FC2ブログ

寺社建築文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源と変遷、文化財の諸問題を探訪しています。 又文化財拝観資料も記載しています。
041234567891011121314151617181920212223242526272829303106

弥生時代の遺跡を探訪、神社本殿の起源?

3-3弥生時代の遺跡

 

 

3-3

   弥生時代の遺構(棟持柱の遺構)

 

         神社はじめに 伊勢神宮屋根  伊勢神宮

  

  いよいよ、神社建築の原型といわれている掘立柱と独立棟持柱のある遺構を探訪します。 

  そして、建築史家の先生の活躍も遺構の復元で、研究成果が見れるようになってきます。

 

 

1、弥生時代の画期

 

 

  ウィキペディアより

2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループは、炭素同位対比を使った年代測定
  法を活用した
一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだ
  とする説を提示
した。

これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじ
  まりが
約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前
  400年頃から、
後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行は従来
  通り3世紀中葉となる。
   

 

 

   まだ結論が出ていないようです。下表は、当ブログの提案年代です。参考まで。

             表2-2 弥生時代・古墳時代の画期・・・提案の時代区分

    一般的な日本史時代区分

 

      提案の時代区分

 

縄文

BC130BC4

12,600

村落創成時代

BC130-BC10

12,000

縄文

草創期

BC130~BC100

3000

原始Ⅰ

早期Ⅰ

BC130BC90

4000

 

早期

BC100BC50

5000

 

早期Ⅱ

BC90BC50

4000

 

前期

BC50BC35

1500

 

中期Ⅰ

BC50BC40

1000

 

中期

BC35BC25

1000

 

中期Ⅱ

BC40BC30

1000

 

後期

BC25BC13

1200

 

後期Ⅰ

BC30BC20

1000

 

晩期

BC13BC4

900

 

後期Ⅱ

BC20BC10

1000

弥生

BC4Ⅽ~AC3中

750

水稲農耕時代

BC10~AC3Ⅽ

1300

弥生

早期

BC4Ⅽ~BC3Ⅽ

100

原始Ⅱ

早期

BC10~BC6Ⅽ

400

 

前期

BC3Ⅽ~BC2Ⅽ

100

 

中期

BC6~BC2Ⅽ

400

 

中期

BC2Ⅽ~紀元ごろ

200

 

後期Ⅰ

BC2~AC1Ⅽ

300

 

後期

紀元~AC3Ⅽ中

350

 

後期Ⅱ

AC1~AC3Ⅽ

200

古墳(大和)

3Ⅽ前ー6Ⅽ後

350

都市創成期

AC3~AC6Ⅽ

300

 

     この600年の画期の変更をどう扱うのか、現在のところ不明です。

    弥生時代の始まりをBC4世紀とするのか、BC10世紀とするのか?
    そして、土器年代も変更されるのか?

 

      

                                      山本直人

  宮本一夫氏

   紀元前800 年頃の寒冷化にともない朝鮮半島南部から人びとが北部九州に渡来して水稲農耕がは

   じまったとし、弥生時代の開始年代が紀元前800 年頃になると考えている(宮本2009)

  今村峯雄氏

    日本列島における水田稲作の開始は紀元前900 年頃の可能性が高いとし、紀元前820 年頃に

    本格化した寒冷化とともに大陸から人びとが移住した可能性を推測している。

    さらに、紀元前600 年半ばから紀元前400 年頃までの約250 年間の温暖期に弥生文化が東へ

    波及することを指摘している(今村・藤尾2009)。

  藤尾慎一郎氏

    弥生時代の開始年代は紀元前10 世紀後半とする自説を再確認し、水田稲作の北部九州への伝

    播をこの時期の寒冷化にともなう現象としている。

    そして紀元前700 年の直前からはじまる温暖期に水田稲作が西部瀬戸内にひろがったことを指

    摘している(今村・藤尾2009)。

 

弥生時代の開始年代については二つの説に大きくわけることができ、一つは

  紀元前10世紀後半 と
する 藤尾慎一郎氏と
  紀元前900年頃  とする 今村峯雄氏で、もう一つは 
  紀元前800年頃  と考える宮
本一夫氏、紀元前8 世紀末とする甲元眞之氏である。

  筆者は北部九州における縄文時代の終焉年代が紀元前900 年頃になると考えており
  その裏がえしとして弥生時代の開始年代も紀元前900 年頃になると推察しているの
  で、藤尾慎一郎氏と今村峯雄
氏の考えを支持することになる。

 

 

  

  例えば、1000年前の年代評価は、炭素判定なのか、土器編年によるかにより、縄文晩期、
  弥生時代早期の判断が、個別遺跡ごとに異なってきます。
  そのため考古学を含めた歴史年代の修正は大変な作業となるのでしょう。
  
 

             以下の記述は、「一般的な日本史時代区分」で記述します。

              ブログ家屋文鏡図20141025  家屋文鏡 模式図

 

 

 

2、弥生時代の特徴

 弥生時代は、更に定住化が進みました。
 収穫の多少により貧富の差ができ、指導者階級と労働者階級と、身分の差ができ集団化していき
 ます。
それらにより弥生時代のポイントは、戦争が頻発してきたことです。

 集団化すると集落・地域間の戦争が頻発し 集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、山頂部に
 集落
を構える高地性集落などの遺跡が発見されています。

 弥生時代の住居は竪穴住居が大半を占めていますが、平地式住居や掘立柱建物の痕跡も出土して
 います。

 平地式住居は、具体的な例はきわめて少なく、掘立柱建物は例が多いのですが用途の確証はあり
 ません。
又、米を貯蔵する倉庫、神殿、物見やぐら等の説もあります。

 中期前半から中葉にかけて、掘立柱建物の倉庫が西日本一帯に展開し、弥生時代末から古墳時代
 初頭に
なると、総柱式の大型建物が現れます。しかし、何の用途であったかは、各種の論議が有
 るようです。


 いずれにしても、地下の痕跡は、遺構として発掘されて平面規模などのは確証が有るが、地上部
 は、確
証がなく住居なのか、倉庫なのか、祭祀用の建物なのか 今も推測の域を出ていないと言
 うことです。 

 

 

3、棟持柱についての文献

  下記論文をお読みいただければ、弥生時代の建築史が明快に理解できます。

考古学の先生が、建築史学を論ぜられているのです!。

 

  1)独立棟持柱建物と祖霊祭祀 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ 2009年3月

    著者 設楽 博己(したら ひろみ、1956年 - )

     日本の考古学者、東京大学教授。 群馬県生まれ。群馬県立前橋高等学校卒、1978年静岡大学人文学部卒、

     86年筑波大学大学院歴史人類学研究科博士課程(文化人類学専攻)単位取得退学。88年国立歴史民俗博物館考古研究部助手、

     96年助教授、2004年駒澤大学文学部助教授、06年「弥生再葬墓とその社会の考古学的研究」で筑波大学博士(文学)、

     07年教授、2010年東京大学人文社会系研究科考古学研究室教授。

 

    結びのみ転記します。

 

 

おそらく,日本列島の本格的な農耕を営む地域では,『魏志』高句麗伝や韓伝に記されたような,

  祖先を中心とした農耕儀礼をおこなっていたのであろう。

  それは,中国に端を発した
祖霊祭祀が,日本列島にも及んでいることを示してもいる。
  ただ,その影響がよく現れているのは北部九州まで
である。

 

北部九州では,墓に伴う大型建物の出現は弥生中期初頭にさかのぼる。武末純一がいうように,

これが中国の影響を受けたのであれば,楽浪郡設置のはるか以前,戦国時代にそれが及んだと
  考えざるを得ない。

 

一直線上に墓と建物を配置するようになる中期後半に漢文化の影響を推測するのはよいが,それ

以前における宗廟的性格の大型建物成立の契機については,自生説を含めて検討する必要があろう。

墓で祖霊祭祀をおこなう風習が希薄な近畿地方では,居住域に祖先の霊を招いて祭っており,南関

東地方では中国の影響とは別に,縄文文化の伝統により墓でおこなっていた祖先の祭りを独立棟持

柱建物が継承した。

 

その三者のありようは,独立棟持柱建物の類型の違いや系譜,墓とのかかわり合いなどからしても

一様ではない。さらに,類型の変遷過程や規模の変化,相互交流や漢文化の影響の分析にもとづい

て,独立棟持柱建物の性格の変化が共同体的な性格から首長の秘儀的性格へという流れのなかにあ

ることを明らかにし,墳丘墓の形成や王権の形成と重なり合うことを論じた。

 

本稿のきっかけになったのは,広瀬和雄によって墓に伴う独立棟持柱建物が明らかにされたことに

よる。広瀬はそれを祖霊祭祀にかかわる建物と捉えたうえで,さらにカミが宿る神殿である,とい

う自説を補強している。

神観念の形成についてほとんど持論のない筆者にとって,結論としては広瀬から進んでいないどこ

ろかその前半の段階にとどまっている。

 

しかし,類型化と変遷をあとづけての結論であったので,広瀬の前半の結論,すなわち独立棟持柱

建物の役割のひとつは祖霊祭祀機能であった,という考えを補強する素材にはなったかと思う。

役割のひとつ,という意味は,独立棟持柱建物には並列した例もあるので,その機能が一つに限定

できるかどうか,慎重に検討する必要があるからである。

 

祖霊祭祀的役割を考えるのはよいとしても,次のような問題もある。漢代の宗廟制度では,宗廟に

は木主という祖先の霊が宿る位牌のようなものが置かれた[金子1979:1500]。

独立棟持柱建物が漢文化影響によって宗廟的性格を強めたとすれば,木主に類するものが必要になる。

 

金関はそれを木偶に求めたが,春成の批判の対象になった[春成1996:17]。稲吉角田遺跡の土

器絵画は,独立棟持柱建物ではないが,高床建物を含む2棟の建物の傍らに樹木を配し,枝に2 つ

何かを吊り下げた様子を描く。

  吊り下げられたものが銅鐸であるとの考えはすでに提示されており,
この絵画が全体に祭儀に
  かかわる情景を描いたとする点も間違いないのであれば,常時建物に入れら
れていた銅鐸が,
  祭儀のときに取り出され,打ち鳴らされたとみるのも一案である。

 

弥生時代の掘立柱建物が集中する区域には,独立棟持柱建物のほかに,別の種類の掘立柱建物が伴う

例が多い。祖先霊を祭る建物以外にも,あるいは天・地霊を祭る建物が存在していたかもしれない。

別の角度からそれぞれの建物の役割を明らかにしていくこともまた,今後の課題である。

 

 

 

 

2)土器に描かれた建築

 

  古代の絵画表現について-烏丸綾小路遺跡出土の絵画土器  
                            
京都市埋蔵文化財研究所 中谷 正和

 

      古代土器絵図  
      

 

出土した土器に、これだけの絵が書かれていました。建築史の資料として有用です。

そして何故、逆台形の屋根が半数以上と多いのでしょうか、21、23、25、29は不可思議な形
  状です。

棟より上部に屋根材が突出する千木もどきは何なのか、絵が稚拙なのか、・・・不明です。

 

この屋根形状の類型的研究を建築史学として探求すべきではないでしょうか?


 

 

4、弥生時代の棟持柱建物の特徴

 

1)掘立柱建物の用途 
 ① 掘立柱の直径による用途の違い
  縄文時代の直径90cmを超える柱は、三内丸山遺跡(青森市)、桜町遺跡(小矢部市)、

  直径90cmの丸太を半截(断面半月形)した柱が真脇遺跡(能登町)などに確認されています。
 ・70cm以上の直径で高さ3~4mの住居、倉庫を建築する必然性は少ないと思われます。

 ・10m以上の高さが必要であった用途の神殿・祭祀施設、物見櫓、灯台等のシンボリックなも
  のと考え
られ、特に夜間、集落への帰還のため、灯台的な機能は重要であったのではないか
  と思います。
しかし、首長の権威を示すため、わざわざ太い柱を使ったとの説もあいます。

 ・40~60cmの直径の建物は、少し重いものを貯蔵する穀物倉庫の機能
 ・20~30cmのものは、住居、集会場、作業場の屋根機能のみと考えるとスムーズです。

② 独立棟持柱をもつ建物の用途
  本来の棟持柱は内部の柱で棟の支持機能です。外部で独立して棟を支えることが特例です。

  独立棟持柱をもつ建物は、掘立柱建物のなかでも特殊な構造を備えた建物で、祭式・儀礼に
  関わる建
物であった可能性が高く神殿・祭祀に関わる施設、首長の居館とする見解もあり
  ます。

 

1)埋葬儀礼 霊祭祀機能:「もがり」説・・神殿、拝殿、高殿神殿(高殿祭祀) 

2)豊饒儀礼 高床式倉庫:・・・・・・・・穀物倉庫・・春から秋は神殿 春まで穀倉

3)首長居館 高床式住居:・・・・・・・・纏向遺跡    

 

結局、上記のごとく資料を探訪しましたが、用途の特定はできなかったことになります。

1000年以上の期間中、時期、地域で用途は変化していったのかもしれません。       

 

 

2)独立棟持柱の出現 
 独立棟持柱は何故発生したのか、何故2本の柱を追加してまでも採用したのか、そこの理由
 が明快なら
用途も判明するのかもしれません。この点を追求した資料は、中々見つかりません。
 想像します。

 ①建築期間が短くなる・・・太い棟持柱2本を立て他の部材が細く済み簡易に工事ができる。
 
②室内に柱が無くなる・・・桁行3間以上の場合に内部の柱を不要となる。
 ③耐風,耐震性の向上・・・棟持柱を傾斜させることにより水平力の耐力を上げる知恵。
 ④外転び屋根の支持柱・・・切妻屋根の端部で棟が跳ね出す形状に対し支持する機能。

 通常の掘立柱の建物と混在している例が多く、又、地域性等の特徴も無く「独立棟持柱」が
 建築されてい
ることから、その集落において特別な役割を果たしているのかもしれません。
 集落の中心にあるもの、外周に不規則に存在するもの等もあり、墓域との関連性も論議され
 るなど用途、
目的は明確になっていないようです。

 ⑤建築的な流行である・・東南アジア等で「独立棟持柱」類似事例がありそのデザインが伝播。

        
                   インドネシア・トラジャの民家
 
 西日本にしか「独立棟持柱」は存在していないことは、九州での渡来人の活躍があったのかも
 しれません。
 弥生時代後期において「独立棟持柱」の建築様式が、西日本全域に伝搬することは素晴らしい
 ことです。

 掘立柱の建築において「切妻屋根の端部で棟が跳ね出す形状」が、銅鐸、土器絵画、家型埴輪に
 あるデザ
インは建築機能的に疑問を感じます。
 ・何故垂直の断面でなく、傾斜した突出した頂部妻面が機能的に良いとするのか?
 ・単なるデザインなのか?
              実物の建築とは違い、誇張されたデザインなのかもしれません。

 特に、埴輪の形状は葬祭者への副葬品
でありその人の住居、居館であったと推定されますが、
 記念碑(モニュメント)的なものであるとも考えられます。
 

 


  

 

5、弥生時代の代表的遺跡

 

① 弥生時代 中期 紀元前400年頃

 

遺物名

  稲吉 角田遺跡の土器絵画

場所

米子市淀江町

時代

弥生前期 紀元前400年

指定

県指定保護文化財

解説

2棟の内、

切妻屋根の家屋は住居と倉庫を組み合わせた家屋敷 

もう一棟は、寄棟の高床倉庫の説、古代の出雲大社の原型であるという説がある

絵画

 
              ブログ稲吉角田遺跡の土器絵画20141025 
  

 

 

この絵の解釈には各説があり、決着していないようです

・一般的な説

 a、鹿        鹿は卜骨(占い)に用いられたもの

 b、太陽       太陽祭祀は太陽と神庫と鏡の祭具の三個の絵
 c、植物を表現銅鐸が吊るされた樹木  祭具は二枚鏡扶桑樹をモチーフ          

 d、切妻屋根の家屋  祖霊像を納めた神殿    高床倉庫    祭具を納めた神庫

 e、寄棟の高床倉庫  祖霊像を納めた神殿    神を祭る祠   遥拝所

 f、ゴンドラ形の舟  鳥装の漕手・穀霊を運ぶ舟 鳥装の人を乗せた舟鳥 鳥髪で天の土舟

やっと神、神殿、神庫なる文字が出てきました。太陽神、祖霊信仰などで建築の活用が?

 

・松江市の田和山遺跡(弥生時代前期末~中期後半)の祭祀をもとに描かれた可能性がある。

 

田和山幻想 稲吉角田遺跡の土器絵画  

 

 

 

 ② 弥生時代 中期 紀元前200年頃

 

遺物

 袈裟襷文銅鐸  けさだすきもん

場所

東京国立博物館

時代

高さ42.7cm 

弥生時代(中期)前2-前1世紀

指定

国宝

発見

江戸時代に讃岐国(現在の香川県)で発見されたと伝える銅鐸

特長

切妻の独立棟持柱高床式建物。

 

                       
                               ブログ袈裟襷文銅鐸20141025

 

 

 

 

遺跡名称

 唐古・鍵遺跡

(からこかぎ・いせき)

所在地

奈良県磯城郡田原本町大字唐古

指定

1999年国史跡

歴年代

BC2Ⅽ  2200年前

時代区分

弥生時代中期初頭古墳前期初頭

遺構数

 

形式規模

 

年代判定

 

遺跡規模

42万㎡

調査年月

昭和12年から

遺構概要

最盛期には東西・南北ともに約400mを測る居住地は何重もの大規模な濠に守られていた。内濠は幅10m・深さ2mを測り、外方には幅5m・深さ1.5mの濠が幾条もつづく。

 

城砦と見まがう姿の集落の総面積は約40㌶。これに墓地等の関連遺跡の推定範囲(北の清水風遺跡から東北の法貴寺遺跡)を含めれば、面積は100㌶近い。

 

その規模は佐賀県吉野ヶ里遺跡や、中国史書にみる北部九州の弥生時代の国の中心集落である一支国の原の辻遺跡(長崎県壱岐)、奴国の須玖(すぐ)遺跡群(福岡県春日市)、伊都国の三雲(みくも)遺跡群(福岡県前原市)などに並ぶ。

弥生時代社会における唐古・鍵遺跡の力の程がうかがわれる。

 

前期後半には一都の集落に環濠がめぐらされるようである。

中期になると,幅釣10mの巨大な環濠を径400mにわたってめぐらせた舵機簿集落へと発展する。この環濠の外側にはさらに3~5条の環濠がめぐり,幅100~150mの環濠の帯を形成している。

中期後葉から後期にかけては,この環濠帯は幅150~200m程度にまで拡大し,集落が最も大規模になったと考えられる。この時期には,青銅器の鋳造に関連する遣物が集落の東南部から出土しており,付近に工房の存在が推定される。

 

弥生時代の末から古墳時代の始めにかけて,環濠は認められなくなり,集落は衰退したものと考えられる。

 

特徴

1.大型建物跡につい

 国内最大級の環濠集落跡、唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町、国史跡)で、弥生時代中期

 中ごろ(紀元前2世紀)の高床式大型建物遺構が見つかる。

 柱の直径は80cmあり、武庫庄遺跡(兵庫県尼崎市)出土の柱に並び弥生で最大。

 唐古・鍵遺跡は、中国の漢書地理志が伝える邪馬台国以前の「百余国」の有力候補と

 され、前3世紀末-前2世紀初めに環濠を巡らせ大集落が成立したと考えられているが、

 その時期の大型建物遺構が見つかったのは初めて。

 

 近くでひすいの勾玉なども出土した。町教委は「補修跡があるから神殿ではなく、首長

 の館など中枢施設だろう。弥生集落の核心部分を解明する重要な資料としている。

 遺構は遺跡のほぼ中心で見つかり東西m、南北13.7m。建物の周囲だけでなく内部にも

 柱を立てた総柱式で3列、23カ所の柱穴が見つかった。うち18カ所は柱の下部が残っ

 ていた。

 柱は直径45~80cmで、清水寺(京都市)の舞台を支える柱に匹敵する太さ。

 最も太い柱は長さ1m以上あり、町教委は「かなり高層の建物だった可能性がある」と

 している。東側に並んだ柱穴のうち3つは浅く、補修のために立てた添え柱と判断した。 

 建物は、柱 穴から出土した土器から、弥生時代中期中葉(約2150年前)に建てられた

 と考えられている。

 直径約60cmのケヤキ柱の独立棟持柱をもたない長方形の高床式建物跡

 (弥生時代中期初め)も、1999年に発見されている。

 

2、楼閣の復元  (空想の復原建物  根拠は土器の絵のみ)

 復元について第47次調査で出土した絵画土器の「楼閣」をもとに、1994年、唐古池の
   西
南隅に復元しました。

 唐古池の西南隅に建てたのは、戦前の発掘調査の際に弥生時代の遺構が完全に失われてお

 り、遺跡の保存上問題がないと判断されたためです。

復元楼閣の高さは12.5m2階建で4本の柱は直径50cmのヒバ材を使用しています。

平面プランは4m×5mです。屋根は茅葺きで、丸太で放射状に押さえています。

壁は外面 が網代壁、内面が板壁です。 

 

 唐古・鍵遺跡の建物に特徴的な渦巻き状の屋根飾りは藤蔓で作り、梯子は刻み梯子で復元

 しています。

 土器に描かれた屋根の上の逆S字状の3本の線は渡り鳥と解釈し、木製の鳥を東西両面に

 それぞれ3羽ずつ設置しています。

 

HP等

唐古・鍵遺跡  wiki    



        唐古・鍵遺跡大型高床建物

                  唐古・鍵遺跡大型高床建物


 1)独立棟持柱長方形の建物    

● 唐古・鍵遺跡大型高床建物遺構のコメント   

 森浩一・同志社大名誉教授(考古学)

      唐古・鍵遺跡は国内で3指に入る大規模な弥生遺跡だが、知名度に見合った建物が出て
  いなかった。
70年近い調査の中で画期をなす成果といえるだろう。
  遺物だけでなく、遺構からも
国内を代表する弥生遺跡であることが裏付けられた。

 

 金関恕・大阪府立弥生文化博物館長(考古学)

  倉庫や会議、宗教行事など、多目的に使える象徴的な建物。南側の工房エリアに対し、
  北側は『聖
なる空間』だったのでは。巨大な柱材を運ぶには大変な労力が必要で、きちん
  とした計画があった
ことは明らか。

 

 宮本長二郎・東北芸術工科大教授(日本建築史)

  柱穴の深さが1.5mなら建物は6前後の高層になる。直径80cmという必要以上に太い
  柱は権威
を象徴しようとしたのだろう。

 

  資料 唐古・鍵遺跡大型建物跡SB-1201の建築  宮本長二郎

 

  寺沢薫・奈良県文化財保存課主幹(考古学)

  (権威を高めるため)あえて太い柱で建てることに意味をもたせたのだろう。

   この大型建物跡は大集落の中心部の中でも端の方ではないか。

   唐古・鍵遺跡には、さらに重要な建物があっただろう。楼閣もどこかに眠っているはず。

  石野博信・徳島文理大教授(考古学)

  周囲には今回の大型建物以外の柱穴跡が多数見えている。おそらく近くに別の大型建物が
  あるはず
だ。
  弥生時代中期中ごろから大型建物が
100年前後、一つの区画内で場所を少しずつ変えて
  継続し
て建てられたのだろう。
  建物と同時期の土器がたくさんあり、日常的に使った施設だろう。
  首長居宅の一部が見え始めたと言えるのでは・・・・・・いよいよ本丸に近づいてきた。

 

 

2)楼閣の復元
 「楼閣」は巻き込んだ屋根飾りが付いているので一番格式の高い建物であることが推測できる。
 建物の絵を描いた土器は西日本の各地で46例見つかっており、そのうち15例がこの遺跡から出
 土し
た土器で、屋根飾りを付けた建物の絵はこの遺跡で6例、隣村の清水風(天理市)で1例あ
 るのみ。
 


        唐古・鍵遺跡 楼閣復元

       

唐古・鍵遺跡が繁栄していた頃、研究者のなかには、唐古・鍵遺跡が中国大陸と関係があるとの

判断があったのでしょう。
 しかし柱跡もなく、土器の絵のみで楼閣として復元する暴挙、観光目的以外の何物でもない。
 

  探査力が不足で、復元案の設計者は判明できませんでした。県かもしれませんが? 



③ 紀元前52年頃 

 

遺跡名

 池上・曽根遺跡

場所

大阪府和泉市池上町と同泉大津市曽根町

時代

弥生時代中期後葉 (紀元前52年頃)

指定

国指定史跡    wiki

遺構

近畿地方屈指の大規模な弥生時代の巨大環濠集落集落:

南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がる遺跡の総面積は約60万㎡。和泉市・泉大津市にまたがり、うち約11.5万㎡が昭和51年(1976)に国史跡に指定。

特長

東西17m、南北7m、面積約135m²の最大級の独立棟持柱の高床式建物跡

建物を支えていた直径70cmヒノキ柱の基礎部分25本が腐らずに出土。

柱の間隔は1.8m、長辺の中央部2.3m前後。土器編年では弥生時代中期後半であるが、柱の1本を年輪年代測定法で調査の結果、紀元前52年に伐採されたことが判明。

 

  

1996年には池上曽根遺跡から出土したヒノキ材が紀元前52年の伐採と判定された。この池上曽根遺跡は弥生前期から中期を中心とした大環濠集落で、中期の中頃から後半に最盛期があり、出土土器は弥生中期末の第Ⅳ様式後半で紀元後50~100年の遺跡と見なされていた。

しかし、大型木造建物の柱(ヒノキ材、年輪248層)は紀元前52年の伐採と判定され、
土器年代での通説より100~150年も繰り上がった。 

 

         

       a17池上曽根遺跡20140809

      池上・曽根遺跡の棟持柱付き高床建物復元案  2007年  井上章一

            

                復元については、5-6遺構の復元 参照して下さい。

 

 

④ 弥生時代 後期  紀元50年頃から250年ごろ

 

遺跡名

 青谷上寺地遺跡 あおやかみじち

場所

鳥取市青谷町青谷

時代

弥生時代中期後半

指定

2008年(平成20年)国史跡

遺構

1.5km四方の青谷平野の中央部に位置し、当時の地形の高低を利用した遺構が残されている。地形の高かったところでは無数の土坑群やピット群が検出されているが、周辺の低湿地部一部水田域を確認している。

いずれにおいても厚い遺物包含層が形成されており、複数の遺構面が介在する。

古墳時代前期初頭に突如として姿を消す。出雲国家の衰退

 

掘立柱建物や護岸施設、水田跡を検出

・遺跡の東側の溝では弥生時代後期の100人分を超える約5,300点の人骨が見つかったが、うち110点に殺傷痕が見られた。また2点に脊椎カリエスによる病変が確認され、これは日本における最古の結核症例である。

・日本で初めて弥生人の脳が3人分発見された

・120cmほどのモミ製の盾から緑色顔料(緑土)が確認された。

 これは東アジア最古の緑土の使用例である

特長

遺構の特長は、杉の板材を用いた護岸施設である。遺跡の南東部で検出された弥生時代中期後半の護岸施設には長さ260cm・幅70cmの巨大な板を数枚立て並べたうえ杭で固定していた。

後期になると地形の高い範囲を取り囲むように溝がめぐらされているが、ここには矢板列を幾重にも打ち込んでいた。こうした護岸施設の中には建築部材を転用したものが含まれている。

 

青谷上寺地遺跡の特徴は、建築部材が多く発見されていることです。

柱、梯子、床板、垂木など建物の各部材が揃っている。

当時の建物復元に豊富な情報を提供していいる。

さらに7 mを超える柱がありから地上5m以上の高層建物の存在も明らかとなる。


● 参考資料

 

 ・青谷上寺地遺跡 建築部材DB      鳥取県HP   素晴らしい整備状況です。

 

 ・青谷上寺地遺跡 「楼観」の復元CG  鳥取環境大学 浅川滋男

   

  検出された7000点の建築部材から、地上部分の形状が確証の高い復元案が提示できる
  初例です。
鳥取の地元の大学での調査研究の成果です。

 

  三内丸山、吉野ヶ里、唐古・鍵の遺跡で、柱穴のみ検出されていないのに、空想で創造する
  観光目
的の復元ではない、根拠のある復元設計図、木材加工手順、木工器具で明確な建物復
  元を実現した
のです。
  不明解なところは創造しないこと・・・・・これを原則にしたいのですが?
       
  
           

 


遺跡名

 妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)

場所

鳥取県西伯郡大山町富岡・

妻木・長田から米子市淀江町

時代

弥生時代後期~中期~古墳時代前期  前1世紀後半~後2世紀

指定

1999年12月22日  国史跡

遺構

国内最大級の弥生集落遺跡。遺跡の面積は156ヘクタールにもなり、これは発掘当時国内最大級と喧伝された吉野ヶ里遺跡の5倍にもおよぶ大規模なものである。

特長

竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出 竪穴住居は、全部で700ぐらいある。

小規模:直径3-6m深さ1mぐらいで外から見ると屋根しか見えない。土屋根と推測

大規模:直径6-8m、深さ0.5-0.7mぐらいで 外壁が見える。草葺き屋根と推測

 

さらに大型建物のそばには先に述べた大きい竪穴住居が必ずといっていいほどある。

これこそ有力者の住宅であろうと考えられている。

3世紀中頃~4世紀ぐらいまでにかけて有力者も竪穴住居に居住していたと思われる。掘立柱建物跡も500棟以上

 

松尾頭地区では,破鏡をともなう直径6mの大型の竪穴住居と大型掘立柱建物が近接して見つかっている。

 

妻木山地区でも大型の掘立柱建物が見つかっている。

掘立柱建物が集中する妻木新山地区は倉庫が建ち並ぶ貯蔵空間であったらしい。

貯蔵施設としては袋状になった貯蔵穴も数多い。

また洞ノ原地区の平野に面する西端には,2重の環濠をめぐらし径約75mの区画をもうけ,なかに狼煙場や物見櫓とみられる建物があり,遺跡の西方を見張る施設が設けられていた

復元

洞ノ原(とうのはら)10号掘立柱建物

東西方向に2本南北方向に3本、併せて6本の柱が不揃いに並ぶほぼ正方形の建物。

倉庫と推定される建物とは柱配置が異なること、墳丘墓群に向かって建てられていることから、先祖の墓を祀る建物ではないかと推定される。棟持柱を持つ高床建物として復元しています。 大きさ:長辺2.9m、短辺2.8m、面積約8㎡

 
 

    妻木晩田遺跡
                    妻木晩田遺跡
   
                               

      高床倉庫(掘立柱建物) 青谷上寺地遺跡で出土した建築部材を使って復元。

     山陰地方遺跡地図
           山陰の弥生時代  島根県作成の資料です。

遺跡名

 吉野ヶ里遺跡(よしのがり)

場所

佐賀県神埼郡吉野ヶ里町

時代

紀元50年頃から250年ごろ

指定

国営吉野ヶ里歴史公園  wiki

遺構

弥生時代前期初頭に小規模な環壕集落が丘陵南端に形成され、

  前期には3ヘクタール、中期には推定20ヘクタール超、

  後期には40ヘクタールを超す大規模な環壕集落へと発展したことが判明し、

後期後半には望楼を備えた環壕によって囲まれた特別な空間(北内郭・南内郭)

の存在が確認されている。

詳細は、HPでどうぞ

 

 

復元建物紹介

 

復元されているのは、環濠、竪穴住居、高床住居、物見櫓、柵、逆茂木、高床式倉庫、墳丘墓などである。多くは柱の跡や木材が遺構として残っており、これをもとに復元されている。

遺構の保護やさらなる発掘のため、もともとあった場所から異なる場所に復元されたものもあるが、盛り土をして遺構を保護した上で真上の同じ場所に復元されたものもある。

 

復元の考え方・経緯等  地上はすべて、創造、仮定の産物、確証は柱穴のみ

            観光名所を目的に、建築史家も参加して決定している。



          グラフィックス3吉野里     

      ブログ吉野ヶ里遺跡20141025



⑤ 2世紀

 

遺跡名

 伊勢遺跡   いせいせき

場所

滋賀県守山市

時代

弥生時代終末期から古墳時代前期初頭

指定

国指定史跡

遺構

滋賀県南東部,野洲川が形成した標高100m程度の扇状地の微高地上に営まれた弥生時代後期を中心とする集落跡。1~2世紀後半

 

弥生時代後期では最大規模を誇る大型環濠集落遺跡

伊勢遺跡は、滋賀県守山市伊勢町から阿村町にかけて発見された弥生時代後期の約30ヘクタールに及ぶ大規模な遺跡で、弥生後期としては国内最大級です。

 

弥生後期、近畿地方では、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散するなかで、伊勢遺跡のように巨大化する遺跡は稀です。 

さまざまな形式の大型建物が計13棟も発見されており、それらが円と方形(発掘はL字形の部分)の組み合わせて計画的に配置されています。

 

直径220mの円周上に等間隔に配列された祭殿群、中心部には方形に配列された大型建物がならび、柵によって囲われています。そばには楼観が建っています。 

大型建物がこれだけ集中して見つかる遺跡は他にはありません。 

建物の型式・配列から見て、巨大な祭祀空間が存在していたと考えられています。  

 

このような大規模な遺跡であるにも関わらず、大勢の人たちが日常的に生活していたような痕跡が見当たりません。大型建物群や周辺の溝からは生活遺物が出てこないのです。その当時の墓地も見つかっていません。このような事実からも、この場所が特殊な位置づけの遺跡であることが推定されます。

 

中央部の建物群は、魏志倭人伝に【宮室楼観城柵厳設】と書かれている「卑弥呼の居処」と似た構成となっています。 

このような建物群からなる遺跡は、卑弥呼が倭国王となる前段階を知る上で、全国的に見ても非常に貴重であることから、平成24年1月に国史跡に指定されました。  

 

特長

●独立型棟持柱付掘立柱建物

後期中葉には大型掘立柱建物3棟(①桁行4間・梁行2間,②桁行5間・梁行1間,③桁行3間・梁行1間)がL字状に配置され,さらにそれを区画する柵が確認されている。

その周囲からも大型掘立柱建物が弧状に配置された状態で発見されています。

これらの建物は弥生時代後期の大型建物で、各々は梁間1間、桁行5間(4.5mx9.0m、床面積40.5㎡の規模をもつ、独立棟持柱を持つ掘立柱建物です。

 

●大型竪穴式建物

2003年2月に検出された建物は、一辺が13.6mx13.8m、床面積が約187㎡に及ぶ国内最大級の規模の大型竪穴式建築です。床面から出土した土器から弥生時代後期後半の住居跡と推定され、注目すべきはその床と壁にあります。

 

先ず深さ80cm以上掘込み、次に厚さ約25cmの粘土を床面に貼り、その上面を焼いて整え、さらに約8cmの精良な粘土を貼り高温で焼き固めています。

こうした床を焼床(やきどこ)といい、従来にはなかった建築工法です。

この床にはさらに、直径2cm程の穴が多数、開けられていた。 

一方、壁際には40cm×30cm、厚さ約8cmのレンガと思われる建築部材が少なくとも5個以上見つかっている。

日本で出土した焼成の最古のレンガは白鳳時代の7世紀後半とされていましが、その歴史を500年さかのぼる発見です。 

 

 

伊勢遺跡HP


     伊勢遺跡      

               建築史家 宮本長二郎氏が復元建物の構想をしている。

 

 ⑥ 3世紀

 

遺跡名

 纒向遺跡   まきむく

場所

奈良県桜井市

時代

3世紀

指定

国指定史跡

遺構

纒向遺跡は同時代の遺跡の中では類を見ない広大な面積を有することや、他地域からの搬入土器の出土比率が全体の15%を占める。

特長

● 柱材はすべて抜き取られ他に転用されていたが柱跡から推定して直径約30cm

 前後の柱が南北方向に4.8m間隔で東西方向に3.1m間隔で建てられていた。 

● 屋根を支える主柱の間隔が非常に広いため、南北方向の柱の間には床を支える細
 い
束柱(つかばしら)の穴があった。そのため、ここに存在したのは高さ10m前
 後
の掘立柱式高床建物だったと推定された。 

● 実際に発掘された建物跡は南北幅が19.2m、東西幅が6.2mだが、後世に柱穴
 が削
られた西側も含め、東西幅は倍の12.4mだったと推定された。この場合、床
 面積は
 約238㎡となる。 

● この大型の建物は、今までに確認されている3棟の建物や柵列と共に東西方向の

 同一直線上で南北対称となるよう計画的に配置されていた。

 しかし、方位はいずれも真北に対して西に5度ほどふれている。 

●大型建物跡の東端が方形周溝墓のものと思われるL字形の溝で壊されており、その

 溝から3世紀中ごろの庄内3式土器(240270年ころ)が出土した。

 土器の年代
から大型建物は3世紀前半に建てられ、3世紀中頃まで存続したと思わ
 れる。 

 

屋根は棟持柱で支えたのではなく、束柱を除くすべての柱(径約32cm)で支えたものと思われます。そうすると、使用された柱の太さや数、その間隔などから建物全体の強度に問題が生じるところから、実際には出土していない西側二列の柱列を想定し、幅も四間(12.4m)に広げ、想定復元図が入母屋式になる。

参考

纒向遺跡 第一六六次調査について

纏向遺跡研究センター

復元

推定「卑弥呼の館」の復元をめぐって



            纒向遺跡浅川案 
                               鳥取大学 浅川教授 復元図

                          
   纒向遺跡黒川案

                        神戸大学 黒川教授 復元模型
 

   復元案は、いずれにしても建築史の先生の想像力によるもので、これだけの差が出る。  


●参考資料  纒向遺跡建物A・B・Cと塀・門の復元・・・鳥取大学 浅川教授

  遺構解釈と平面の復元: 
  建物Cは建物D(超大型建物)の背面にあたる西側で検出された遺構である。トレンチ掘りのため、柱穴が部分的
  にしか確認されていないので、全体
平面は不明だが、近接棟持柱をもつ梁間2間の建物である点は確定している。

  中軸線に対して対称であると仮定すると、桁行3間(7.8m)×梁行2間(5.3m)に復元できる。

  現状では中央部が発掘調査されていないので、床束の存否は明らかでない。よって
高床か土間が判断しかねるが、
  今回は建物Dとほぼ同じ床高の高床建物と
仮定して復元を進めた。中央間が2.4mと狭く、脇間が2.7mと広いの
  で、中央間に窓を配置し、入口は建物Dとの往来を重視し、建物の左右妻側に設けた。
 

  上部構造の復元 
  モデルとした家形埴輪は大阪府玉手山古墳(4世紀後期)、大阪府美園1号古墳(4世紀末)など。
  とくに玉手山古墳の埴輪は切妻造妻入であり、ケラバの出や妻飾をおおいに
参照した。

  軸組・小屋組の復元方法は建物Dと同じなので割愛する。青谷上寺地材からは新たに
連子窓を採用。連子窓の外側
  に突上戸(板蔀)を併設。突上戸(板蔀)は出雲市の三田谷Ⅰ遺跡のディテールを参照。奈良時代の材でやや進化
  しているが、同じ軸受材は青谷上寺地でも出土している。



       纒向遺跡建物Cの復元
 

 
 

⑦ その他の遺跡

 

 長瀬高浜遺跡の高床式建物跡

 

 2.5mの柱穴が4本検出され、古墳時代、弥生時代どちらか論議があるようです。

 稲吉角田遺跡の線刻画の建物と類似するようにも見えます。 
   建築史家の調査研究はみあたりません。

 

              北海道・北東北の縄文遺跡群  世界遺産登録の予定です。

 

 

    これから、日本建築史の始まりです? 神社、寺院建築の起源探訪に!

 

 

 

カテゴリ
プロフィール

masatias

Author:masatias
30年続く寺社めぐりのメンバーです
<TIAS>グループ名称
Improvement of a spirit boundary
by Temple and shrine =<TIAS>

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

訪問者
ブロとも申請フォーム