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寺社建築と文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源、歴史、文化財の紹介と文化財の問題点を探訪しています。 常時更新中です!
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カテゴリー  [ 3-4 遺構の復元建築 ]

古代遺跡の復元建物の問題点

3-4 遺跡の復元建物の探訪


 

   3-4      遺跡の復元建物の探訪




 この記事は、神社建築の起源を探訪する目的ですが、遺跡の遺構から建物を復元する際の専門家の方々の意見、
 考え方が大変参考になります。
 


 今回、三内丸山遺跡を訪問する機会があり、祭儀、宗教的要素の有る、縄文から弥生時代の掘立柱の復元建物に
 ついて、調査研究してみました。

         地上部の遺構・確証が不足の中各種論議が有るようです。 


  a17三内丸山全景20140809 
  三内丸山遺跡 全景  ドーム建築 非常に気になります。 誰のデザイン 史跡の中には、不具合と言える 
 

  復元建物の設計がどの
ような経過、根拠に基づいて決定、実現されているのか・・・・・・・・・・・・・・

 

 

1

  遺跡における復元建物の問題点

 

 ① 登呂遺跡  静岡県静岡市駿河区登呂五丁目  弥生時代の集落水田遺跡 1952年(昭和27年)国特別史跡

 

          登呂遺跡-1  登呂遺跡-2  登呂遺跡-3

 

 

登呂遺跡に復元されている建物は、昭和26年(1951)に 関野克博士が発掘された遺構をもとに銅鐸や土器にえ

がかれた絵、「鉄山秘書」という文書にある、高殿(たたら)という砂鉄精錬法の作業場の形が発掘遺構を参考に

復元されたものなど・・・・・・を参考にして復元したものです。


  復元住居は高さ約5m、小判形の平面の広さは約73㎡です。
  住居の内側は羽目板をさし並べ、外側に杭をうって
土堤をかためます。
  4本の柱は根元に礎板をしいて、柱の上に梁と桁をかけそれに垂木をもたせます。

桁の上に合掌形に材(叉首)を組み、屋根の最も高いところに木(棟木)をかけます。

入母屋づくりの屋根は茅をふき、南西側に出入り口がもうけられています。 

 

茅葺きで葺かれた屋根は、近世民家そっくりで、本当にあんな形であったのだろうかと疑問を持つ人もいました。

教科書にも記載され日本人誰でも知っている建物でイメージが焼きついていますが・・・・・

 

しかし、現代では、登呂遺跡が、吉野ヶ里遺跡に取って代わられた状況で、教科書にも記載は少ないようです。

 

そして近年新しい事実が発見され、登呂遺跡の竪穴式住居は、復元すべき屋根は茅葺ではなかったようです。


 

 

 ② 中筋遺跡    群馬県渋川市行幸田  火山灰に埋れた古墳時代の集落  県指定史跡

 

              中筋遺跡-1  中筋遺跡-2  中筋遺跡-3 

 

  6世紀初頭に噴火した榛名山二ツ岳の火砕流に被災し埋没した古墳時代のムラが見つかりました。

見つかった遺構には竪穴式住居4軒、平地式建物5棟、祭祀遺構、垣根、道、畠などがありました

 

竪穴住居の屋根の構造は、茅・土・茅の重層であったことが判明し、画期的な発見とされています。

また、柱を使用しない壁立式平地住居であることも判明しました。これは、発掘の際は、柱穴が出て初めて住居の

存在がわかりますが、通常の発掘では壁立式平地住居は非常にわかりにくいという事情があります。

 

 茅葺きの屋根には土がのせられていました。実際に復元してみると、低い屋根は作業を行うのに有利であり、

土を葺くことで断熱効果も高いことがわかりました。竪穴住居の復元案としては登呂よりもずっと説得力があるよ

うです。

 

  【竪穴住居の屋根は、茅葺、樹皮葺などではなく土葺きであった・・・・・】


  a17三内丸山竪穴住居茅葺20140809 a17三内丸山竪穴住居土盛り20140809 

三内丸山の竪穴式住居  茅葺                土盛り

  a17三内丸山竪穴住居樹皮20140809 a17三内丸山倉庫20140809 
       樹皮葺                       掘立柱の倉庫

  このように、復元建物が後の発掘、研究により 現在のものとかなり異なる形態であった事実が判明しています。

 

例えば、

   ③ ネット資料より  発掘と復元


   現存していない建築を、資料に基づいて復元的に考察することは建築史学の基本です。
   失われてしまった近世以
前の建築、特に古代・中世など古い時代の建築を研究対象とする場合、この復元が大きな
   意味を持ちます。
   文献や絵画による復元も行われますが、考古学的な発掘資料による復元は、発掘現場からの要望も多く、様々な
   形で行われてきました。
   ここでは、発掘遺構による建物復元の実例を紹介し問題点などを少しだけ考えることにします。

 

 

●佐賀県の吉野ヶ里丘陵に広がる吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の大規模な集落遺構として知られています

    1986年からの発掘調査では、その規模や遺構だけではなく邪馬台国との関連も話題になりました。

二重の環濠を巡らせた防御的な集落で、物見櫓は、〈貫〉という柱の穴を貫通して横につなぐ建築部材を用いた復

元が試みられています。

 この貫は従来の建築史の常識では、鎌倉時代になって初めて中国から伝わったもので、それ以前の日本にはなか

ったということでしたが、遺構そのものや、発掘された建築部材の検討によって使われていたはずだということに

なりました。貫を使った高層の物見櫓は大変評判になりました。

    ただ建築史の世界では貫の存在を認めない人も多く、少し後の唐子・鍵遺跡から出土した土器片に描かれた絵画

による復元では貫は使わずに、貫が伝来する以前の長押を使っています。

 

 

●富山県小矢部市の桜町遺跡は 建築史の立場からみて重要なのは、高床式建物の柱材と考えられる貫穴(ぬきあ

 な)や、桟穴(えつりあな)などの加工が確認できる木材が出土していることです。

   現場の状況から年代の確定が
むづかしいようですが、従来は米作りの技術とともに弥生時代に鉄器とともに日本に
   もたらされたと考えられてい
た高床建物が、縄文時代に既にあった可能性がありそうです。
   復元建物は、1999年7月の「縄文フェスティバル」の際のもので、出土材から復元された石製の木工具を使って
   加工した木材が一部用いられています。実験の結果、能率はともかく、石器でかなり高度な木材加工はできたよう
    です。

 

 

●「えさし藤原の郷」は1993年放映のNHK大河ドラマ『炎立つ』のためのオープンセットを整備開放したもので、
     その後もたびたびドラマなどのロケに使われています。

   政庁や義経屋敷、清衡館、経清館など多数の建物が復元さ
れています。
    「藤原」は建築考証が行われている部分もあるようですが、この時代の、京都からみれば片田舎であった奥州にど
    のような建物が建っていたのかは本当のところよくわかっていないはずです。
    にもかかわらずいずれも建物が建てられ、しかもなかなかの人気を博しています。

 

【このように、復元建物には問題点が各種有るようです・・・・少し探求してみます】

 

 

2

  三内丸山遺跡の掘立柱の復元建物について



   a17三内丸山掘立柱20140809  a17三内丸山掘立柱詳細20140809 

 

1、三内丸山遺跡の概要


   青森市の三内丸山遺跡は、市中心部から南西へ約3キロの丘陵地帯にあります。

   1992年度から青森県総合運動公園の拡張に伴う新県営野球場建設用地約5ヘクタールの発掘調査が始まりました

   だが調査はあくまでも遺跡の記録保存が目的でした。しかし 三内丸山遺跡が破壊の危機に瀕していた発掘調査

   最終年度の1994年、「国内最大の縄文集落」として遺跡として大々的に報道されました(Web東奥・企画)。

 

   1.直径80センチの木柱が 出土したのをはじめ大型建造物が多数建てられていた。
 

   2.大量の遺物遺構から縄文前期5500年前から中期4000年前までの約1500年間にわたり定住生活をしていた。 

 

   ・移動・狩猟生活をしていたという縄文人の歴史的常識を根底から覆す遺跡である。

   ・遺跡に隣接するW杯サッカー場建設予定地も一体的な遺跡である。

   ・「縄文の巨大村」と題して3回の緊急企画を掲載して同遺跡の学術的価値の高さを紹介。

   ・「後世に残すべき国民的遺産であり、野球場の工事中止、他の土地への移転を」とキャンペーンを展開。

   ・全県的な保存機運が高まっていく中、当時の北村知事は7月26日に「遺跡保存-野球場移転」を決断。

   ・12月にはサッカー場も移転し、遺跡一帯38ヘクタールを保存区域とすることが決まりました。 
 

 

   ●平成4年からの発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型

   掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが

   具体的にわかりました。

    また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨

 

 角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。  ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植

 物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変え

 ました。  平成12年11月には国特別史跡に指定されました。                     (ホームページより) 

 

   

遺跡名

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)

場所

青森市大字三内字丸山

時代

縄文時代前期中頃から中期末葉

紀元前2500年頃

指定

リンク

特別史跡 2000年

wiki  HP

遺構

竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。

大型掘立柱建物は、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2m、2m、2mで全て統一されている事が特長です。その当時既に測量の技術が備わっていたことを示すものであり、ここに住んでいた人々が 高度な技術的水準に達していたことを示すものです。

特長

遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。
集落は住居・墓・捨て場・住居・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土坑墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、計画的に配置されている。


  

  a17三内丸山大型復元20140809  

 

 

 

 

 

2、三内丸山遺跡の掘立柱の遺構

 

 現在まで三内丸山遺跡で検出された遺構の中で 最も重要視されているものが 6本のクリの木の柱跡である。

 

● の1m近い大きさも注目されるが、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2、2、2で全て統一されているこ

とである。特に4.2というのは35cmの倍数であり、35cmの単位は他の遺跡でも確認されている

 

 クリの木の立て方はそれぞれが、列の内側へ角度2度ほど傾いており、計画的かつ意図的なものであって、柱を立

  てる際に重心が穴の中心より外側へ来るようずらして設置されていた。

 

 柱を立てる際に、砂と粘土質土を交互に入れて突き固める技法がとられており、これによって柱がより固定される

ようになっていた。

 

● 柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焼き焦がすという技術を使っており、腐食を長い間防いだ一因となっている。

 

                発見された真実は、これらだけです。】

 

  そのほかの建物に関する発掘はされておらず、横臥材、屋根材、床材、塗装 などは不明です。

 

  故に良く云われる復元は、「地下に真実、地上にロマン」と云うことに成り、このロマンが曲者です。

登呂遺跡の復元以来数多くの復元建物が建築されていますが、飛鳥、奈良時代以前の縄文、弥生、古墳の復元で 

地上の構築物の発掘により真実で有るものは無いようです。

 

復元建物の地上部分は、考古学者、建築史の先生、古代ファンの専門家の推測、地元住民と行政の観光、地元興し

の思惑が絡んでいて、発掘された場所、時期、関係した人材、組織によって勝手に創造されていると言って過言で

はありません。

 

●そして、三内丸山遺跡の1996年に推定復元された三層構造の高床式の建物は、中途半端な復元です。

 

  祭祀的な色合いの濃い、複合的な目的をもった非日常的な公共施設という基本的な構想を具体化し、

  屋根も壁もない・・・床だけがある 柱に装飾も無い・・・余り感激もしない 殺伐とした景観です。

 

 

3、三内丸山遺跡の復元建物の問題点

 

吉野ヶ里、三内丸山も近年の発掘、復元ですが、皆、当時の携わった人たちの大論議があったものの 復元では

なく「公園のモニュメント」なのです。観光のための人集めのシンボルなのです。何も無いより・・・・?

 

前述のごとく、竪穴式住居は茅葺、樹皮と決まっているイメージは間違っているようです。

最近の発掘で焼け残りがあり土で屋根を盛っていたことが判明しました。土盛りです。

盛土が点々と並んでいる、これでは観光にならず、人を呼べません。三内でも3種類並べています。

 

新しい発見により、確証が得られていく例であり、このような事例が増えていくため調査研究が肝要です!

 

●しかし、世界遺産に登録しようとするなら、このポイントを科学的、学術的に明解にしないと 世界文化遺産に

おける重要な要件である「Authenticity」「真正性」に疑義が生じるのは間違いが無いと思われます。

    北海道・北東北の縄文遺跡群  で登録を目指すなら是非、もう少しクリアにしたいものです。



 

4、三内丸山遺跡の掘立柱の用途

   

    専門家の見解は、大きく建物説非建物説に分かれています。三内丸山遺跡の大きな謎です

 a17三内丸山掘立柱3案20140809

 写真は復元案の3モデル

            左は ただ立っているだけの6本の柱。

            中央は 物見櫓あるいは灯台等の建造物。

            右が今回の、大林組プロジェクト・チームにより復元されようとした祭祀建物だが・・・?  

 

 

【非建物説】 

    ・柱が柱単独で直立: トーテムポールのようなもの、

    ・ウッドサークル : 金沢のチカモリ遺跡に見られるようなストーンサークルの木材版

    ・シンボル    : 諏訪神社に伝わる「御柱祭」ような神域のシンボル

    ・灯台説     : 司馬遼太郎氏 提唱

  ・その他     : 物見櫓説、天文や季節の基準を知るための施設 など

 

  建物説への反論 

    ・高床の神殿  : 高床の神殿説を裏付けるような考古学的資料は 周辺からは発見されていない。   

    ・神官の存在  : 神官が居たと、予測させる遺構・遺物がも発見されていない。  

 

  【建物説】

    ・通常一般の遺構とは同一視しがたい特殊な性格を強く印象づけている

    ・平面形が1間×2間の明確な規格性を示している

    ・柱が直立せず、それぞれが内側にわずかに傾斜していること

    ・神殿である。祭祀性の強い複合的な目的の建築  これが当初復元建物の基本となったようですが?


   



5、復元の経過

    六本柱建物跡の復元に当たっては様々な意見が出されました。

  建設する場所は六本柱建物のあったと推測される場所のすぐ脇に決まったものの、ただ柱が立っていただけな

  のではないかと言う意見や、逆に装飾具などもある非常に凝ったものだったと言う意見も出された。 

 

   ・県からの依頼で、八戸工業大学の高島教授を中心に検討が進められ

   (考証と施工は小山修三の監修の下、大林組のプロジェクトチームが行った

 

 

● 経過

  1995/08/15    復元予定の大型掘っ立て柱で屋根がある床三層建物に一部考古学者が異議

       08/22    遺跡検討委、掘っ立て柱建物を 屋根付きで復元することで決着 

    1996/06/05    県が大型掘っ立て柱建物の設計図公表     屋根無しでの復元決定

       10/23    大型掘っ立て柱建物のクリ巨木立ち上げ

               検討委会合では復元で屋根をめぐり委員が論争  県方針に批判相次ぐ 

     11/0   高さ14.7メートルの大型掘っ立て柱建物が完成 

 

● 青森県は屋根付きの建物を想定したが、 

    「非建物説」を主張する
  

       小林達雄(國學院大學教授・考古学)

     佐原真(元国立歴史民俗博物館館長・'02年没)、

     佐々木高明(国立民族学博物館名誉教授・民族学)

        らの反論で、結果的には屋根なしの三階建てという中途半端な復元になった。


 

 

● 県議会の議事録 抜粋  1996.10.04 : 平成8年第207回定例会

 

【土木部長】

 復元案を取りまとめるに当たりましては、県からの依頼により八戸工業大学の高島教授を中心に検討が進められ

てまいりました。

 復元につきましては専門家の間で大きく建物説、非建物説に見解が分かれておりますが、高島教授は、考古学者

や建築学者からの助言を得ながら復元の設計を進め、発掘調査の知見から建物説に立ち、祭祀性の強い複合的な目

的を持つものと考え、それに基づいて具体化されました。

  ・・・基本計画検討委員会委員に送付いたしましたところ、屋根につきましては、建物説に立つ委員からも、その棟

方向、構造、素材等についてさまざまな意見が寄せられたところであります。

  それらの意見の取り扱いについて設計者の高島教授、それから土木部、教育委員会が十分協議し、専門家の間でも

さまざまな見解があることや、子供たちを初めとする見学者の持つ豊かな創造力が広がる余地を残すとともにロマ

ンを膨らますことができることに配慮いたしまして、屋根のない建物として復元することとしたものであります。

 


  
【教育長】


  
教育委員会が三内丸山遺跡の基本計画検討委員会委員の御意見を伺いながら十分協議を進めてまいりました。

  先ほど土木部長から答弁がありましたとおり屋根につきましては専門家の間でもさまざまな意見があることから、

見学者の創造力を広げロマンを膨らましてもらうにはどのようにしたらよいか検討した結果、現在わからない部分

については今後の調査、研究にまつということで屋根のないデザインにしたものでございます。

【副知事】

・・・まあ私たちの率直な感覚から言えば、多分屋根があってほしいなと思うんだと思うんです。


  ただ、お話にもありましたように、学者先生方のいろんな意見があって、いろんな考え方があるわけでございます

ので、教育長からもお話がございましたように、将来の検討課題としてひとつ残していただいて、もう少し議論を

してから、本当にそういう可能性があったんだなという確度の高いところで、そこはまたもう一度見直しをする

いうようなことにさせていただければと思いますので、御了解いただきたいと思います。

 

かなり厳しい答弁であったようです。見学者のロマンを膨らます、将来の検討課題、もう一度見直す・・・・

具体的には、良く理解できません! 

 

●「床があるのに屋根がない、屋根がないのに床がある」 というのはどうしても中途半端な感が否めず、

 後々までこれでよかったのかと疑問の声が上がる原因となっている。 

 

確実に分かっているのは、

 

直径約1mの6本のクリ材が、深さ2mの穴に4.2mの等間隔で配置されていた

 

ことだけです。復元建物の高さや構造形式は専門家、行政の想像の産物でしかないのは間違いが無い。 

 

実際に建物が復元されると、それが目についてしまいイメージを固定化させてしまう。恐ろしいと考えるか?

ロマンが膨らむのか?

 

6本柱の用途が確定していない状況での復元は、勇み足だったかもしれないが、

他の遺跡復元建物も大半そうで有るように「地下に真実、地上にロマン」でよいのかもしれない。

 

集客第一」のためには致し方ないというのが現実なのだろう。


  a17三内丸山掘立柱-220140809 a17三内丸山掘立柱穴跡20140809

これだけもめたのなら 6本の独立柱がよかったのでは!         穴跡 水をためている

柱の繋材もなく、床も無く・・・・これでは中途半端・・・・・
 

 

6、復元の経過のなかで気になる点 

●建物の検討に大林組が参画した。何をしたのか? 

   以上HPの内容を転記したが、これらの大林組のレポートは、
   復元すべき建物の形状、機能、用途を特定しているものではありません。

      材料は、クリの木である点は、すでに明解であったしサイズ等も確定していた。
  ① 重量を計算しただけのこと。  遺構である穴の大きさなども明解であった。

  ② 穴周辺の土質性状を現在の構造的検討でしたもので、幾らの重量に耐えうるかを計算しただけのこと。 
          復元建物は、祭祀性の強い複合的な目的を持つものと想定し三層の屋根つき神殿風も建つという根拠を計算した。

  ③ 建物の重量は、三層の横臥材、床、屋根も有るという想定の元で算定しただけのこと。

      【復元の根拠となる要因を発見できる検討、結果では無い 単なる補足】

    要するに大林のレポートは、クリの木の重量計算と、地層の土質的計算、をしてみただけであり、復元に対して

検討したものではなく、一つの復元建物の案(神殿風)が建築できますよ・・・・と確認しただけである。

   大林の得意とする、やたらに、エジプトのピラミッド、出雲大社の机上復元などをして、時間、工費などを想定
     で計算してマスコミに載せ 世間を騒がす「大林の広告的なスタンス」と なんら変わらないレポートである。

      「遺跡復元に関して今までにない新しい多くの示唆を含んでいる

 
     「歴史学の発展にまた新たなアプローチが加わったと言っていいだろう・・・・・

         
と述べる学者もいる!  誤解もはなはだしい! 


      考古学、建築史の専門家らしき人名を「復元検討メンバー名簿」に記載すると 権威が有るようにみえる。
  恐ろしい世界です。
 

        ゼネコンへの苦言は、このくらいにして。気になる論文がありました。 


 ● 気になる論文

 

① 【北の文明・南の文明】

  下記のHPを見つけました。

  大変参考になり、勉強するのに小生のレベルではハードルが高いのですが 是非、参考にしてください。

 

【北の文明・南の文明】 

虚構の中の縄文時代集落論-1

虚構の中の縄文時代集落論-2

 

つい最近、国史跡の青森市三内丸山遺跡の集落論を語る上で、避けては通れ無くなると思われる論文に

「遭遇」しました。「異貌」という一般の方はほとんど目に触れ得ないような雑誌ですが、25年くらい

前に創刊された「息の長い」考古学関係の同人誌です。

 主宰者の佐々木藤雄さんが直接執筆された論文で、タイトルは「北の文明・南の文明(下)-虚構の中

の縄文時代集落論-」(「異貌」第17号 1999年5月1日)です。

中身は三内丸山遺跡の「集落論」に反駁をくわえたもので、三内丸山遺跡関係者からの反論が大いに期

待されるような内容です。同人誌にひっそりと「埋もれさせておく」にはあまりにも大きな問題を指摘

している論文と考えられるので、紹介させていただくこととしました。

掲載にあたり、佐々木さんにはご快諾をいただきました。

 

 

 

② そのほかの気になるネット記載の参考にすべき論文 


     ● 地域における遺跡の総合的マネジメント             奈良文研協

 

  

   ● 復元建築、根拠は色々 同一の資料から異なる解釈        朝日新聞



   そのほか、著名な遺跡の復元建物について、建築までの経過を調べてみました。


3

  その他の復元建物について


 

1、池上曽根遺跡の「巨大神殿の復元」

  a17池上曽根遺跡20140809

              

            
          
池上曽根遺跡-1  池上曽根遺跡-2  池上曽根遺跡-3  

 

 

この遺跡のシンボルとも言うべき「高床式神殿」の復元だが、神殿と証明された訳ではない。

 

  復元論争が、有りその様子を

  「池上曽根遺跡で発見された 「大型建物」 の復元に関する二、 三の考察」井上章一

 

  論文が克明に仔細を述べられています。下図がその論争の2つの復元案です。(コピペしてください) 

高床とみなされたこの建築については、二通りの復元案が知られている。
  ひとつは、1995年発表の宮本長二郎の案であり、
  ひとつは、1997年発表の浅川滋男の案である。


       a17三内丸山復元宮本案20140809

   

 

 

宮本案だが、こちらは伊勢神宮が、復元の手本となっている。
  神宮にある本殿の建築形式、いわゆる神明造をヒ
ントにした案である。
  といっても、内宮や外宮の本殿形式が、そのまま採用されたわけではない。
  それらの屋根を
ざる千木や鰹魚木は、はぶかれている。
  伊勢の本殿にめぐらされた回縁も、とりのぞかれた。
  全体として、伊勢
神宮をより素朴にしたような復元案であったと、評せよう。

「淺川案はインドネシアやオセアニアの民族建築に、よく似ている。
  原住民たちの大型建物をしのぼせるつくりになっている。
  その意味では、エキゾチックにうつる復元案だと言える・・・・・」


   かなりの長文ですが。読み砕くと興味が湧きます。
  建築史家の葛藤、地元でお金と住民の意向を握っている行政と
の駆け引き等・・・

 
 【忠実に復元しようとする研究者と、いかに観光施設にするかの行政とのバトル】一読ください!



2 吉野ヶ里遺跡 佐賀県神埼市神埼郡吉野ヶ里  弥生時代の集落・墓地跡  国の特別史跡
             

        
吉野ヶ里遺跡-1  吉野ヶ里遺跡-2  吉野ヶ里遺跡-3  

「復元形態を策定するため参考とした絵画土器や家屋文鏡には、重層楼閣や特徴ある建物の様子や棟、軒
  先飾り
およびシンボルの鳥が描かれており弥生時代の建物をうかがい知る有力な資料となりました。 
  遺構の柱間隔、柱太さ
や柱穴の深さ等の検討により、H5年に奈良県田原本町の唐古鍵遺跡から発見され
  た絵画土器に描かれている
層建ての楼閣建築を想定しています

 

 

 

 

4

 遺跡の掘立柱について・・・私見

 

● 何故 「類例を比較」した結果の研究資料が公開されていないのか?

 

縄文時代の直径90cmを超える柱は、三内丸山遺跡のほか
   

  桜町遺跡   富山県

  宮畑遺跡   福島県宮畑遺跡の謎  文化遺産

  真脇遺跡   能登町   

 

・掘立柱の遺構  

  矢瀬遺跡   群馬県

  西田遺跡  池上曽根遺跡  八戸市風張遺跡、北海道石倉貝塚、秋田県大湯環状列石、秋田県高屋館

数件の掘立柱の遺構があるようです。    ( 2-1 遺跡からの起源探訪 参照してください)

  各遺跡の研究は個別に行われていて、「他の遺跡に類似している・・・」程度の記述が有るが 

何故か、「掘立柱の遺構を比較検討した研究、論文」が探査できません。ネット探査の限界でしょうか。

 

建築史家の先生、考古学の先生 是非公開してください。勉強します。!

 

 

  ●「ロマン」だけでなく 極力客観性の有る「類推と真実性」の追求

 
 ・三内丸山遺跡の敷地内の 遺跡保存のための「白いドーム」・・・やはり気になります。   

  縄文時遊館は現代建築が採用されるのは、よいとして  遺跡内の施設は、復元建物が点在している中

  これは何だ? 誰が設計したのかを調べてはいないが、これを承認した人たちが問題でしょう!

  掘立柱でこれだけ論議をして遺跡全体の景観を論議しなかったのか・・・誠に遺憾、残念です




 

 ・「歴史的建造物復元と.カルチャーツーリズム」からの抜粋

 

  登呂遺跡の復元建物の建築後,復元住居はこれらの物まね的なものが多く,いい加減なものも多くなった。

また,吉野ヶ里遺跡にしても,三内丸山遺跡にしても,遺跡の保存が決定されるや否や,物見櫓やロングハウスの

ような目立つ建物を復元し,観光客の呼び込みに成功している。

  だだ,この過程で復元形に十分目検討がなされたか疑問がのこる。

 

   建物などの復元は、世界的にみると,ベニス憲章(1964)では部材が残っている場合にのみ認めてきたが,ロー

ザンヌ憲章(1990)では,復元(再建)は実験的研究と解釈という機能を果たすことを評価し,オーセンティシ

ティの確保などの条件付ではあるが,認めている。

   これからの復元は,歴史学習,地域シンボル,文化的観光という目的のもと,形態だけでなく,材料,構法,工

法にいたるまでオーセンシティシティを確保するだけでなく,芸術性さえも表現できるようになってはじめて,

真の文化的観光の対象として認められるであろう。

 

   Aは,建物そのものが残っている場合で,痕跡,部材,史料などから精度の高い復元ができる場合。

     文化財建造物における復元を伴う修理。通常,復原という文字を使う。

 

   Bは,建物の一部が残るか,基礎遺構が残り,写真,図面,文献などの直接的史料がある場合。

     太平洋戦争で消失した首里城正殿など。

 

   Cは,基礎遺構が残り,類例となる建物や絵画史料など間接的史料がある場合。

     各地の国分寺の門,志波城門上土塀など。

 

   Dは基礎遺構がのこり,機能が,特定でき,類例遺構が多く存在する場合。

     原始古代の復元住居など。

 

   Eは基礎遺構がはっきりせず,モデル的に復元しようとする場合。

    博物館の敷地にある古代住居など,史跡の整備では認めていない。

 

 

   といったいくつかの復元カテゴリーを考えなければならない。
   当然AよりB,BよりCの方が,推定が多く,当然,復元の精度からいえば, ABCDEの順に落ちることになり,

            BないしC以下は、同寸大の模型,レプリカ

    
と考えるべきで,一種の展示物ととらえ「復元展示」と名付ける
べきである。

 

    しかし,展示物とはいえ,効果が大きいだけに,ローザンヌ憲章にあるように復元には慎重になるべきである。

   復元は研究の成果をもって行われるべきで,形態決定の過程は論理的で実証的でなければならない。

 

   ある意味では,研究論文よりも一般の人々に影響の大きいものであり,建造物として完結していなければならず,

   論文と違って分からない部分を分からないではすまされないものだからである。

 

   また,規模,意匠,材料にいたるまで時代特性,地方性,そして機能性をよく反映するとともに,建築の持つ文

 化性,芸術性の高さを表現しなければならない。

    
「 研究をベースにした復元設計を慎重かつ綿密に行うことが最低の条件である。」

 

   現在,国史跡における歴史的建造物復元は,文化財保護法による現状変更の許可案件になる。

このため,設計の内容を検討するために,基本設計段階で「史跡等における歴史的建造物の復元の取り扱いに関す

る専門委員会」,通称「復元検討委員会」で審議会の前に検討される仕組みとなっている。

 

 

   1990年にイコモスで採択されたローザンヌ憲章(考古学的遺産の管理・運営に関する国際憲章)

   「再建は二つの重要な機能を果たす。実験的研究と解釈である。しかし,それらは残存する考古学的証拠を乱す

    ことなく非常に慎重に行われるべきであり,オーセンティシティ(真実性)を達成するためにあらゆる資料か

    ら得られる証拠を考慮すべきである。実行可能で適切であるならば,再建は考古学的遺構に直接接して行われ

    るべきではなく,再建であると分かるよう.にすべきである。

 

          と云う論文(抜粋)を発見しました。

 

   先生方も、真剣に考えられている方が居られる・・・・少し安心しました。

  
● まとめ
 

結局 小生には、遺跡の復元建築のあり方は難解でしたが 今後も勉強していきます!      終りです

 遺跡復元建物の探訪 復元建物は根拠が在って実現されているのか

 

要旨

 

三内丸山遺跡の1996年に推定復元された三層構造の高床式の建物は、中途半端な復元

建物の検討に大林組が参画何をしたか?構造的確認をしただけ、地上部の確証ではない。

忠実に復元しようとする研究者と、いかに観光施設にするかの行政とのバトルが多発。

・復原建物設計は、登呂遺跡から吉野ヶ里遺跡まで全て建築史家と行政の思惑が入り乱れる。

・地上部の復原の確証は少なく、建築史家でも数種類の復原案が出現する。

 

 

要望

    

  ●考古学の専門家は、さらなる科学的な確証の追求

  ●建築史の専門家は、類推研究を強化し、確証の追求 

  ●考古学の専門家と建築史の専門家の協業研究調査の推進による「真性」追求

  ●行政は、市民、事業のためでなく、グローバルな観点での調整力の発揮をすべき 

 

 

要点

復原建物は、建築史家、行政、文化庁のバトルで、観光営利が目的の行政の勝ち?

 

問題

「ロマン」だけでなく 世界的客観性の有る「真性」を、追求するのが基本では? 


        科学する邪馬台国 より抜粋、編集

 

《掘立柱建物の復元》

 

 三内丸山遺跡における建造物で全国の注目を集めたのは、何と言っても掘立柱建物である。写真でわかるように6本の柱が等間隔に立てられ、それぞれの柱跡は直径1㍍もあった。しかも用いられた材木の柱根も残存しており、全てクリの木であった事も判明している。 柱径が巨大である事は、その立ち上がった建造物も巨大であったはずだ。PTも建築という見地からそれは肯定している。直径1㍍の柱が、高さも1㍍などという事はあり得ない。それにふさわしい高さを保持していたはずである。

①、柱の材質(クリ)による高さの想定。 

発掘当初クリの木は高さがせいぜい7,8㍍にしかならないという意見も出たが、これは栽培用に先端部を切り落とした近年のクリの木であって、本来は20㍍以上に成長する事が明らかになった。実際、三内丸山遺跡対策室の調査によって青森周辺で高さ20㍍のクリの木が発見された。 縄文時代には、当然それ以上のクリの木が原生していたものと考えられる

②、柱穴を土質工学の見地から考察する。 

発見された6つの柱穴は、正確に4.2㍍の間隔をとり2列に並んでいる。深さは2~2.5㍍も掘り下げられており、6つのうち4つに木柱根が残っていた。木柱根は0.9~1㍍程の径で最大のものは103cmであった。高さは50~65㌢ほどが残っていた。現在までに判明している考古学的な 事実は次の2点である。

 

●クリの木の立て方はそれぞれが、列の内側へ角度2度ほど傾いており、計画的かつ意図的なものであって、柱を立てる際に重心が穴の中心より外側へ来るようずらして設置されていた。


●柱を立てる際に、砂と粘土質土を交互に入れて突き固める技法がとられており、これによって柱がより固定されるようになっていた。

 

 あまりにも少ないこれらの事実に加えて、PTが行った調査は、さすが建設屋と思わせるものである。彼らは、柱が建っていた穴の底を調べてみる事にしたのだ。つまり同じ位置の(深度の)、他の外周部の土と柱の底の土を比較して、底の土にどれだけの圧力が掛かっていたかを調べようと 言うのである。この柱の底が、過去にどれほどの過重を受けていたかがわかれば、5000年前当時の柱の重量が解明できるのではないか、というのだ。彼らが行った調査は以下のようなものである。

 1.地層の確認
 2.標準貫入試験(N値)
 3.物理特性(比重、含水状態、粒土分析)
 4.力学特性(一軸圧縮の強さ、粘着力、圧密先行応力)

 1.はともかくとして 2.以降に現れる用語は、文化系出身者である私には殆ど理解不可能である。しかし図やグラフ混じりの説明をじっくり読めば、何となくわかってくる。要するに結論を言えば、1平方㍍に16㌧の過重が加わっていたという事になるそうだ。
ここで、これまでの結果を全てまとめてみると次のようになる。

◆木柱の直径    平均1㍍(発掘調査より)
◆ 同 断面積   0.785平方㍍
◆直下地盤が経験した荷重(柱の断面積あたり)  最小値7.8㌧  最大値12.6㌧
◆クリの木の長さ1㍍あたりの重量(径1㍍)   0.5㌧/㍍(クリの木の比重を0.7㌧/立方㍍とする。)

(計算表記載せず)

 

ここから導き出される柱の木の長さは、最小14㍍、最大23㍍という事になる。

しかしこれは、柱のみが直立していたと考えた場合であり、しかも柱の径が根本から先端まで同じ太さとした場合の数値である。実際にはそういう事は有り得ず、柱は先端部分になるに従って次第に細くなっていく ものであり、それを勘案すると柱の高さは、実に25㍍に達する可能性があると言う。


 PTでは、これが単独で建っていた柱の可能性を検証しているが、結論から言うと単独の柱としては不安定で建造物として成り立たない、というものであった。そこで、何らかの構造をもった建造物としての検証に進む。


 諸検証の結果、復元する建物の規模は、軒高が14㍍、最高部(屋根頂部)で17㍍、そして木柱の長さは掘立て部位も含めて16.5㍍となった。左の図より、建物の総重量は約71㌧の規模となり、この構造だと下部へかかる荷重は1平方㍍あたり16㌧ちかくになり、地盤調査の結果とも整合性がとれる。 

 

また柱の高さが約17㍍とすると風に対する抵抗の面からも一番都合がいいそうである。この三内丸山遺跡のある津軽地方に吹く季節風は、ほぼ一年中、津軽半島と八甲田山系の間を南南西に吹いており、この大型掘立柱建物も長軸を南西-北東方向に向けており、風に対する抵抗が一番少なくすむように建てられている。 つまり古代縄文の人々は、これを建てたとき既に、風向きや風力に対しての妥当な高さについて知識を持っていたのである。また4本柱より6本柱の方が、風に対するたわみが少なくより堅固に建っている事ができる。

 PTでは、この他、屋根の有無、梯子の有無(上段への移動方法)、や柱に彩色がほどこされていたかどうかについても検証しているが、これらは全て推測の域を出ない。このあたりになると、おそらく永久にわからないのかもしれない。

いずれにせよ、今回大林組プロジェクト・チームが行った三内丸山遺跡の建物に関する復元作業は、これまで歴史学者や考古学者達が行ってきた作業とは違って、「建築学」という観点から試みられたものだけに、遺跡復元に関して今までにない新しい多くの示唆を含んでいる。歴史学の発展にまた新たなアプローチが加わったと言っていいだろう。 


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