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寺社建築と文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源、歴史、文化財の紹介と文化財の問題点を探訪しています。 常時更新中です!
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寺院建築の起源を探訪します。

 3-3 寺院建築の起源

 

 

 

  3-3 寺院建築の起源  中国、朝鮮半島、日本の寺院起源の探訪 

 
                         
 
       
               2-4 飛鳥寺伽藍模型 
                                                    日本最古の寺院?飛鳥寺復元模型

寺院建築の起源については、中国、朝鮮半島の仏教、建築史を改めて勉強したりする、知識、能力に不安
  があるのですが、少しずつまとめていくことにしました。

 

       ● 「寺院建築の起源」 目次

          1、寺院とは

          2、中国の仏教建築

          3、朝鮮半島の仏教建築

          4、日本の仏教伝来
                次ページへ

          5、飛鳥寺と造寺工

          6、飛鳥・天平の寺院探訪
            7、飛鳥建築様式
            8、寺院建築の起源のまとめ

      

今後、順次更新していきますので、問題点、不具合などのご指摘、よろしくお願いします。



 

● 寺院建築の歴史年表

 

年代

遺跡・寺院

概要

文献など

1世紀

池上曽根遺跡

大型建物 19.2×6.9m、高さ11m、床高4m、135㎡

大阪  

3世紀

吉野ヶ里遺跡

建物群 主祭殿: 12.3mx12.7m、156㎡ 三層二階

佐賀 

3世紀

纒向遺跡 

建物群 4間四方 19.2m12.4m230㎡

奈良 復元 

372

朝鮮半島仏教伝来

高句麗372年、百済384年、新羅5世紀初め 

 

418

仏教伝来説-1

『隋書』イ妥国伝・筥埼宮記 伝来の地は北部九州

 

5世紀

任那日本府

朝鮮半島に日本の拠点、前方後円墳を多数造立

 

5世紀

極楽寺ヒビキ遺跡

建物群 四面庇付き掘立柱建物225㎡ 家型埴輪類似

奈良

6世紀

鹿部田渕遺跡

大型の建物群 建物をL字配置した企画性高い建物群

福岡

 

 

6世紀まで200㎡を越す大型建物は数多く建築されていた

朝鮮半島への侵略、支援、文化交流が盛んであった。

 

460頃

雲岡石窟

「人字形割束」「平三斗」「卍崩しの高欄」の様式

 

467

永寧寺 (中国)

山西省大同市 塔婆造7層

 

478

高句麗寺院(朝鮮)

清岩里寺(金剛寺)上五里寺(定陵寺)一塔三金堂式

 

512

継体6

難波館(大阪難波)

(外国交流の拠点)

継体天皇6年12月(なにわのむろつみ)

朝鮮半島、中国との交易が盛んになる

外交施設

仏教伝来か?

522

継体16

坂田寺(金剛寺)

司馬達等が大和国高市郡坂田原に草堂を営む

鞍作氏の氏寺 (寺院といえるのか?)

扶桑略記

 

527

磐井の乱

筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとした

日本書紀

538

戊午年

仏教伝来説-2

百済の聖王(聖明王)、仏像と経論を倭に献上

日本書紀の552年説あり

上宮聖徳説

元興寺縁起

552

欽明13

仏教伝来説-3

百済の聖王(聖明王)、釈迦仏像と経論を献ずる

釈迦仏の金銅像1体、経論若干巻、幡蓋( 撞幡と天蓋) 

日本書紀

 

 

仏教は公伝より早く、渡来人が日本に伝えていた。

一部の渡来人が秘かに招来し仏教を信仰して安置していた

 

554

朝鮮半島からの渡来

五経博士1 人、僧9人

日本書紀

566

皇竜寺  (朝鮮)

唐の西明寺を模したと伝えられる日本の大安寺伽藍と類似

 

577

王興寺跡 (朝鮮)

「飛鳥寺の原型 百済の寺院か」と云われている

 

 

 

577年以前に日本に寺院建築は存在していないのか?存在した可能性を否定は出来ない状況が多く有る。

 

577

敏達6年

造仏工・造寺工渡来

 

百済国王が日本に帰国する大別王等に経論若干巻のほかに、律師・禅尼・呪禁師・造仏工・造寺工の六人を献り、彼等を難波の大別王の寺に安置

日本書紀

578

造寺工渡来

四天王寺建立のため、聖徳太子の命を受けて百済より三人の宮大工が招かれ、    
その一人金剛重光「金剛組」創業

 

579

朝鮮半島からの渡来

新羅 仏像送る

日本書紀

581

中国 『随』 建国

中国で楊堅が北周を滅ぼして隋を建国  618年まで

 

583

馬子石川の宅に仏殿

蘇我馬子、石川の宅に仏殿を造る。

元興寺縁起

584

敏達13年

馬子宅の東に仏殿

百済将来の弥勒の石像等を請じた蘇我馬子が四方に修行者を求め、播磨国にいた高麗の還俗僧恵便を師として司馬達等の女を出家させて善信尼とした。

馬子は宅の東に仏殿をつくり弥勒の石像を安置して、三尼を屈講して大会設斎した。このとき鞍部達等は仏舎利を斎食の上に得て、馬子に献上した。

日本書紀

584

仏教伝来説-4

仏法が播磨から大和に伝わった記録

日本書紀

585  敏達14年

馬子大野丘の北に塔

馬子は大野丘の北に塔起て、達等が献上した舎利を塔の柱頭に蔵めたという。
塔の形状は不明だが木造?

大野丘では「起て」、法興寺では「建て」という表現

大野丘の塔が一本の柱であった可能性もある。

日本書紀

585  敏達14年

豊浦寺向原寺

止由等佐岐に刹柱を立て…刹を立てし処は、宝欄の東の仏門の処   (刹柱とは塔の心柱) 

元興寺資材帳

587

崇峻即位

四天王寺創建を約す

乱過ぎて後、摂津の国に四天王寺を造る・・・

日本書紀

587

飛鳥寺 建立発願

用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願

仮垣仮僧房を作る僧6人を住ませる、寺の木組を作る

 

587

用明2年

坂田寺(金剛寺)

天皇の為に寺を造る 鞍作多須奈(鞍作止利の父)発願、六の仏像を造顕、寺を建立

日本書紀

586?

渋川廃寺

物部守屋の建立説  飛鳥寺より10年早い

 

588

百済国遣使

百済国遣使 僧恵総、令斤、恵寔らを遣わし、仏舍利を献上。恩率首信、徳率益文、那率福富味身らを遣わし進調。 仏舍利と僧聆照律師、令威、恵衆、恵宿、道厳、令開らと 寺工太良未太文賈古子鑪盤博士将徳白昧淳、瓦博士麻奈文奴、陽貴文、陵貴文、昔麻帝弥、画工白加を奉った。

(仏舎利、僧、寺工2、画工1、露盤博士1、瓦博士4人)

日本書紀

588

崇峻元

飛鳥寺造営開始 

整地と着工  飛鳥衣縫造の祖樹葉の家を取り壊して造る     善信尼ら受戒を受け百済へ発つ

日本書紀

590

善信尼らが帰国

 

百済に行って受戒した善信尼ら五人の尼僧が帰国

尼寺用として造営中の櫻井寺(豊浦寺)に泊まる

日本書紀

590

飛鳥寺 用材切出し

飛鳥寺に使う用材の切り出し

日本書紀

592

飛鳥寺 着工

仏堂( 金堂) と歩廊( 回廊) を起(た)つ

日本書紀

593

推古元年

四天王寺 造営開始

四天王寺を難波荒陵に造る  建立2~3年後?

日本書紀

593

飛鳥寺 心柱

塔心礎に仏舎利を納める。心柱を建てる。

日本書紀

594

法隆寺心柱伐採年

現法隆寺の心柱は 飛鳥寺より新しいのは明白?

 

596

推古4年

飛鳥寺 建立

飛鳥寺落成。 馬子長子善徳臣寺司に任ず。

       高句麗僧・恵慈・百済僧・恵聡が住す。

日本書紀

599

推古地震

大和で家屋倒壊の地震被害の記録が登場

日本書紀

601

推古9年

法隆寺(若草伽藍

斑鳩に宮室を営む  605年 太子、斑鳩宮にうつる

日本書紀

603

推古11年

豊浦寺

宮を小墾田宮に遷す   善信尼が住す桜井寺に小墾田宮遷都に伴い推古帝より豊浦の地を施入される

日本書紀

605?

推古後期

渋川廃寺

物部守屋の建立説 最も古い軒丸瓦は豊浦寺の系統に属す  単弁八葉、忍冬唐草紋の瓦や塔心礎が出土。

 

605

飛鳥大仏を作始め

鞍作止利を造仏工に任命、飛鳥大仏を作り始める

高句麗・大興王より、大仏の鋳造用に黄金300両

日本書紀

606

飛鳥大仏が完成

606年日本書紀の説も有るが期間的に短い     推古17年(609)4月説が妥当か

元興寺縁起

 

 

飛鳥寺の伽藍が全て完成したのは、何時なのか?

 

618

中国 『唐』 成立

 

 

624

推古32年

当時の寺院の数

全国の寺院が46あって、僧816人、尼569人と記述が残されている。女性が多い! 規律は?

 

 

 

 

● 地震大国日本  古代の地震 参考までに記述しておきます。  wiki

 

  ① 推古地震 599  『日本書紀』推古天皇7年4月27日

 

     推古7年4月27日(599年5月26日、5月28日)には大和で家屋倒壊の地震被害の記録が登場するが

     これらは大和で大地震であった事を推察するのみであり震源域は特定されていない。

 

  ② 筑紫地震 679  『日本書紀』巻第二十九 『豊後国風土記』

 

     天武天皇7年12月中に筑紫国を中心に大地震が発生した。地震の発生日は不明である。

     巾2丈(約6m)、長さ3000丈余(約10km)の地割れが生成し村々の民家が多数破壊され、また丘が崩

     れ、その上にあった家は移動したが破壊されることなく家人は丘の崩壊に気付かず、夜明後に知り驚いた

     という。(その領域は現在の福岡県のうち、東部(豊前国)を除いた大部分)

 

  ③ 白鳳地震 684 『日本書紀』に記述があり

 

     白鳳時代(飛鳥時代後期)の天武天皇13年(684年)に起きた、南海トラフ沿いの巨大地震と推定され

     る地震である。南海トラフ巨大地震と推定される地震の確実な記録としては最古のものである。

     白鳳の大地震、白鳳大地震、あるいは天武地震とも呼ばれる。

     記録による土佐や伊予の被害の様相から南海地震と考えられていたため、白鳳南海地震とも呼ばれてきた

     が、発掘調査により、ほぼ同時期に東海地震・東南海地震も連動したと推定されている。

     (関西の被害については明記されていない)

 

    ● 大和に599年、筑紫に679 四国に684年に大地震があったことを日本書紀が伝えていることを認識し

      ておくことで、法隆寺再建、移築論に対する考察の参考としたい。特に599年の地震について。

      飛鳥寺の建立は、596年とすると、3年後この地震で影響があったのか?  興味が湧いてきます!

 

 

1

  寺院とは

 

 

 「寺」とは、仏像を安置のための建物、僧の住まいがあるところの呼称です。当たり前ですが!

 

寺といえば仏教寺院のことですが、中国では仏教が持ち込まれる以前から「寺」があったのです。

寺の字は、もともとは「廷也」と定義され「廷」は役所の意味です。「役人がとどまって仕事をするところ」→

「役所」。 ところが、明帝(後漢の第二代皇帝 在位 57-75)の時代 「白馬寺」という役所の迎賓館に僧

を泊めていたのですが、長逗留になり「白馬寺」に僧専用の建物を新築しました。

以来、僧専用の建物を「寺」と呼ぶようになりましたとさ。

 

 「院」とは、寺に附属する院家(塔頭)の呼称です。

 「寺院」はその二つが合わさった呼称となります。(出家者が起居し宗教的儀式を行う施設)

 

 

 ○精舎(ビハーラ vihara) wiki

 

 インドの出家者(比丘<びく>,僧)が一時的に定住するための建物安居(あんご)が作られ、これが寺の起

 源とされる。安居とは、雨期を意味する梵語のvārsika(又はvarsa。尚、パーリ語ではvassa)を漢語に訳したもの

 である。

 

 本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するため、重要な戒律である不殺生

 を守る為 遊行(外での修行)をやめ、一カ所に定住する為です。後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げ

 あんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるようになった。釈尊在世中より始められたとされ、その後、仏教の伝

 来と共に中国や日本に伝わり、夏だけでなく冬も行うようになり(冬安居)、そして安居の回数が僧侶の仏教界で

 の経験を指すようになり、その後の昇進の基準になるなど、非常に重要視された。

 

 その安居ための建物を精舎(しょうじゃ、Skt:Vihāra、ヴィハーラ、ビハーラ)と呼び、精舎には修行者が住む

 ための僧坊のほかに,講堂や食堂,坐禅などもあったようです当初住居でしたが,時代が新しくなるにつ

 れて定住化が進み,完全に修行者の“家”となったようです。

 

 

 塔(仏塔) wiki

 

 釈迦が入滅すると,遺骨(仏舎利<ぶっしゃり>→サンスクリット語のシャリーラの音訳)を安置する建造物が

 作られこれが塔の起源とされる。

 仏舎利を安置した塔(ストゥーパ)は、一般の信者(在家信者)にとっては礼拝・信仰の対象でした。

 

 仏舎利塔が釈尊礼拝供養と説法の場として在家信徒の信仰の中心になり、これを大きく広めたのが、アショーカ

 王(阿育王<あいくおう>,在位紀元前268年頃~232年頃)で、数多くの塔を作り仏教の広範な信仰へと尽力

 したようです。

 塔が作られた場所もはじめは精舎とは離れて作られていましたが、次第に精舎と仏塔とが接近し,石窟寺院では

 房(僧院)と仏塔を祀る祠堂(しどう)が隣接したり,さらに精舎のなかに仏塔が建立されるようになってき

 ました。これが金堂(本堂・仏殿)の起源となり、仏殿の配置が確立されていきました。

 

○ 伽藍  wiki

 

 伽藍という語は、サンスクリット語の「サンガラーマ」を中国で音写した「僧伽藍磨」に由来し、衆園・僧園・精

 舎とも翻訳されます。中国の伽藍は、仏教が伝来する前から盛んであった儒教の文廟や道教寺院と同様、強い規範

 性を持った対称的な配置を特徴としました。 初期の仏寺は南北軸線上に中心となる堂と塔が並び、それを回廊が

 囲む「一塔式伽藍」が一般的でしたが、やがて南北朝から隋唐時代にかけ、塔を左右に2基配した「双塔式伽藍」

 も成立します。

 

○ 寺の名称

 

 中国では「官舎の意味です。

 後漢の明帝(在位57~75年)の時代,迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん)というインドの僧

 が,はじめて中国に仏教を伝えたとき二人は鴻臚寺(こうろじ)という“迎賓館”に滞在していたが、長期間、迎

 賓館の使用は出来ず、僧達専用の建物を建てその建物の名称を、彼等が白い馬に乗ってやってきたことから,

 馬寺(はくばじ)と名づけました。これ以後,僧侶の住む場所を「~寺」というようになったと云われています。

 

 

  中国の仏教建築


 

1)中国の仏教伝来   中国の仏教wiki

 

中国前漢(25~100)中期から儒教の勢力が強くなり、国教の地位を確保していました。

仏教伝来は一番早い説が紀元前2年であり、確実な説は、67年とされています。

この時期にはブッダの音訳で、浮屠(ふと)と呼ばれ定ました。当初はあくまで上流階級の者による異国趣味の

物に過ぎなかったようです。

しかし社会不安が醸成してくるにつれて、民衆の中にも仏教の信者が増えて教団が作られたようです。

 

伝来に関する説話は幾つかあるが、最も有名なのは、前述の後漢の永平10年(67年)の明帝と洛陽白馬寺に纏

わる求法説話があります。

後漢末期(~220)の小説『三国志演義』にも登場する笮融が、揚州に大寺を建立したという記述があります。

 

● 3世紀の建築が残っていたら凄いことですが、大陸では、度重なる戦火で中国も韓国も古代の「建築の文化 

  材」は現存していません。磚造建築、石窟彫刻、絵画に建築の痕跡が数多く残っており、日本への伝来の確証

  もあり、伊藤忠太をはじめ調査を日本が行っていたことも興味有る点です。

 

 

2)中国の最古の寺院

 

 2世紀末  徐州の牧の陶謙のもとで窄融(さくゆう)がつくった 浮屠祠(ふとし)
       九輪を頂く重楼を中心に回廊を巡らす。重楼の上部はストゥーパ形式、初重はビマーナ的であった。

       初期の層塔は木造建築のため遺構は失われたが,雲岡や敦煌の石窟内の塔柱や壁面に,古い形態の塔

       が彫り出されている

 

 209年   高頤闕 (こういけつ)  コトバンク

       四川省雅安県県城東 15kmにある石闕

       建造年代は後漢献帝の建安 14 (209) 年と考えられている。

       大小2つの建物を横に並べた2重闕で屋根にはそりがつけられ,寄棟造本瓦ぶき。軒は一軒扇垂木。

       『高頤闕』は 闕といって漢代のお墓の門の役目を果たすもので、文字も刻されている

       この字は後漢建安14 年(209)のもので東闕・西闕で8 行6 字ずつの文字が確認できる

 

 4世紀末  北魏の首都平城 五重塔、耆闍崛山(ぎしゃくっせん)、須弥山を祀る仏寺のほか、講堂、禅堂、僧

       房を構えたことが『魏書』にみえ、仏教寺院の伽藍が整備されたことが知られる。


      2-4 高頤闕-2  2-4 高頤闕-1

 


 460年   
雲岡石窟  世界遺産                     wiki

       山西省大同市の西16km

       武周山の南側東西約1kmにわたって彫られた石窟群。

       約1500年以上の歴史があり中国古代仏像彫刻芸術早期の代表作として、その後の龍門石窟などに芸

       術上の影響をもたらした。現存する石窟数は252窟、大小仏像は5万体を越す。

       敦煌莫高窟洛陽龍門石窟とともに、「中国三大石窟群」と呼ばれている。

 

       北魏の和平年間(460-465年)に、当時の僧、曇曜和尚により彫られ、力強く、重厚かつ素朴な中

       国西部地方の情緒を有している忠告があり、その中に建築の文様が彫られています。

       「人字形割束」「平三斗」「卍崩しの高欄」が画かれ、法隆寺への伝承が確認できます。

       雲崗石窟を初めて世界に紹介したのは建築家の伊東忠太だそうです。雲崗石窟と日本人

       これは、知りませんでした。(伊東忠太 3、日本建築の歴史を探訪 参照)

2-4 雲岡石窟ー1 2-4 雲岡石窟ー2

 

 467年   永寧寺 首都の平城(いまの山西省大同市) 塔婆木造7層

 

 516年   永寧寺 

       孝明帝の時代、当時の実権者であった霊太后胡氏(宣武帝の妃)が、当時の都の洛陽城内建立した寺。

       高さ100m以上の九重の大塔があったと、「洛陽伽藍記」等の当時の記録に見えている。

       南海を経て梁より北上して北魏に渡来した菩提達磨が、その壮麗なさまを見て、何日も「南無」と唱

       えていたという塔は、この大塔である。仏殿は宮城の大極殿の外観に似ていたといわれ、主要な仏寺

       建築は宮廷建築を模倣したことが知られる。(塔コトバンク

       孝武帝の534年(永熙3年)2月に火災に遭い焼失。近年の発掘調査の成果として、この大塔の基壇

       部分が出土している。1981・2000・2009年調査

   2-4 永寧寺塔ー2   2-4 永寧寺塔ー1

 

 

 523年   嵩岳寺の塔                            wiki                      

       河南省登封 北魏、正光4年 磚造  中国最古塔 十二角形

 

 781年   南禅寺  (山西省)  中国現存最古  wiki

       中国山西省の五台山にある南禅寺の大仏殿が、中国で現存する最古の木造建築物です。

       建中三年(781年)に建てられたことが、殿内の梁の下に墨書で確認されています。

 

 857年   仏光寺 東大殿                         wiki

       宋、金、明、清の四期に修築されているが唐大中十一年(857年)に建てられたもので、正面七間、

       奥行き四間と規模を誇り、中国で二番目に古い木造建物です。

 

 ● 中国寺院は、2世紀に始まり、4世紀には伽藍配置が確立され、5世紀には、大伽藍に展開され100mの塔が建

   築されていました。

 その頃の朝鮮半島は、朝鮮半島は、三国時代(4世紀半ば - 676年)南部の三韓は、馬韓諸国のなかの伯済が

 百済に、辰韓諸国の斯盧が新羅となり、弁韓諸国は統一した政権を形作ることなく伽耶諸国となっていました。

 しかし北半分は、中国に近い高句麗に占有されており、4世紀後半には仏教が伝来し、寺院建築も同時期に浸

 透し5世紀には各地に建立されていったようです。

 

 3世紀には、瓦葺、寄棟屋根、扇垂木、組物が存在していたことは、日本で、吉野ヶ里遺跡、纒向遺跡の時代

 であり、建築文化の差は3世紀もあったことになります。




朝鮮半島の古代寺院

 

 

1)朝鮮半島の仏教伝来 

  

  ① 高句麗

小獣林王2374、前秦の符堅王が使臣と僧順道をもって仏像や経文を送り、翌年375年には肖門寺・伊弗蘭寺

などが建立された。省門寺順道をこの寺に泊まらせた。

 

  ② 百済

  沈流王元年384枕流王が東晋から高僧の摩羅難陀を招来し、彼を歓迎して王宮に泊まらせて禮敬した。

  翌年、新都漢山州に寺を建て、僧10人を得度させた。

  392年には阿莘王(阿華王)が仏教を信仰せよとの命を国内に布告。しかし普及したのは6世紀以降になる。

 

  ③ 新羅

5世紀始め・・・新羅に初めて仏教を伝えた高句麗の僧(墨胡子)である。

418年(新羅訥祇王2年・高句麗長寿王6年)に直指寺桃李寺と共に創建したと伝えられる。

 

古代の朝鮮半島の仏教伝来の史実では、三宝が伝わり、これらを受容する仏寺がなくては、仏教の伝来とは認め

られない社会であった。高句麗は、この四つを仏教伝来の条件としているが、百済と新羅とは仏像や経文が伝え

られたことを明確に記述してはいない。

 

 【ポイント】伝える側は「仏像、経典、僧、仏寺」の四点セットが「仏教伝来」の受容条件と判断される。


 

2)仏教寺院の概要

 

 高句麗および百済の仏教建築は伽藍跡だけで、現存している建築は無い。

 高句麗の寺院跡では、平壌の清岩里(せいがんり)廃寺(金剛寺)、大同郡上五里廃寺(定陵寺)が有名で、中央に

 八角塔を置きその三方に仏殿を配した伽藍形式が確認されている。百済では公州と扶余に寺院跡があり、扶余の軍

 守里廃寺、東南里廃寺、金剛寺などで伽藍配置が知られている。中門・塔・仏殿・講堂が一列に並び、周囲に回廊

 を巡らす、日本でいう四天王寺式配置である。

 

 新羅の寺院跡では、慶州の皇竜寺が著名である。この寺は553年に着工し、645年に九重の木造塔が完成したが、

 塔の後ろ両わきに小金堂を配した中金堂、さらにその後ろに講堂があり、中門から発する回廊が塔と三金堂を囲ん

 で講堂につながる珍しい配置が確認されている。高句麗の塔を中心とする一塔三金堂配置に対し、塔と並列する一

 塔三金堂配置である。古新羅の他の寺院では百済と同じく、一塔一金堂を一列に並べた配置と推定されるがさだか

 ではない。

 

 新羅の三国統一後、最初の寺院として679年に四天王寺の建立をみるが、この寺は金堂の前方左右に双塔を配す

 る形式の二塔一金堂の配置である。この種の伽藍配置には、682年造営の感恩寺、684年の望徳寺から751年の仏

 国寺などがあり、盛行がうかがえる。当時の木造建築は現存しないが、石塔では感恩寺高仙寺の三重塔や、仏国

 寺の多宝塔、浄恵寺十三重塔などが著名である。 

 


 ● 375年  肖門寺・伊弗蘭寺

      「374年、符堅はまた別の僧・阿道を派遣してきた。そこで、小獣林王は順道のために肖門寺を創建し、

      また、阿道のために伊弗蘭寺を創建してそれぞれの僧を住まわせ、海東における仏法、ここに始まると

      されている」。百済の聖明王が我が国に仏教を伝える164年(538)も前の話である。 

 

 ● 393年  平壌に建てられた9つの寺  詳細不明


 

 ● 5世紀以降

 

名称

定陵寺

場所・地域

高句麗  平壌郊外

創建

420年ごろ

伽藍形式

単塔三金堂式

特長

八角形の建物址を中心の大伽藍

基壇

割石造成基壇

規模

東西約200m、南北130m

講堂規模

 

八角塔址は幅20m、一辺が8.4m

同例寺院

百済弥勒寺軍守里寺址新羅の皇龍寺高麗興王寺万福寺

仏殿

西金堂・東金堂北金堂

 

小乗的な塔の重視から舎利信仰の現身仏中心的なことが窺われる


    2-4 定陵寺ー1   2-4 定陵寺ー2

   創建時 伽藍配置図                現在の復元寺院   

 

 建立時期は、出土遺物と遺跡より、清岩里寺址よりは古く、肖門寺・伊弗蘭寺よりは後代と考えられる。

 393年に建てられたと記録される「平壌9ヶ寺」の中の一つとも推定されが、これを確認は出来ていない。

 

       

   

名称

上五里廃寺

場所・地域

高句麗

創建

470年ごろ

伽藍形式

単塔三金堂式

特長

八角形の建物址を中心の大伽藍

基壇

東西12.6m、南北25.8mの基壇 基壇上には長さ50cmの板石

規模

 

 

基壇外線には約2m間隔で方柱形の石材が置かれており、これらはその形態から欄干「裳越」跡と推測される

一辺は8.2m

講堂規模

 

仏殿

西金堂・東金堂北金堂

同例寺院

元五里・土城里廃寺址・清岩里廃寺定陵寺

   絵図が無い

遺跡は清岩里と同様に八角形の基壇を中心とし、その一辺は8.2m。 

 周囲にやはり落水受けのための幅約90cmの石敷きを発掘。八角址の東西には約4m離れて東西2基の金堂址。 

 八角址は東西12.6m、南北25.8mの基壇、基壇上には長さ50cmの板石を並べていた。

 基壇外には約2m間隔で方柱形の礎石があり、その形態から欄干」又は「裳越」と推測されている

 八角址にはこれら東西金堂址を繋ぐ鋪石と、基壇の南北辺中央に階段があり、痕跡から推測すると北金堂と中門

 があったと推測される

 

 高句麗時代の一堂金堂式伽藍配置は小乗的な仏舎利塔の重視から,舎利信仰の現身佛中心としたとされる。

 

 

 

名称

清岩里廃寺(金剛寺)

場所・地域

高句麗 平壌郊外、大同江の河岸と接する広い台地

創建

478年

伽藍形式

単塔三金堂式

特長

八角形の建物址を中心の大伽藍

基壇

八角基壇の一辺が10メートル

規模

東西100m、南北150m

 

 

約23m、1辺9.5m

講堂規模

回廊の外の北側に講堂が置かれている

仏殿

北金堂は全長32.47m幅19.18m

東西の金堂と中門もその痕跡

同例寺院

上五里・元五里・土城里廃寺址,定陵寺址等


                      2-4 清岩里廃寺

 

八角建築の形態は中国の伝統的な建築様式が伝来したと考えられるが、塔の八角の源流については印度の圓塔

又は『四分律』の造塔思想が、舎利佛と目連のための塔婆の造立について比丘たちが佛陀に問うたとき佛陀

「四方に作し若くは圓に若くは八角にし石盤若くは木を以て作り...」と述べたことが起因と考えられる。

 

           

 

   清岩里寺址は平壌郊外、大同江の河岸と接する広い台地上にあり、西南方向に面した伽藍配置である。 

   中央に八角形の基壇があり、その規模は全体幅が約23m、1辺9.5mで大型八角堂建築と推定される

   その周囲には幅70cmに渡って割石が敷かれ、屋根から落ちた水を流すための施設がある。

   北金堂の規模は全長32.47m、幅19.18m、東西の金堂と中門もその痕跡が残っているが、規模など不明

   この寺址は中心区画の規模だけでも東西100m、南北150mに及ぶ大型寺院と推定され

   この寺址は記録上478年に創建された「金剛寺」に当たると推測されてい   

   中軸線上に塔を中心にして,その北・東・西に金堂を配し,中門の左右から派出した回廊が塔・東金堂・西金

   堂・北金堂(中金堂)をんでいる単塔三金堂式である

 

   中央の八角の遺址が塔か否かが問題となる清岩里廃寺址は,清岩里廃寺址の八角建築を塔の跡と推定したが,

   村田治郎は「八角基壇の一辺が10余もある巨大さから推定すると驚くべき高さの塔になるわけであって、 

   当時の高句麗の木造技術ではたしてこれを造ることができたか否か疑わしく塔よりも八角堂と考え...八角堂を

   中心にして東西南北の四方にそれぞれ堂や門があつたと考えられ」と述べている。   

   村田治郎が主張したように回廊中に塔がなくて四つの仏殿が配置されたことは伽藍配置としておかしく仏舎利

 塔の形態と推定したほうが妥当と考える。

 

 八角建築の形態は中国の伝統的な建築様式が伝来したと考えられるが、塔の八角の源流については印度の圓

 塔又は『四分律』の造塔思想が、舎利佛と目連のための塔婆の造立について比丘たちが佛陀に問うたとき

 陀は「四方に作し若くは圓に若くは八角にし石盤若くは木を以て作り...」と述べたことが起因と考えら

 れる。このことから、まで発掘された上五里・元五里・土城里廃寺址,定陵寺址等の高句麗時代の八角遺構は、

 一堂金堂式伽藍の中心に小乗的な仏舎利塔の重視から,舎利信仰の現身佛を八角堂に祀ったと推定される。

 

   目連(もくれん)は、釈迦の内弟子の一人。弟子中で神通第一といわれる。正しくは目犍連であるが、略して

      目連といわれる。また十大弟子の一人として数えられ、筆頭だったので、Mahaa(音写:摩訶、訳:大)を

   つけて摩訶目犍連、大目犍連などとも記される。

 

 

名称

軍守里廃寺

場所・地域

百済

創建

520~550年ごろ

伽藍形式

単塔一金堂式(四天王寺式)

特長

 

基壇

 

規模

 

 

講堂の左右には、講堂基壇から4.85m離れた地点に長方形の建物が配置されていた南北長が東西長より長い建物で、左側が経楼、右側が鐘楼と推定されている

金堂の東・西回廊外側の址の建築物が何であったかがまだ不明

詳細不明

講堂規模

45.5×15.2m


          2-4 軍守里廃寺ー1

           「軍守里寺跡」式伽藍配置

 

   「軍守里寺跡」式伽藍配置は、中国の形式と高句麗の形式を参考にしながら百済で新たに考案された伽藍配置

   である6世の前半から半ばにかけて、扶余地域に見られる百済伽藍配置の典型である。伽藍中軸線の南北

   に塔を中心として南大門・中門・金堂・講堂が一直線にならび中門の左右から派出する回廊が講堂に接続

   する単塔一金堂式配置である日本の四天王寺のモデルの可能性が高い。

   講堂の左右には、講堂基壇から4.85m離れた地点に長方形の建物が配置されていた。

   西回廊の北端には、回廊ではなく僧坊の室のように小型石材が隙間亡く巡る建物跡も見つかっている。

 

   講堂の両脇の建物を金堂として考え単塔三金堂式伽藍配置とする説もあるが その址を僧房又は附属建物とし

   て考え単塔一金堂式伽藍配置と考えたい。その根拠としては,

 

   1) 韓国古代伽藍は塔と金堂中心の伽藍配置として回廊の中は聖域の場所で塔,金堂しか配置されなかつた

     から回廊の外側に金堂を配置することは考えにくく、その類例がない

   2) 軍守里廃寺址の堂塔地割法は日本の単塔一金堂式の四天王寺と近似していることと塔の心礎の深さが同

     じ伽藍配置形態中国の永寧寺と同じである

   3) これまで発掘された百済時代の伽藍配置は彌勒思想によって建立された彌勒寺以外は全部単塔一金堂式伽

     藍配置である

 

   一つの寺に一つの金堂で一つの本尊を安置することが当然であったと思われる

   飛鳥寺の単塔三金堂式伽藍も、基本的に古代にはありえない形式と判断される。

   

 

 

名称

定林寺址

場所・地域

百済  扶余の中心部にある大寺院

創建

538年

伽藍形式

単塔一金堂式(四天王寺式)

特長

2008年の再発掘で、回廊の構造が四天王寺と違うことや、講堂の周辺に四天王寺にはない二つの建物が付属することが分かった

基壇

金堂二重基壇、講堂址回廊址瓦積基壇 石塔部版築気法中国南朝の梁は541年に仏典や画家などを百済に送ったとの記録がある

規模

詳細不明

 

中門の外には東西の両側 に池を掘る橋 現在まで発掘された最古の池であり、三国時代の寺の造景研究に貴重な資料


       2-4 定林寺址-2      2-4 定林寺址ー1

    

 

 

 中門、塔、金堂 、講堂が南北子午線上の一直線に置かれた百済典型的な一塔一金堂式伽藍配置である。

 廻廊が建物を取り囲むのような配置で、伽藍の中心部を囲む廻廊の形態が四角四面ではなく北側が広い梯形平面担

 っており、 これも軍守里廃寺と同様、単塔三金堂式伽藍の配置で有るという説が有る。

 

 また中門の外には東西の両側 にそれぞれ池を掘って橋を通じて渡るようにしました。

 現在まで発掘された最古の池であり、このような池の存在は三国時代のお寺の造景研究に貴重な資料になります。 

 この以外にも定林寺址は金堂の二重基壇、講堂址及び回廊址の瓦積基壇、石塔部 の版築気法など古代伽藍配置の

 特別な形式をみせる百済建築の史料的意義がある。 

 不明確だった築造時期は、過去の調査での出土品から540年ごろと推定され、扶余に都が移ったのは538年で、

 相前後して着工したと判断されている。

 

 

 

名称

皇竜寺

場所・地域

新羅  慶州の月城の東北

創建

533年又は566年

伽藍形式

単塔一金堂式(四天王寺式)

特長

 

再建

単塔三金堂式伽藍配置

規模

 

塔の規模

基壇規模は一辺が28.9Mあり、塔の高さはほぼ80m

654に九重塔が完成した

講堂規模

54.7×15.9m


                   2-4 皇竜寺ー2

 

創建時の伽藍配置は中軸線の南北に中門,塔,金堂,講堂を一直線に縦列し中門の左右から派出する回廊を講堂に

接続する単塔一金堂式配置である.

再建の伽藍配置は清岩里廃寺式伽藍配置とは異なり金堂並列配置の単塔三金堂式である

 

中金堂址には三尊佛址とその左右に石毫の遺跡址が五っありこれを十大弟子の佛像址と見れば十大弟子は一

群で存在しているはずであるこれは一つの金堂と考えられるが,問題は中金堂址の左右遺跡址いわゆる東・

西金堂址はいかなる史料にも見出せず佛像石毫座と佛壇の痕跡がみられないから金堂として判断し難いので多

数の学説がある。

 

『三国遺事』によれば、唐に留学中の慈蔵の前に神人が現れて「皇龍寺に九重塔を建てれば隣国が降服し、九夷

もきて朝貢し、王業が長らく太平になるであろう。」と言い、善徳王12(643)年に慈蔵は唐帝がくれた経像、

袈裟、幣帛を持って帰国し、善徳王に九重塔の建立を勧めました。善徳王が郡臣たちに意見を聞くと「工匠を百

済から求めてこそできましょう」というので宝帛を持って行って百済に頼み、百済から阿非知という工匠が命を

受けて来龍春が200人を率いて2年間かけて善徳王15(646)年九層木塔を完成させたということです

 

塔の平面が25m四方、高さ80mとすると体積は、50,000m3となる。これを2年間(500日)で200人で完

成させたとすると「20人/m3・日」の施工歩掛りとなる。

飛鳥の法輪寺三重塔再建工事期間(昭和48年6月~49年7月)は13ヶ月で 記録より延4500人である。

4500人を体積当りの施工歩掛りは「5人/m3・日」となる。法輪寺は、現代に近い工事技術レベルであること

を考えると、4倍の労働力が必要であったことが、この史料から判断される。それも百済から呼んで!

 

 

 

名称

陵山裏廃寺

場所・地域

百済

創建

567年

伽藍形式

単塔一金堂式(四天王寺式)

特長

塔の舎利龕に昌王13年(567)昌王が塔を建てたと記されていた

基壇

 

規模

 

 

 

 

講堂規模

37.4×18.0m

仏殿

 

同例寺院

 


                    2-4 陵山裏廃寺皇竜寺ー1  

 陵山裏廃寺は、一塔一金堂式の伽藍で塔の舎利龕に昌王13年(567)に昌王が塔を建てたことが記されていた。

  詳細は、不明です。

 

 

 

 

名称

王興寺

場所・地域

百済

創建

577年

伽藍形式

単塔一金堂式(四天王寺式)

特長

塔の舎利函に昌王24年(577)に建てたことが記されていた

基壇

講堂跡は東・西・北側基壇は30㎝前後の割石基壇

南側基壇は整えた石材を利用した架構式基壇

規模

王興寺址の南辺では石築とその下に低湿地が確認された。船着き場だったのではと推測されている。

 

南側基壇外側10㎝前後ある石と瓦を敷き詰めた「雨落溝」

西側建物跡は東西幅13.2m、南北長48.0m

東側建物跡は東西幅14.0m、南北長(推定) 48.0m

 

講堂規模

東西46.8m×南北19.2m 講堂跡南側基壇を確認

仏殿

 

 

 


      2-4 王興寺伽藍  2-4 王興寺ー2 

 

王興寺は『三國史記』に武王35(634)に建てられたとする一塔一金堂式の伽藍であったが、塔の舎利函に昌

王が24年(577)に建てたことが記されていた。   

       

寺域の規模は東西回廊の最大幅は58.7m、南北長は80mと思われ、陵山里寺址と規模や形態が類似している。

王興寺址の南辺では石築とともに、その下に低湿地が確認された。この場所が船着き場だったのではと推測され

ている。王興寺は錦江の川岸に位置し、百済の第30代・武王(在位:600 - 641)はしばしば船に乗って王興

寺を訪れ、その南辺に船をつけたものと思われる。 

 

2005年と2006年の調査では、寺域の東側で百済時代の窯跡が10余基発見された。ここの窯で王興寺の瓦が焼

かれたと推定されている。 丁酉年(577年)2月15日に寺を建立したと示す舎利容器が出土した。 

 

講堂跡は東・西・北側基壇は30㎝前後の割石を積んで作ったが、金堂と向き合う南側基壇は整えた石材を利用

した架構式基壇であった。 

南側基壇の外側では10㎝前後ある石と瓦をびっしりと敷き詰めた「雨落溝」があらわれた。 このような施設は

金堂跡西側建物跡でも一部確認された。

講堂跡西側基壇から1m離れた地点で、東側基壇は石、南側基壇は平瓦を積んで作った建物跡1棟が確認された。 

東西回廊と北側に続く東西建物跡の規模と範囲を確認した。 

西側建物跡は東西幅13.2m、南北長48.0mであり、東側建物跡は東西幅14.0m、南北長(推定) 48.0m。

この二つの建物の北側基壇は講堂跡の南側基壇と一直線上に配置された。

  西側建物跡から西方に6m離れた地点で基壇石列が露われ、一帯に他の建物跡があるということが確認された。

 

 

名称

金剛寺址

場所・地域

百済

創建

580年又は620年

伽藍形式

単塔一金堂式(四天王寺式)

特長

中心軸は南北一直線ではなくて、東西一直線の東向き

基壇

 

規模

 

 

 

 

講堂規模

45.1×19.1m

仏殿

 

同例寺院

 

 

 1964年と65年に発掘調査が行われ、一塔一金堂式の伽藍配置であることが確認された。

 中心軸は南北一直線ではなくて、東西一直線の東向きであった。

 高麗時代に制作された「金剛寺」銘の平瓦が出土したため、金剛寺と呼ばれているが、創建当初の寺名は不明であ

 る。百済時代の瓦当も多数出土するので、創建は百済時代として問題ないが、年代は特定されていない。 

 

 

 

名称

弥勒寺址

場所・地域

百済  益山市金厩戸皇子面箕陽里にある百済の代表的な寺院址

創建

600年.639年.641年

伽藍形式

単塔一金堂式(四天王寺式)の3院が並列

講堂を後面に大きく配置した三院一寺式

特長

三塔三金堂式伽藍

基壇

 

規模

東西172m南北146m 巨大伽藍

 

 

九重等 石塔2基

講堂規模

62.9×22.0m

仏殿

 

同例寺院

 


           2-4 弥勒寺址ー1  


 

全羅北道益山市金厩戸皇子面箕陽里にある百済の代表的な寺院址で、『三国遺事』によれば武王(600~641)

が王妃とともに獅子寺(サヂャサ)に行幸の途中、龍華山(ヨンファサン)の下の池から弥勒三尊が現れ、王妃

が寺の建立を祈願した。

そこで、この池を埋めて塔と建物をそれぞれ三カ所に建てて弥勒寺を創建したという。

 

発掘調査によって、東西方向に三塔と三金堂を並べて配置し、それぞれ回廊をめぐらし、講堂を後面に大きく配

置した三院一寺式であったことが判明している。 

各院は中門と塔、金堂を一棟ずつおいた一塔一金堂式伽藍を東西軸線に並べてある。

回廊内廓の規模は、東西172m、南北146mの巨大な伽藍である。幢竿支柱の南に南門址がある 

 

  

 

名称

東南里廃寺

場所・地域

百済

創建

650年頃

伽藍形式

小乗的な舎利信仰中心から考えると無塔式伽藍造営はありえない

特長

塔がなく,金堂を中心にして中門と講堂を回廊で結ぶ形式

基壇

 

規模

 

 

東南里廃寺址は寺院ではなく官属の建物であったとする説も有る

 

講堂規模

 

仏殿

 

同例寺院

 


    1938年石田茂作によって発掘された以来、塔址がないことから学者たちは特有の「無塔式」伽藍配置説、又は

藤澤一夫は双塔式伽藍配置説があるが、東南里廃寺址は寺院址ではなく外の官属の建物であったとする説も有る。

その根拠としては,

1)遺跡から出土された瓦当文様や確認された遺構状態が古い時期のもので、東南里遺跡が寺院址とすれば韓国

  古代伽藍造営は塔中心すなわち小乗的な舎利信仰中心から考えると無塔式伽藍造営は納得できないし,その

  類例がないことである。三国の中で百済はもとも伽藍造営について佛教思想が発達し戒律主義を厳守した事

  情から考えると無塔式伽藍はありえないと考えられる。

2)韓国で双塔式伽藍が初めて見えるのは統一新羅時代に入つてから、鎮護国家のために建立したことである。

  慶州四天王寺址、望徳寺址、感恩寺址塔が双塔一金堂式である。

    東南里遺跡の時期がおそくとも百済が滅亡するA.D.660年以前の址で、その時期に墾塔伽藍の造営は理解

    し難いことであるし、その類例が百済時代にはない。

3)東南里遺跡を再び1992年と1994年に忠南大博物館によって発掘された結果、金堂址と判断された中央基

  壇部の方形積心土が現存する唯一な建物址の痕である。東南里遺跡は寺院址として具備される南門・中門・

  塔・講堂・檜房等の遺構が確認されなかったから官属の別の建物址と思われる。 

 

 

 

名称

四天王寺

場所・地域

新羅  狼山の南

創建

680年ごろ

伽藍形式

双塔一金堂(薬師寺)

特長

一対の木塔を配した雙塔式伽藍である。この木塔の基壇には、四天王を表現した大型の畫塼を貼る

基壇

四天王寺式伽藍配置の源流は、中国の南北朝~隋時代の寺院に求められますが、仏教の故地・インドやパキスタン、新疆の伽藍配置とは異なります。仏教が後漢へ伝播してから後も、新たな仏教文化が波状的にもたらされ、中国で改変、定式化されたことを示します。

規模

 

 

 

 

講堂規模

 

仏殿

 

同例寺院

感恩寺の伽藍682 一対の三層石塔を配した双塔式伽藍

   


  慶北慶州排盤洞四天王寺は、統一新羅初期の文武王19年(679)に創建された寺である。「三国遺事」は「文

  武王時期に唐と戦争をした新羅が明郞法師の建議で狼山南側神遊林に道場を建てて文豆婁秘法を行って、唐軍

  隊を大きく退けた」という記録がある。

  四天王寺が護国寺院としてだけでなく密教寺院の役割も果たしていたとみられる。

  四天王寺址は木塔2基が配置された双塔式伽藍配置(双塔一金堂式)である。先に明らかになっっている神文

  王2年(682)に創建された感恩寺の伽藍形態と似ている。(ただし、感恩寺の塔は三層石塔である) 

  文化財庁国立慶州文化財研究所が2006年から継続してきた発掘調査で、東塔跡、東南回廊跡、中門跡、推定

  壇席跡(仏教儀礼を行う場所。これまでは、鐘楼および経楼と考えれれていた)等が現れた。

  講堂の右側では、感恩寺址のような長方形建物跡が確認された。

  

 伽藍配置でわかったこと。

  南回廊(22間)の中央に中門(3間×2間)がある。この中門と金堂(5間×3間)、講堂(現在未発掘状態だ

 し鉄道によって一部流失した可能性がある)が南北に1直線に並ぶ。金堂の両側に木塔が建てられていて、金堂

 と東西回廊(31間)を翼廊(9間)が連結している。講堂の右側で感恩寺跡のような長方形建物跡が確認され

 た。寺刹の中心建物の金堂と木塔の基壇は川石と土砂を交互に重ねて固めて積んだ特異な構造で築造されている。

 土砂だけ何回も反復して基壇を築造する百済の版築技法とは根本的に違う。

 それらをまとめると、添付のような伽藍配置になる。

            
              2-4 四天王寺ー1

           

 

 その他にも繊細で躍動感あふれる人物が表現された綠釉塼3種が、西木塔跡(2006年調査)に続き東木塔址で

 も確認された。この綠釉塼は木塔の基壇部を飾った面石に使われており、配置順でも基壇の階段を中心に人物の

 顔方向に合わせて、各面に6ヶずつ(3像×2種)全24ヶ(4面×6ヶ)が配置されて、木塔の四方を守る姿である

 のが明らかになった。そのほかに、調査区域では、国内で初めて現れた草花文が彫られた模様前石も出土した。


 

 

3)朝鮮半島の寺院伽藍配置一覧

 

上記の寺院を形式で一覧にすると下表の如きで、一塔金堂しかないと衣っても過言ではない。

 

地域

寺院

概要

形式

 

375

 

肖門寺・伊弗蘭寺

不明

 

 

393

 

平壌9つの寺

不明

 

 

400?

高句麗

定陵寺

平面が八角形の建物を中央に置き,その東・西・北の三方に堂宇

南方に中門を配置するという大伽藍

三金堂

仏舎利殿

478前

高句麗

上五里廃寺

八角形の建物

三金堂

仏舎利殿

478

高句麗

清岩里廃寺(金剛寺)

平面が八角形の建物を中央に置き,その東・西・北の三方に堂宇

南方に中門を配置するという

三金堂

仏舎利殿

538

約620

百済

定林寺址

中門と講堂を回廊で結び

金堂を囲う四天王寺式伽藍

金堂の東西に長い建物があった

一塔金堂

 

550頃

百済

軍守里廃寺

中門と講堂を回廊で結び

金堂を囲う四天王寺式伽藍

一塔金堂

 

553

566

新羅

皇竜寺

創建伽藍は単塔一金堂式

建伽藍は単塔三金堂式

三面僧房が中門の東西方まで延びて中門とは回廊で連結

塔と並列する一塔三金堂配置

一塔金堂

後に

一塔金堂

 

567

百済

陵山裏廃寺

 

塔の発願が567

中門と講堂を回廊で結び

金堂を囲う四天王寺式伽藍

一塔一金堂式の伽藍で

陵山里寺は講堂の両脇に建物が付く

一塔金堂

 

577

百済

王興寺

一塔一金堂式の伽藍であったが、塔の舎利函に昌王が24年(577)に建てたことが記されていた

一塔一金堂

 

580

620

百済

金剛寺址

中門と講堂を回廊で結び

金堂を囲う四天王寺式伽藍

一塔金堂

 

600

641

百済

弥勒寺址

回廊が金堂と講堂の中間で閉じる

日本の山田寺伽藍と同形式

一塔金堂

 

650頃

百済

東南里廃寺

塔がなく,金堂を中心にして中門と講堂を回廊で結ぶ形式

寺院址ではなく官属の建物説もある

無塔

 

679

 

四天王寺

金堂の前方左右に双塔を配する形式の二塔一金堂の配置  薬師寺伽藍

塔一金堂

 

 

 

4)飛鳥寺のモデルは、朝鮮半島には無かった。

 

 以上、韓国で双塔式伽藍が初めて見えるのは統一新羅時代(A .D.668)なので、650年前の寺院を探訪したが、百済時代の伽藍配置は彌勒思想によって建立された彌勒寺以外は全部単塔一金堂式伽藍配置である。

 

彌勒寺も中心伽藍は、単塔一金堂式である。王興寺を飛鳥寺のコピーとする説も有るが、平面、模型を見て専門家が

その様な説を唱えるのか理解できません。

 

廻廊の延長線上に金堂を配置する伽藍形式はありえないし、講堂の延長など他の用途であったとしか判断できず、飛鳥寺は百済の王興寺のデッドコピー等の説は、今様の○○人の発想でしょう。

 

朝鮮半島の主要な寺院の伽藍は、単塔一金堂式でそれも直線配置でそれが日本の四天王寺へと伝播したのは明白! 

 

             朝鮮半島には、飛鳥寺伽藍のモデルは無い!

 

飛鳥寺の伽藍は、蘇我馬子が百済だけの支援なら四天王寺式の直線配置を採用しただろうが、高句麗の支援も受けて

いたわけで、定陵寺、上五里廃寺、清岩里廃寺(金剛寺)の八角堂中心伽藍も尊重し、木造の塔をそこに配置した折衷伽藍と考えたい。蘇我馬子の自分の寺院であり、我が儘は充分通用したのであろう。

 

飛鳥寺は、蘇我馬子の独創的伽藍配置であり。三国からの伽藍配置を参考にした程度であったと考えたい。

 

 

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【参考資料】

 

        古代の寺院配置  李興 範

               日韓で違い 韓国研究者が通説を覆す指摘    2011年1月27日

 


 

 

  日本の仏教伝来

 


    ここでは、諸先輩の伝来時期の諸説を調査し、比較検討をして見ますが、難解なようです。

  先ずは、仏教公伝wiki を参照します。

 

前述の朝鮮半島からの仏教伝来ごとく、今後の記述では、

「仏像、経経、僧、仏寺」の『四点セット』が「仏教伝来」の受容条件・・・これを【ポイント】ととして

諸説を考察してみます。

 

 

1)仏教公伝の諸説

 

古来から有力な説として ①552年と ②538年の2説あることが知られており一般的に538年が有力とされる。

 

【説ー①】 552年(壬申)説 ・・・『日本書紀』  百済の聖王(聖明王)、仏像と経論を日本に献上

 

    欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流

    通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。

 

欽明天皇2年(552)、百済の聖明王は西部姫氏達率怒悧斯致契らを遣わして、釈迦.仏の金銅像一嫗、幡蓋若干、

経論若干巻を贈った。別に上表し、仏を広く礼拝する功徳を述べて、"この法は諸法の中で最勝であります。

解り難く入り難くて、周公.孔子も知ることが出来ないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提

を成し、例えば人が随意宝珠を抱いて、なんでも思い通りになるようなものです"   2点セットです。)

 

     とあり、これを聞いた欽明天皇は大いに喜んだ。とある。 

   ・その年が南都六宗の一つ三論宗で説く末法1年目にあたっており、それにあわせた可能性がある

   ・記事のなかに金光明最勝王経の一節を書きかえた作文がまじっている

    ことなどにより、信頼性が少ないとされているようですが、

 

  【ポイント】つまり、百済の聖王が仏像と仏典を贈り 仏法の優れたことを理解させているだけである。

        そして、仏僧が渡来したわけではなく、仏寺の建立支援もない。四点のうち2点だけに記述です。

 

 

【説ー②】 538年(戊午)説・・・百済の聖王(聖明王)、仏像と経論を倭に献上

 

    ・『上宮聖徳法王帝説』

     「欽明天皇の御世の戊午年(538年)に百済の聖明王が始めて仏像・経教・を度し奉じる。

                                 3点セットになっている。)     

 

    ・『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』:

     「大倭の国の仏法は、斯帰嶋(しきしま)の宮で天下を治められた天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)の御代

     に、蘇我大臣稲目宿禰が仕えてたとき、その七年戊午(538年)十二月に、海から渡ってきたのが始まり

     である。」とし、また、百済国の聖明王のときに、聖明王は、悉達太子像并びに灌仏の器一式、及び仏

     起を説く書巻一篋を渡して仰られた。「当に聞くところによれば、仏法は既にこの世の最高の法であり、

     貴国(倭国)もまた(仏法を)修行すべきであろう」2点セットです。)(太子とは釈迦の出家前の名) 

  

   『元興寺縁起』や『上宮聖法王帝説』が説くところで、これらの記事は『日本書紀』よりも古い史料にも

   とづいて書かれていると考えられ、当時の朝鮮半島の政治情勢からみても不自然ではないので、現在は

   538年の方が有力である。

     ・・・・・しかし「538年!」は欽明天皇の時代ではない、宣化天皇の時代である。

   ・・・・・欽明天皇の即位は540年で571年に崩御で、在位期間に戊午の年はない・・・

     安閑および欽明天皇の即位年に齟齬があることもあいまって、様々な説が提唱されている

 

【説ー③】 敏達天皇13年=584年・・・

 

   『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があり、

     更に、『日本書紀』にはもう一つ「仏教伝来」ともとれる記事が存在する。 

     「・・馬子宿禰・池辺氷田・司馬達人たちは仏法を深く信じて修行を怠らなかった。馬子宿禰はまた石川

     の家に仏殿を造った仏法の広まりはここから始まった。」「佛法之初自茲而作」

 

     しかもそれは百済からではなく播磨の還俗僧恵便からの伝授と記されている

 

   【ポイント】『日本書紀』では、552年『僧も仏寺』は贈っていません。

         『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』でも、538年に『僧も仏寺』も贈っていません。

     しかし 『上宮聖徳法王帝説』では、538年に、『僧を贈った』ことになっています。

     日本書紀より信憑性は高いとされる『上宮聖徳法王帝説』に記述されているのですから間違いなく

     538年には国家間で僧が渡来する約束があったのでしょう。 

 

       538年に、『僧を贈ったとの記述は他には無く これ以上の文献的な探求は出来ないようです。

                そして、『仏寺』の伝来記録は無い!

 

 2)仏教公伝538年以前の伝来

 

5世紀の中国、朝鮮半島の交流記録は、前後の情報と比較して少ないとされているが、日本人が朝鮮半島を往

来していた記録、貿易施設の遺構、金銅仏の渡来、418年説等が有る。

仏教公伝(538,552)以前に、伝来していた可能性は高いとされる史料、論文を紹介する。  

 

① 任那日本府(みまなにほんふ)の設置

 5世紀、東晋と宋から正式に朝鮮半島南部の領有を承認され、朝鮮半島に対して一定の影響力を持って、出先

 機関である「任那日本府」を設けていたことが、史料から解かる。又、全羅南道に11基、全羅北道に2基の前

 方後円墳が確認され、いずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立していた。

 ・『日本書紀』をはじめ、中国や朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す史料が存在

 ・『広開土王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されている

 ・日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土している

 ・451年、宋書倭国伝のなかで宋朝の文帝が倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督・新羅・任

  那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた記述

 ・478年、宋朝の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓

  六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述

 

  そのほか、5世紀には朝鮮半島で、日本の半島侵略的な出来事が多く確認されており、人物の往来はかなり

  頻繁に行われており、その時期に仏教の伝授があったことも充分考えられる。

 

 

  ① 難波館(なにわのむろつみ)(大阪難波)の開設 512年

    古墳時代から畿内の港として往来のあった難波津には外交施設として難波館(なにわのむろつみ)があり、 

    『日本書紀』には継体6年(512年)12月に百済武寧王の使者が調を貢献するとともに任那四県の割譲を求

    めて館に留まったとある。これが外国使節を宿泊させる客館の初見である。

    この時期には、仏教伝来の可能性は高い。

 

    又、外交施設の原型は、筑紫(現在の福岡県西部)にあり、魏志倭人伝の時代に遡るとされる。糸島半島に

    あった伊都国には「郡使の往来、常に駐まる所なり」と記された外交施設が存在していた。

    ただし施設名や場所についての記録は残っていない

 

  ② 渡来人による仏像信仰

     仏教は公伝538年より早く、渡来人が日本に伝えていた確証が有る。

       

      
        新潟・関山神社の菩薩立像、朝鮮三国時代の新羅仏

        宮城・船形山神社の菩薩立像、

        長野・観松院の菩薩半跏思惟像

        奈良・神野寺菩薩半跏思惟像

        和歌山・極楽寺の菩薩半跏思惟などは、

     

     一部の渡来人が秘かに仏教を信仰し仏像を安置していた。

     全国的に渡来仏像が散見されることは、その地の日本人に信仰が広まっていた可能性が有る。

   

  

  ③ 仏教伝来の時期が「418」年戊午の歳とする中小路説

 

   「倭国に仏教を伝えたのは誰か」古賀達也

                難解ですが、一読ください。

 

  『日本書紀』には九州王朝の歴史記事が盗用されているという、古田武彦氏が提起、論証された仮説です。

  その上で、推古32年条の観勒の記事のみを切り離して理解してみると次のように事態が整合してきます

 

   (1)インドから中国へ仏教が伝来して300年を経て、百済へ伝来した

      それは『後漢書』『三国史記』の記載通り67年から384年のことである。

  (2) 百済に仏教が伝来して100年である。したがって、384100484年頃の出来事である。

  (3) 日本国に百済から仏像・経典が伝来して百年未満(概数として70~90年とする)である。

    したがって日本国への仏教初伝は 48470~90394~414年頃である。

 

  この帰結もまた中小路説(418年仏教公伝説)とほぼ一致します。よって、百済僧観勒の記事は、九州王朝

  での5世紀末~6世紀初頭の記事とすれば、記事そのものの内容(1)(2)(3)が、国外史料が伝える仏教東漸記

  事と矛盾なく整合するのです。そして、おそらくは『日本書紀』編者により、欽明期以後100年未満に相当

  するこの推古紀に、本来九州王朝へのものであった表文が挿入されたのではないでしょうか。

 

  仏教伝来戊午年伝承の探求は、『隋書』イ妥国伝・『筥埼宮記』より伝来の地が北部九州であった。

  また『日本書紀』推古紀・『元興寺伽藍縁起』・『上宮聖徳法王帝説』よりその年次が418であったこと

  に行き着きました。

  そしてこの二つの結論の結接点として糸島郡『雷山縁起』の清賀伝承を発見しえたのでした。

 

   この説は、年代年次が100年以上の誤差が有ることを探求し、418年を導いている革新的な説で、

   この説の信憑性が高まれば、日本史の大幅な改定を余儀なくされそうです。


    2-4 観世音寺絵図   2-4 観世音寺配置図

     
                      観世音寺 
 

 

 ● 隣国の4~5世紀の仏教伝来の史実から、日本に伝来したのは、5世紀=「418年戊午の歳」の説が信憑性が

   高いと判断するが?

   又、九州に伝来したと言う説も次の法隆寺の再建、移転論の中でも興味有る説になっていると思われます。

 

● 「いずれにせよ上記の各説は一長一短があり、仏教公伝の時期は現在も確定しているとは言い難い。

 各説の共通点を総合した「6世紀半ば頃の欽明天皇代に百済の聖王によって伝えられた というのが最大公約

 数的な理解であろう。」というwikiの記述で、締めておくべきかもしれません。

 

● しかし、造寺工渡来の577年より早期に 仏殿建築の知識、情報が伝来又は持参されていた可能性は有ること

  を今後探訪してみます。飛鳥寺の創建時の史料などから推察します。

 

          

             「5、飛鳥寺と造寺工」へ続きます

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