寺(現・オランダ領事館跡)に預けられ、そこで漢籍を学び、

 

 

横浜居留地に宣教師ジェームス・バラが開い英語塾で英語も学んだ

1873

明治6年

官立東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学

1880

明治13年

東京大学文学部卒業

政治学理財学を修め19歳の時卒業、文部省に採用

 

 

英語が堪能な天心は、フェノロサの通訳を務める

彼の日本美術への傾倒強い刺激を受けた

1882

明治15年

近畿社寺宝物調査

九鬼隆一、岡倉天心等が調査

1884

明治17年

文部省令:京阪地方古社寺調査

フェノロサ、加納鉄哉等が調査

1886

明治19年

文部省令:奈良地方古社寺調査 

フェノロサ、藤田文蔵等が調査

1886

明治19年

東京美術学校設立のため、フェノロサと欧米視察旅行。

1888

明治21年

10月、博物館学芸員に任命

 

 

 

近畿地方宝物調査(政府組織的調査)

九鬼隆一 岡倉天心等20名の調査団

1889

明治22年

美術研究誌「国華」の創刊

日本を代表する美術研究誌。

1890

明治23年

「日本美術史」は日本(の美術史学)における日本美術史叙述の嚆矢とされる。

 

 

古彫刻の模写、模刻事業を開始

 

1896

明治29年

古社寺保存会の設置に尽力

 

1897

明治30年

古社寺保存法の制定に係わる

特別保護建造物 44件指定

1898

明治31年

日本美術院を創設

 

 

明治32年

古社寺保存会調査:大宰府、大阪、九州、琉球

 

明治33年

古社寺保存会調査:岐阜県

 

 

明治35年

古社寺保存会調査:京都、奈良、山形、宮城、福島、栃木

 

明治36年

古社寺保存会調査:鳥取、島根、山口、千葉、茨城県

1913

大正2年

50歳で没




    興福寺阿修羅明治  興福寺阿修羅現代
   明治時代の放置されていた阿修羅    岡倉天心が修理した阿修羅像 腕と手を比較してください


 岡倉天心写真20141122    a3興福寺東金堂阿修羅明治
        岡倉天心                 興福寺 東金堂内 明治時代の惨状 阿修羅も見えます 

4)明治期の文化財関連の制度・・・建造物が対象となる

 

  「古社寺保存法1897 明治30年制定   

    (我国の文化財保護制度の原型をなす制度)

   指定件数 : 国宝:155件  特別保護建造物:44件

 

 日本初の文化財指定が行われました。

 明治28年 九鬼隆一の講演会で伊東忠太が「国家は、古建築を保存すべし・・・」と発言、

 この時点から建築が保存の気運が高まり法制化されました。

 

 古社寺保存法の対象は、社寺所有だけの建造物、宝物としていて、国宝、特別保護建造物の指定は保

 存修理等のために国から資金を支出すべき物件を一覧にしたことに意義があったようです。

 

 

 

 

3、明治時代後期   【建築文化財の調査を法的に実施】

 

明治後期は「古社寺保存会」の活動で全国調査が行われました。中心人物は、伊東忠太、関野貞等で

施され指定件数も1000棟余りに増加すると共に、修理保存に対して予算も付くようになり仏像修理も行

われるまでになりました。

古美術保護が政府の所管として明確になり「古社寺保存法」による管理が開始されるました。

 

特に、関野貞を中心とした調査チームは、絶え間なく文化財保護に関わり続け、関野の評価基準が文化

財指定のもととなるなど、日本建築史の基盤を確立した功績は特筆すべきことです。

 

更に、伊東忠太文化財保護を政府に訴え古社寺保存法等の政策として実現させ、関野貞が、その政

策で近畿を徹底調査し、その成果、情報を政策にフィードバック、その積み重ねが文化財保護法へと

時期です。

 

 

1)先達ー5 関野 貞

                 表ー7 関野 貞の履歴

   関野 貞(せきの ただす)

        wiki    東文研

5

    奈良の古建築の調査・修理修復をライフワークにし、建築史学の基礎を築いた

1868

慶応3年

高田藩士の家に生まれた

伊東忠太も同年生まれ

 

 

東京帝国大学造家学科(建築学科)卒業

卒業論文は平等院の研究

 

 

日銀関係工事に従事

辰野金吾教授の元で学ぶ

1896

明治29年

伊東忠太の勧めで内務省、奈良県技師

奈良古建築の指定、修理事業の責任者

 

 

奈良の古建築の調査、修復、研究に没頭

 

 

解体修理

新薬師寺本堂、法起寺三重塔、唐招提寺金堂、

薬師寺三重塔、東大寺三月堂、秋篠寺本堂

1899

明治32年

平城宮址を発見

平城宮址は1922年、国の史跡に指定

1901

明治34年

奈良の古建築調査 5年間を費やす

奈良の神社200余仏寺150余、

模範80を出ずと報告

1901

明治34年

東大助教授

 

1902

明治35年

韓国ソウルの南大門(崇礼門)を調査

設計作品:旧奈良県物産陳列所 

1905

明治38年

法隆寺非再建論を発表

 

1906

明治39年

中国遺跡調査を開始

 

1910

明治43年

東大教授

 

1928

昭和3年

定年退職

 

1935

昭和10年

67歳 没

 

 

関野貞の功績】

建築当初の姿を最上とするが、後世の付加部分についても場合によって価値を認めるという視点に

立ち、奈良の古社寺の復元修理を指導監督しました。

さらに日本・朝鮮・中国の遺跡・建築・美術の踏査調査を実施し、考古学・建築史・美術史を横断する

多数の資料の収集分析を行い、歴史的建造物を含む文化財保護の広範な業績を残しました。

 

  唐招提寺の修理

後補された鎌倉・元禄期の方杖・木鼻を取り去り、当時の雑誌で「むしろ破壊」と非難を浴びること

ありました。反面、西洋の鉄骨トラスを取り入れる等、革新的であったとも言われています。

 

       関野貞顔写真20141122 関野貞    伊藤忠太写真20141122 伊藤忠太

 

 

2)先達ー6 伊東 忠太

                 表ー8 伊東忠太の履歴

   伊東 忠太(いとう ちゅうた)               wiki    米沢

6

   西洋建築学を基礎に、日本建築を学問的に研究し、日本建築史を創始した。

 

   「造家」という言葉を「建築」に改めた。設計作品に、重要文化財が有る

1867

慶応3年

山形県米沢に生まれる

 

1892

明治25年

 帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)卒業

 

 

「日本建築保存ノ意見書」をしたためるとともに、内務省社寺局に意見書を提出

1893

明治26年

 「法隆寺建築論」を発表

美術としての建築の扱いを主張。

1895

明治28年

「国家は古建築物を保存すべし」を『国会』に発表

 

 

臨時全国宝物取調局総裁 

九鬼隆一に、日本美術論に建築を含めるよう抗議書簡送付

 

 

抗議書簡に関し、九鬼と面談し信頼を得る。

1899

明治29年

古社寺保存会委員就任

中尊寺金色堂、大報恩寺本堂、醍醐寺五重塔修理

 

 

「臨時全国宝物取調局臨時鑑査掛」(九鬼隆一)の辞令を受ける

1897

明治30年

古社寺保存法の制定に係わる

特別保護建造物 44件指定

1905

明治35年

 建築学研究のため3年間留学(中国、インド、トルコ)

1908

明治38年

欧米経由で帰国、東京帝国大学教授

1910

明治40年

中国や印度を調査する 明治42,43年

 

 

内務省から嘱託:神社・仏閣の保存・修理改築の調査

 

 

明治神宮造営局参与:工業課長に任じられ、明治神宮の造営に献身的な尽力した。

1915

大正4年

日光東照宮の調査を委嘱

1916

大正5年

法隆寺壁画保存方法調査委員

国家的建造物に関する各種委員に推挙される。

1923

大正12年

明治以降老朽化し取り壊しの決まった首里城正殿の保存に尽力

1943

昭和18年

建築界ではじめて文化勲章を受章

1954

昭和29年

逝去。享年87

 

 

【伊忠太の功績】

日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日

本建築史を創始しました。また、それまでの「造家」という言葉を「建築」に改めたのも伊東です。

 

日本建築の源流を求めて中国、インド、トルコなどに旅行し、雲崗石窟を発見。日本および東洋建築史

の学問的体系を樹立しました。又、設計家として「建築進化論」を唱え、それを実践するように独特の

様式を持った築地本願寺などの下記の作品を残しています。

1943年(昭和18年)には建築界で初めて文化勲章を受章しています。

 

 

【伊藤忠太の主要設計作品】

橿原神宮

1890年(明治23年)

橿原市

 

平安神宮

1895年(明治28年)

京都市

重文 設計:木子清敬・佐々木岩次郎

豊国廟

1898年(明治31年

京都市

 

現伝道院

1912年(明治45年

京都市

重文 真宗信徒生命保険

明治神宮

1920年(大正9年)

東京都

佐野利器共同 戦災焼失、戦後再

現・一橋大学兼松講堂

1927年(昭和2年)

東京都

登録文化財

現・東京都慰霊堂本堂

1930年(昭和5年)

東京都

 

築地本願寺

1934年(昭和9年)

東京都

重文

湯島聖堂

1934年(昭和9年

東京都

史跡

俳聖殿

1941年(昭和16年)

伊賀市

重文

 

 

 

 

 

4、大正~昭和初期   【建築文化財の調査の深耕】

 

大正末からの深刻な経済不況の中で、昭和8年(1933)「吉備大臣入唐絵詞」が海外流出し、ボスト

ン美術館所蔵になっていたことが判明するなど 文化財の散逸が多くなってきました。

 

対応措置として、昭和4年(1929)「国宝保存法」が制定され 従来の特別保護建造物・国宝は、すべ

国宝指定に統一され国宝の輸出移出や現状変更は、文部大臣の許可がなければできないことと

ました。

この「国宝保存法」による指定によって、国宝件数は増大 国宝は、宝物3,705件、建造物845件

なりました

 

 

1)先達ー7 天沼 俊一

                 表ー9 天沼俊一の履歴

  天沼 俊一(あまぬま しゅんいち)

 Wiki

 

  建築の細部意匠を徹底調査した、戦前の古建築研究の第一人者。日本建築史を確立した

1876

明治9年

東京生まれ

 

1902

明治35年

東京帝国大学工科大学建築学科卒

 

1906

明治39年

奈良古社寺修理技師

31歳の時、恩師である関野貞の勧めで奈良県

1918

大正7年

京都府古社寺修理監督技師

東大寺大仏殿や唐招提寺講堂など古建築の修理

1919

大正8年

工学博士の学位を授与

「日本古建築及仏教芸術の史的研究」

1921

大正10年

欧米・エジプト・印度視察

 

 

古建築の細部様式を調査研究

東大寺復元模型製作 大坂城天守閣の意匠検討

1933

昭和8年

朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然紀念物保存会委員

1935

昭和10

重要美術品等調査委員

 

1947

昭和22

72歳 脳溢血により忽然世去

 

 

国東半島を中心に分布する独特の石造宝塔に「国東塔」との名を付けた

 

設計作品

金剛峯寺金堂1927、金剛峯寺根本大塔東福寺本堂1934、金戒光明寺本堂1942   四天王寺五重塔1940戦災焼失、本能寺本堂長谷寺大講堂 など

 

  天沼俊一写真20141122  

 


2)先達ー
8 川勝 政太郎

                 表ー10 川勝政太郎の履歴

  川勝 政太郎(かわかつ まさたろう

 wiki

 

     日本の考古学者、美術史家。文学博士。専門はサンスクリット、石造美術の研究

1905

明治38年

京都府京都市生まれ

 

1929

昭和4

京都史蹟会の会誌『京都史蹟』の創刊に携わった

1930

昭和5年

史迹美術同攷会を創立し、会の機関誌として研究雑誌『史迹と美術』を創刊した。

 

 

より天沼俊一博士に師事し、古建築、石造美術を研究

1943

昭和18

京都帝国大学文学部史学科考古学選科卒

 

 

近畿日本鉄道嘱託:近畿古文化を研究

石造美術の研究に没頭

 

昭和34

大阪工業大学教授に就任

 

昭和36

文部省文化財専門審議会専門委員

 

 

 

古建築入門講話(改訂)』 

古建築趣味人の愛読書

1978

昭和43

享年73。墓所は、京都市上京区の本満寺

 

 

 

 

5、昭和初期から中期    【文化財保護の法的整備】

 

 昭和初期の建築史の研究は活況を帯び、日本の歴史学会における位置付けが確保する『建築史学』として

 基盤が確立された時期です。

 

 その要因は、個別の建造物の調査研究、様式理論の発展に偏重されていた建築史が、通史としての纏まり

 を見せたことにあり、昭和2年の天沼俊一『日本建築史要2冊』、関野 貞『日本建築史講座』、昭和5

 年の建築学会『日本建築史参考図集』等の文献が多数刊行され一般への普及が図られたことにあります。

 

 又、大正期までの寺社建築が主体の研究が、昭和に入ると東洋建築、史跡、茶室、住宅、民家、城郭、霊

 廟・・・へと研究分野が拡大したのもこの時期であります。

 

 

1)先達ー9 福山 敏男

                表ー11 福山敏男の履歴

  福山 敏男ふくやま としお     東京国立文化財研究所

7

 昭和初期に日本建築史を学問としての基礎を築く

1905

明治38年

福岡県山門郡城内村(現柳川市)出身

1927

昭和02年

京都帝国大学工学部建築学科卒業  卒業論文『観世音寺の研究』

 

 

内務省造神宮司庁嘱託

 

昭和07年

『奈良朝末期における某寺金堂の造営』建築学研究所

 

 

論文発表:唐招提寺の建立 新薬師寺と香山寺 頭塔の造立年代 大仏殿碑文

 

 

国史学者に圧倒されていた建築史家が初めて国史学者に正面から対応した。

 

昭和09年

『飛鳥寺の創立に関する研究』・『豊浦寺の創立に関する研究』(史学雑誌)

『中古における伊勢神宮の建築様式』

 

昭和10

室生寺・興福寺・東大寺法華堂・四天王寺・般若寺・中宮寺・栄山寺八角堂等の論文

 

昭和11

『大安寺元興寺の平城京への移転年代』・『豊浦寺の創立に関する研究』

『初期天台宗寺院の建築』(仏教考古学講座)

 

昭和12

『建築史研究会』設立  『祇園社の塔に就いて』(東洋建築)八坂神社楼門

 

昭和14

京都帝国大学 工学博士  興福院他論文多数

 

昭和15

『神宮の建築に関する史的調査』(造神宮使庁刊)を刊行 宇治上神社

 

昭和17

文部技師として宗教局に勤務

 

昭和18

主要論文の集約『日本建築史の研究』(桑名文星堂)を刊行

 

昭和19

『平等院図鑑』

1947

昭和22

東京国立博物館附属美術研究所(現・東京国立文化財研究所)に勤務

1955

昭和30年

大阪四天王寺の発掘調査東京国立博物館石田茂作、東京大学藤島亥治郎、共同)

1959

昭和34

京都大学工学部教授

1981

昭和56

京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長

 

昭和57

『寺院建築の研究』(上・中・下 著作集1-3)

『神社建築の研究』(著作集4) 、『住宅建築の研究』(著作集5) 、

『中国建築と金石文の研究』(著作集6)を中央公論美術出版から刊行

1988

昭和63

京都大学名誉教授

1991

平成03

日本学士院会員

1995

平成07年

5月20日肺炎のため京都府長岡京市の済生会京都府病院で死去した。享年90

 

上記、経歴での論文量の多さ、調査研究分野の広さ等、建築史を国史水準にしていく尽力は素晴らしく

、『明治の関野貞、昭和の福山敏男』が日本建築史の偉大な先達と云えます。

 

  

2)戦後の動向

         文科省:学制百年史より

 

戦後の混乱と動揺は、明治維新当時の旧物破壊の時期にも比すべき深刻な影響を文化財に及ぼした。

経済の混乱や社会制度の改革によって、国宝、重要美術品の所有者である個人や社寺の多くは、

経済的安定を失い、自らその保存の措置を講ずることができず、荒廃するままに放置するか、ある

いはこれを売却するものまでが続出し、所在不明となったものも少なくなかった。

 

一方、戦後財政の窮迫のため、国宝等の保存、修理に対する国の財政措置もきわめて困難な事情

にあった。このような事態をもたらした根底には、戦後の伝統軽視の風潮や、貴重な文化遺産を

護ろうとする国民的自覚の喪失があったことも否定できない。

 

このような文化財の危機のさ中に、昭和24126日早暁、法隆寺金堂の失火により、世界

最古の木造建造物の壁面に描かれ、幾多の兵火天災に堪えて飛鳥芸術の精髄を伝えてきた壁画が

一朝にして焼失するという事件が発生した。

次いで同年2月には愛媛県の松山城が、6月には北海道の福山城が焼損し、また翌年2月には

千葉県の長楽寺本堂が、続いて7月には京都の金閣寺が焼失し、この一年半の間に、国宝建造

物が5件も火災をこうむるという事件が相次いで起こったのである。

 

法隆寺金堂の炎上という事件は国民に強い衝撃を与え、これを機会に、わが国の伝統的文化財

保存のめに抜本的施策を講ずるよう世論がにわかに高まった。

参議院文教委員会は、こうした事態と世論を背景に対策を検討した結果、超党派で、文化財保

護制度のための画期的な立法措置を講ずべきであるとの結論に達し、その準備に着手すること

となった。

 

文部省では、これより先、21年の67月に、古美術保存懇談会を開催し、戦後の諸情勢に

対処する国宝、重要美術品に関する法律改正の問題を論議し、また、231月から4月に

かけて、文部省と国立博物館の関係者の間で史跡名勝天然記念物をも含めた法律制度の改正

を検討し、一応の成案を得たが、総司令部の賛成が得られないままに実現が見送られたとい

う経緯もあったが、参議院のこのような決意によって懸案の制度改正が実現の端緒をつかむこ

ととなったのである。

 

 

 

 ● 文化財保護法  1950年(昭和25年)

  指定件数:美術工芸品5,824件、建造物1,059件 

 

1950年(昭和25年)、従来の「国宝保存法」、「史蹟名勝天然紀念物保存法」、重要美術品を認定し

た「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」を統合する形で「文化財保護法」が制定されました。

この制定では、従来の「宝物」から「文化財」「重要文化財」の用語が初めて公式に使われるようにな

りました。

 

また、従来、法律による保護の対象となっていなかった無形文化財の選定制度が盛り込まれるなど、当

時としては画期的な法律でした。国宝保存法の「国宝」は文化財保護法上の「重要文化財」に相当しま

す。この点の混同を避けるため、文化財保護法上の「国宝」を「新国宝」、国宝保存法の「国宝」を

「旧国宝」俗称することもありますが、いずれにしても、第二次世界大戦以前には「国宝」であったも

のが戦後「重要文化財」に「格下げ」されたと解釈するのは誤りです。

 

 

「日本建築史確立時期の状況の探訪」は、充分理解していただけたと思います。

 

素晴らしい先達が居られたから、廃仏毀釈の嵐も止まり、文化財の海外流出に歯止めがかかり、

今日の寺社建築文化財が有ることを再度、認識し、拝観する・・・・・感慨を持って探訪できます。

 

 

 

 

3

 日本近代建築史の概要


 

近代建築史は、幕末・明治初期から第二次大戦の終結までの期間を対象にしています。

この期間は、煉瓦から出発し、鉄とコンクリートが急速に普及し、造型的にも近代建築と呼び得るものを確

立した時期にあたります。着目されるの建築は、大半が西洋人建築家の設計、日本人による西洋建築の模倣

であり日本文化独自の建築は、片隅に追いやられた状況で取り扱われています。

 

架構は木造からコンクリートと鉄骨建築へと変換され、建築の設計法自体も、内外装の部材もすべて西洋式

に変転した時期です。

明治以前の日本建築史とは大きく変化したわけであり、歴史的評価、文化財的評価も変転せざるを得ないは

ずなのに、同一の通史、文化財評価基準で取り扱われていることに、日本建築史学のスタンスに大きな疑問

を持たざるを得ません。


   8-2-2 旧開智学校 
                                     松本市 旧開智学校校舎 明治9年
 



1、近代建築史の概要

    

 ● 『日本近代建築史概観(Ⅰ)山村 賢治』    に詳述されています。ご一読ください。

 

 ● 『日本近代建築史(1853~1970年)』年表  に詳述されています。ご一読ください。

 

 

 

 

「日本建築通史」は通常、江戸時代以前の日本建築の歴史を指しています。しかし、戦前期の日本建築

通史の多くが明治以降の建築を記述しています。明治以前の「日本建築」が確立して「日本近代建築」

が付け足されたのでなく、「日本近代建築」の研究として成立したことが、「日本建築」と分離するこ

とになったと判断されます。

「日本建築通史」は、大きく2分類され、『明治以前の日本建築史』と『明治から戦前までの日本近代

建築史』とされることは自明であります。

 

コンドルのような外国人建築家、教師による学問が主流派となり、欧米に追いつき追い越せで、日本人

らしさなんてものをすっかり失ってしまった建築界は、鎖国日本の独自文化と同一ではない歴史を創造

したのです。

 

 4-4 大江天主堂ー1                                            

                                           大江天主堂

 

 

4

 日本建築史学の今後

 

 

1、日本建築史の史学としての確立

基本的に、日本の建築史(学)の研究分野の系統的整理、建築史独自の時代画期の設定等、拡散する研

究分化の整理、主体性のある通史の確立が必須であります。

 

日本建築史の目的は、各種のテーマが考えられますが、『建築の創造に貢献する』という範囲ではなく、

『建築は人類の想像力の産物』ではなく、『建築は人類の文化史の一翼』というスタンスに立脚すべき

時期と思われます。

 

1)日本建築史の確立

主体性、独自性を確固たるものとし、考古学史、美術史と比肩するレベルであることの立証と表明。

 

2)周辺の学問領域との交流

従来の日本建築史のジャンルを超え考古学、民俗学、美術史等との調査研究、交流連携を強化する。

 

3)グローバルな建築遺産の歴史的解析レベルの確保