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寺社建築と文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源、歴史、文化財の紹介と文化財の問題点を探訪しています。 常時更新中です!
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カテゴリー  [ 3-5 瓦の歴史と建築史 ]

日本の瓦の考古学的歴史と時代考証

3-5 瓦の歴史探訪

 

 

 

  3-5 瓦の歴史探訪  日本の瓦の考古学的歴史と時代考証 

 

 

 「瓦の考古学的時代考証」と「建築史の寺院建立年代考証」は、どのような関係に有るのかを探訪してみます。

日本最古の寺院は飛鳥寺という通説が有る中、『2-4寺院建築の起源探訪』で記述したように飛鳥寺建立当時には

4~5件の寺院が併行して建築されており、明解な創建、伽藍完成年代の特定は出来ないと記述しています。

 

 寺院の年代判定には、考古学調査による瓦の出土品の年代判定が大きく関与しています。そして瓦の歴史でも日本

最古の瓦は、飛鳥寺出土として通説が成り立っています。

飛鳥時代の寺院建立年代が不明解と思われる中、果たして瓦も飛鳥寺が最古なのか探訪してみます。

   
瓦については、全く素人です。ネットを通じて勉強中です。ご指摘よろしくお願いします。

 

 

1

  瓦の起源と中国の瓦

 

 

・瓦は西洋では紀元前14世紀頃ギリシア、東洋では紀元前11世紀頃、中国の西周時代に黄河中流域を起源とします。

 最古の瓦は陝西省西安の宮殿遺跡の発掘調査で出土しています。(大形の平瓦)

 この時期には屋根全体を覆わずに、一部に用いられていたようです。

 

・紀元前9世紀頃の西周時代末期には屋根全体に用いられるようになり、軒先には、先端部が半円形となった半瓦当

 と呼ばれる瓦が配置されました。

 
    2-4 饕餮紋中国-1      2-4 饕餮紋中国-2
        

        【半瓦当】饕餮文            饕餮文半瓦当(中国戦国時代 燕)

 

・戦国時代(403-222年)に、丸瓦と平瓦をセットにして使う本瓦葺の方法が考案され、丸瓦の軒先の部分に瓦

 当を付けることが行なわれるようになりました。

 半瓦当は饕餮(とうてつ:魔除け)文・動物文・樹木文などで飾られています。

 

  

    2-4 双獣樹木文 戦国時代 斉出土    2-4 雲気文円瓦当:秦・漢     
    

       獣樹木文 中国戦国時代 斉出土       雲気文円瓦当:秦・漢時代

 

 戦国時代の半瓦当として知られるものは,燕,斉,魯,薛,趙の5ヵ国にわたり,最も古い形式と考えられるもの

 は燕の半瓦当で,燕から各国に波及したものとされています。

 

・秦(紀元前221~前206年)や前漢(紀元前202年~後8年)にかけて文字文や雲気文などが瓦当を飾るように

 なりました。

 

 2-4 文字文『長楽未央』(漢)  2-4 輻線蓮花文軒丸瓦高句麗中国  2-4 中国南朝時代瓦-1  

文字文『長楽未央』(漢)  輻線蓮花文軒丸瓦 高句麗中国4~5世紀  中国南朝 素弁九弁

 

中国の文様が、直接日本に伝来していたのではなく、朝鮮半島経由で伝わっていたようです。

獣樹木文 雲気文 文字文 蓮花文等、素晴らしいデザインが伝来していたら、日本の文様も多種な瓦で華やか

な瓦屋根が多く観られたのでは・・・と思います。

 

   

 

  朝鮮半島の瓦

 

 

朝鮮半島瓦が、日本に直接伝来したことは間違いの無いところで、瓦文様を探訪してみます。

 

【星組】 蓮弁の先端に珠点がある

  2-4 大通寺瓦ー1  2-4 衛里時瓦ー1  2-4 軍守里寺ー1東博
 

① 大通寺 527年建立 星組  ② 旧衙里寺跡-1 百済    ③ 軍守里寺 520年 百済 

 

 

【花組】 蓮弁の先端に切り込みがある


 2-4 東南里廃寺ー1  2-4 ふそさん瓦ー1  2-4 新羅瓦-2 
 ④ 東南里廃寺 650年花組八弁   扶蘇山城 538年 花組    ⑥ 新羅  六弁

 

6世紀中より古いとされる瓦を記載したが、全体の文様のバランス、線形が幾何学的に明解であることに特長が

有る。 ① ②は同箔品とされている。八弁が大半を占めているようです。


        2-4 蓮の花写真ー1 
      

      蓮の花 花弁は10枚以上有る 先端は切れていない、星型も無いが、筋は有る

 

   【参考】  かわら美術館       新羅初・日本初の仏教寺院は百済式の瓦で作られた



  日本の瓦

 

 

● 奈良文化財研究所のHP  古代の瓦」には下記のように記述されています。

 

  『日本で最初の瓦葺建物とされているのは、588年に創立された奈良県明日香村の飛鳥寺です。朝鮮半島の百済

  より「瓦博士」を招き、造瓦技術の導入が図られたことを、文献から知ることができます。飛鳥寺の軒丸瓦(軒平

  瓦はまだありません)の文様は素弁蓮華文といって、百済のものと非常によく似ています。ただし、このほかにも

  飛鳥時代に建立された諸寺の瓦は多様な文様を持っており、技術の導入プロセスが単純ではなかったことが知られ

  ます・・・・・

 

● 瓦の伝来は、588年とされているのが通説です。

 

  日本書紀では百済(現在の韓国西部)から製作技術者の「瓦博士」4名

  ・麻奈文奴(まなもんぬ)

  ・陽貴文(ようきもん)

  ・陵貴文(りょうきもん)

  ・昔麻帝弥(はくまたいみ)が渡来したと記述されている。

 

   京都大学の伊藤義教氏はこの名前は中世のペルシャ語の漢字写音であると発表している。

   麻奈文奴: 読み:アーン・ナフンバーン 直訳:家を蔽うもの 役割:瓦を屋根に蔽いかぶせる人

   陽 貴文: 読み:アーイーン・クンブ  直訳:形像・装飾  役割:瓦割を決定する人

   稜 貴文: 読み:ニフング・クンブ   直訳:色・色彩   役割:色彩軸薬を配合する人

   昔麻帝弥: 読み:スヤクマーン・トークム直訳:軒先で種子卵 役割:軒丸瓦の紋様をデザインする人

   造窯の博士はいません。日本の須恵器の窯で十分だったのかもしれません。

 

   588年から日本の須恵器の製造集団を指導したとすると数年はかかるはずで、4年後の592年には金堂が完成

   したことからも、588年以前から有る程度の造瓦技術は渡来していたと考えた方がスムーズではないか。   

 

 まず、この様に 注目すべき点は、飛鳥寺が瓦を採用した建築の最初だと明言している点です。

 なぜなら、飛鳥寺の最古説には、疑義があるからです。

 

① 飛鳥寺伽藍は中国、朝鮮半島の寺院伽藍をモデルにしていない。蘇我馬子の独創的伽藍といえる。

② 一塔三金堂式伽藍は、朝鮮半島での類似説は有るが、全く同配置は飛鳥寺以外の寺院では検出されていない。

③ 瓦文様も百済には無い、9~11葉の蓮弁瓦が大半で朝鮮半島に類例は無く、日本でのデザインである。

④ 飛鳥寺の建立自体が最古の寺院とは云えない可能性がある。

 

 などの点から、最古の瓦の発祥が何時なのか、どこなのか探訪してみます。

 史料によると、飛鳥時代の寺院の創建年代は下記のごとくであり、いずれも近似値の中です。

 

  飛鳥寺:592-596年  坂田寺:587・606年  豊浦寺:593年  四天王寺:587・593年

 この年代の出土瓦を探訪してみます。

 

【星組】

 


  2-4 飛鳥寺出土瓦全数  2-4 飛鳥寺瓦星組ー1  2-4 四天王寺8弁出土  
  

⑧ 飛鳥寺 九弁         飛鳥寺  十一弁       ⑩ 四天王寺

 

  2-4 北野廃寺  2-4 川入・中撫川遺跡瓦-1  2-4 横井廃寺瓦-1                    

 ⑪ 北野廃寺          岡山 川入・中撫川遺跡     横井廃寺

 

【花組】 

 

  2-4 飛鳥寺10弁出土 2-4 吉備池廃寺瓦ー1  2-4 豊浦寺跡瓦-1     

⑭ 飛鳥寺 花組 十弁     ⑮ 吉備池廃寺            豊浦寺

 

2-4 豊浦寺瓦ー1   2-4 坂田寺瓦八弁  2-4 坂田寺十弁瓦-2   

⑰ 豊浦寺 【雪組】     ⑱ 坂田寺 単弁八弁軒丸瓦    ⑲ 坂田寺 素十弁軒丸瓦

 

日本の瓦当文様は、幾何学的に線形が乱れているものが多く、特に飛鳥寺九弁は、弁線が全体の中心に合致

していないなど、百済の瓦工が 箔(瓦当文様を持参したものとは思えないほどの稚拙な文様である。

 

蘇我馬子の要望で、日本人のデザインが採用されたのか、十、十一弁等は日本独自とされている。

又、 北野廃寺  岡山 川入・中撫川遺跡  横井廃寺のごとく時代を経ると幾何学的にはしっかりと

してくるが蓮の花弁としてのデザインはいただけない。

 

全体の印象としては、中国、朝鮮半島の瓦よりも瓦当文様風格が無いように感じます。

 

百済の瓦工が笵(はんという木型に粘土を押しつけて整形する)の直接デザインに参加していないことが原因か

もしれません。笵を木型から彫りだす技術は百済の瓦工から伝授されたが、そのデザインは伝授されなかったの

か、蓮の花弁は十数枚有るので、日本人の意向で花弁数を増やしたのかもそれない。

 

 

● 瓦笵について

 

 木型に文様を彫る技術が、ものすごく高度なものとは思えない。堅木に彫刻刀で彫るだけのこと。

 下書きを紙面に画きこみ、試行彫りを重ね決定していくプロセスは、当然踏んだと思えます。



  2-4 瓦九弁飛鳥寺遍歴  2-4 坂田寺十弁瓦-2  2-4 ふそさん瓦ー1

     

飛鳥寺・豊浦寺・若草伽藍九弁   坂田寺十弁        扶蘇山城 538年 花組 

 

ところが、「飛鳥寺九弁」は、上左図のごとく酷い幾何学である。それより古い右図「扶蘇山城」、同時期の

「坂田寺」はしっかりとしたレイアウトである。豊浦寺で多用されたとされるが、百済の瓦工、蘇我馬子ら日本

人はこれを「よし」と認めていたのだろうか? はなはだ疑問である。

 

更にこの笵に、傷、破損、磨耗したのを彫りなおしたりして 再利用している事も首を傾げる点である。

木型に彫るだけのことと考えると何故新型を造り直さなかったのか、たいした労力ではないはずで不可解です。

 

同笵品 素弁軒丸瓦星組)

2-4 瓦九弁飛鳥寺遍歴 2-4 瓦九弁豊浦寺遍歴大量生産>2-4 瓦九弁豊浦寺-2遍歴  2-4 瓦九弁若草遍歴
飛鳥寺と豊浦寺は同時期でどちらが古いか判定できる?  豊浦寺で再彫りして その後若草伽藍にも転用

 

  2-4 四天王寺8弁出土         2-4 吉備池廃寺出土

    四天王寺                  吉備池廃寺

四天王寺では、星 蓮子ともはっきりとしているが、吉備池廃寺ではなんだか解からない状況まで利用する。

このような形で聖徳太子関係者は、許容していたのか?又はそれなりの由緒を重んじる思想があったのか不明!

 

蓮子(中央の点)の形、数が変化し 星の形が不明解になり再彫りされているなど、同じ笵を数十年使い続けて

いる。同じ瓦窯で各寺院へ供給していたからであろうが、ここまで転用する理由があったのかもしれないが?

考古学、建築史学では何も触れていない。

 

この同笵品の利用過程から時代考証をされているが、素弁軒丸瓦星組)の飛鳥寺、豊浦寺のどちらが古い

か判定できるのか?はなはだ疑問である。また、飛鳥寺十弁と類似している坂田寺十弁とはどちらが古いか判定

できるのかも難解である・・・・・通説「最古の寺院は飛鳥寺」が根底に有るからの判断ではないのか。

 
     2-4 飛鳥寺10弁出土      2-4 坂田寺十弁瓦-2
       飛鳥寺式十弁             坂田寺式十弁

    

 

精緻な文様が、新しい瓦で有ると判断される説があるが、その瓦窯にいた瓦工、絵師、彫師の力量ではないか?

飛鳥時代以降は、素晴らしいデザインの笵が製作され、美術的にも評価が高くなるのですが・・・・。

 

    飛鳥時代建立とされる寺院の、瓦の出土、瓦窯について調べてみました。


        2-4 蓮の花写真ー2

        【参考】  第Ⅲ章 考 察 - 奈良文化財研究所 PDF

 

 

  飛鳥時代建立寺院の瓦

        

  

1)飛鳥寺  : 日本最古の「寺院、伽藍配置、瓦」の三冠王です。通説では!


    

 

飛鳥寺

瓦窯は南大門と一本柱塀で区画された飛鳥寺寺院地外

主体所用寺院

 

飛鳥寺瓦窯

扶余 東南里錦城山の北において調査された瓦窯跡と飛鳥寺瓦窯が造的に同一のものであると云われる。

【近傍】寺院地外、東南50m丘陵西斜面

 花組の瓦はこの瓦窯で作られた。花組のみ出土?

 星組は御所市の上増遺跡や五条市の岡燈明遺跡が想定

・飛鳥寺・豊浦寺?

 

造瓦集団

「花組」「星組」の2つの造瓦集団が生産していた

 

 

瓦の型式

名称・特長

同箔品の波及寺院

1

飛鳥寺Ⅰ式

⑭ 素弁十弁軒丸瓦(花組)

    出土量が一番多い  塔、金堂を中心に出土

豊浦寺・和田廃寺

古宮遺跡・高麗寺660年

2

飛鳥寺Ⅱ式

⑨ 素弁弁軒丸瓦星組) Ⅰ式の次に多い 

              講堂、廻廊付近で出土

  ⅠとⅡでは 造瓦集団、胎土、焼成は異なる

豊浦寺

3

飛鳥寺式Ⅷ式

⑧ 素弁軒丸瓦星組)  豊浦寺で主体使用

   飛鳥寺では出土は僅かで、豊浦寺向けか?

   同箔品波及が箔傷、改修で明解に判明している

飛鳥寺、豊浦寺、斑鳩寺吉備池廃寺、四天王寺、新堂廃寺、

 

 

そのほかの型式も出土するが、後補等僅かである。

 

 

御所市

上増遺跡

飛鳥寺や豊浦寺に瓦を供給した窯の可能性がある

「星組」素弁九葉蓮華紋軒丸瓦は飛鳥寺と豊浦寺金堂に同箔例がある。遺跡が窯業生産遺跡である確証はない

 

 

五条

岡燈明遺跡

飛鳥寺や豊浦寺に瓦を供給した窯の可能性があるが、

遺跡が窯業生産遺跡である確証はない

 

 

 

 

考察

 

・百済には六、七、八葉蓮弁しか検出されていない。大半は、八弁である。

 八葉蓮弁以外の九、十、十一弁は、日本独自と判断される。

 

・飛鳥寺で百済式の花組九葉蓮弁の検出数が極端に少ないのは、所用の瓦が不足
 し他
瓦窯から補充されたのではないかとも推定できる

 豊浦寺の平吉遺跡瓦窯等からの転用、拝借したものか?

 

・笵の文様のデザインは百済の瓦工の範疇ではなく、絵師や彫刻師の仕事とする
 と、
蘇我馬子の意向が百済には無いデザインを絵師等に要望し蓮弁の数を増や
 した
可能性が有る。馬子の独創的デザインかもしれない。

 

 

 

 

2)豊浦寺 : 飛鳥寺より古い建立とされる史料も有る。

 

   敏達天皇11年(582)には、向原殿の寺を桜井道場とし翌12年(583)には司馬達等(しめだちと)の娘、

   善信尼とその弟子2人を桜井道場に住まわせている。この3人の尼は崇峻天皇元年〈588)に百済に留学し、

   崇峻天皇3年〈590)に帰国し、前のように桜井寺(桜井道場)の住持となった。

   こうして桜井寺という尼寺が整備されると、僧寺(法師寺)の必要性が高まってくる。そこで飛鳥寺建立が発

   願され、桜井寺の中に現場事務所が崇峻元年に開設される。

   推古天皇元年(593)には豊浦の宮を寺とし桜井寺の機能を移すことになり、豊浦寺が史上に登場する。

 

   この背景で注目したいのは、蘇我馬子の私的寺院であることと、善信尼とその弟子2人が仏教のトップに位置

   づけられていたことである。飛鳥寺より早く593年に、馬子も女性上位の仏教界での尼僧たちの要望を最優

   先し豊浦寺(尼寺)を先行創建させた・・・とも考えられる。

 

   瓦窯も豊浦寺のために専用窯を作り、花組、星組、雪組・・・の高句麗、百済系の色濃い型式と 女性らしく

   各堂ごとに笵の文様を独創したりして採用したのではないか・・・とも考えられる。

   素弁軒丸瓦星組)が飛鳥寺で少しだけ出土しているのは、豊浦寺の瓦窯から送られた瓦と考えたい。

 

  

 

豊浦寺

30種類を越える瓦を検出している。

 

 

瓦窯-1

【近傍】平吉遺跡瓦窯   西念寺山窯  南100m

 

 

瓦窯-2

【京都】隼上り瓦窯跡(宇治市)直線距離で50 km

   豊浦寺専属窯ではない(詳細下記)

高句麗系軒丸瓦5種生産

4種類が豊浦寺跡出土

 

その他の瓦窯

 明石市高丘窯 岡山県末ノ奥窯 御所市上増遺跡

いずれも遠隔地

 

瓦の型式

名称・特長

同箔品の波及寺院

1

飛鳥寺式Ⅷ式豊浦寺Ⅱ式b

⑧ 素弁軒丸瓦星組) 豊浦寺で主体使用

   飛鳥寺では出土は僅か

   同箔品波及が箔傷、改修で明解に判明している

飛鳥寺、斑鳩寺、吉備池廃寺、四天王寺、新堂廃寺、

2

飛鳥寺Ⅱ式

⑨ 素弁軒丸瓦(星組) 金堂で主体的に使用

  笵傷の無いものから磨耗したものまでが見られる

 

3

豊浦寺b

⑰ 素弁八葉軒丸瓦 雪組

   創建時の瓦、塔、講堂より早く使われた

隼上り瓦窯跡

4

豊浦寺a

⑯ 素弁八葉軒丸瓦(花組)   塔  所用

隼上り瓦窯跡

5

豊浦寺a

                講堂 所用

 

 

隼上り瓦窯

・昭和57年発掘調査 昭和61年国史跡指定

・5世紀末の瓦塚古墳 6世紀の隼上り古墳群など遺跡が濃密な地域である。

・4基の瓦窯7棟の掘立柱建築跡が出土し飛鳥時代の造瓦工房も確認されている

・5種類の軒丸瓦を検出されており高句麗4、百済1に分類される。

豊浦寺跡から出土するものと4種類が同笵品とされている。

・全てが八葉でありそれ以外は無い。ということは、八葉以外の九~十一葉の飛
 鳥寺
の瓦は隼上り瓦窯では無く平吉遺跡瓦窯と推定される。
(飛鳥寺瓦窯が花組専用)

 

 

考察

 

素弁弁軒丸瓦星組)は豊浦寺で多用され、飛鳥寺には出土が少ない。

 飛鳥寺瓦窯は「花組の専用生産工房」とすると、

 星組は豊浦寺近傍の平吉遺跡瓦窯、西念寺山窯、又は遠隔地だが御所市の上増
 遺
跡、五条市の岡燈明遺跡で生産していたと推定される。

 (隼上り瓦窯跡では八弁以外は出土していない)

 

素弁十弁軒丸瓦星組)も平吉遺跡瓦窯、西念寺山窯、御所市の上増遺
 蹟、
五条市の岡燈明遺跡で生産し豊浦寺に供給し、また飛鳥寺にも供給してい
 た可能
性が高い。

 

⑰素弁八葉軒丸瓦(雪組)⑯素弁八葉軒丸瓦(花組)などは、隼上り瓦窯跡
 生産
され京都から運ばれた可能性が高い。

 

・よって飛鳥寺の⑭素弁十弁軒丸瓦(花組)生産地は飛鳥寺瓦窯と特定出来る。

 

 

 

 

3)坂田寺 : 創建建立の確証は史料と瓦の遺物  日本書紀の587年が事実なら最古?

 

・『日本書紀』用明二年(587)四月丙午条に、鞍部多須奈が用明天皇の病の回復を祈願して出家し、丈六仏を造

 ることを奏上したことを記している。

・推古十四年四月壬辰条に鞍作鳥が元興寺(飛鳥寺)の丈六仏を鋳造し、金堂の戸を壊さずにおさめたことから、

 五月戊午条に、近江の坂田郡の水田20町を財源、として金剛寺を造営したことが記されている。

 

この2説が有るが、明解に判定されていない。

 

この坂田寺は飛鳥川を少し遡った丘陵端部の傾斜地に造営され、飛鳥期の伽藍は明らかでないが、奈良時代の堂

跡が検出されている。出土した軒丸瓦には、素弁系7型式、単弁系9型式、複弁系8型式などがあり、これらの

出土瓦は、飛鳥寺や若草伽藍が造営された6世紀末から7世紀の初め頃に、この地に鞍作氏の氏寺が建立された

ことを物語っている。だが、その伽藍配置は?その寺域は?となると、度重なる発掘調査でも判明していない。 

 

 

 

坂田寺

 

 

 

瓦窯-1

詳細不明

 

 

瓦の型式

名称・特長

同箔品の波及寺院

1

坂田寺式

⑱ 単弁八弁軒丸瓦    肉厚の蓮弁 百済瓦と類似

           後の尼寺廃寺に同箔品

 

 

 2-4 坂田寺瓦八弁

2

坂田寺式Ⅰ型

⑲ 素弁十弁軒丸瓦(花組)飛鳥寺と類似する。

飛鳥寺の花組が粗雑化した弟子筋の作という説も有る

同箔品では無く独自文様

3

坂田寺式5型

⑳ 素弁七弁蓮華文軒丸瓦

七弁は飛鳥寺には無い

4

文様付軒平瓦

⑳ パレット唐草文手彫り軒平瓦文様入りは最古?

高句麗などの影響

 

 

 

 

 

特長

奈良時代以前の軒瓦が30種以上、創建期のものと思われる軒瓦が約12種ある

 

考察

 

飛鳥寺の⑭素弁十弁軒丸瓦(花組)と坂田寺⑲は文様が類似するが同箔品では無い。

坂田寺独自とすると、飛鳥寺との比較でどちらが古いのか判定できるのか?

 

花組の文様が若干粗雑であったから弟子の作成とするのも、飛鳥が最古という通説に基づく判断であり、坂田寺で花組が百済の箔を採用し生産し、それを改善した箔を飛鳥寺瓦窯で生産したとも判断できるのではないか?

 

⑱単弁八弁軒丸瓦は、百済の瓦と一番よく類似している。
 素弁と単弁の差は有るが。

 

   

           2-4 坂田寺七弁平瓦                           
             ⑳ 
素弁七弁蓮華文軒丸瓦 唐草文軒平瓦

 

 特にこの唐草文軒平瓦は高句麗などの影響を受けており、我が国では最古のものであり、法隆寺の前身である若草

 伽藍でも同じ軒平瓦が用いられている。 

 

 これらの出土瓦は、飛鳥寺や若草伽藍が造営された6世紀末から7世紀の初め頃に、この地に鞍作氏の氏寺が建立

 されたことを物語っている。だが、その伽藍配置は? その寺域は? となると、度重なる発掘調査でも判明して

 いない。 

 

 

4)四天王寺 : 聖徳太子が四天王に発願し、推古元年(593)に「荒陵」に造営し始めたとされる。

 

 『聖徳太子伝暦』(平安時代前半)には、崇峻即位前年(587)に「玉造の岸のほとり」に創建した四天王寺を593年

 に壊して現在の地に移したという記述がある。

 

星組の軒丸瓦を作った集団は、飛鳥寺から豊浦寺、若草伽藍、木之本廃寺(吉備池廃寺)、四天王寺へと移動し

ていったと推測できるという。和田廃寺や山田寺から出土した軒丸瓦にも、星組の系列に属するものがある

 

 

四天王寺

 

 

 

楠葉平野山瓦窯

窯では1~5段階に箔傷進行段階が整理されており長期にわたって同じ箔が使用されたことが分かる

 

 

 

 

 

 

瓦の型式

名称・特長

同箔品の波及寺院

1

飛鳥寺式Ⅷ式

⑧ 素弁軒丸瓦星組)  豊浦寺で主体使用

  飛鳥寺では出土は僅かで、豊浦寺向けか?

  同箔品波及が箔傷、改修で明解に判明している

飛鳥寺、豊浦寺、斑鳩寺吉備池廃寺、四天王寺、新堂廃寺、

2

 

⑩ 素弁八弁蓮華文軒丸瓦

  法隆寺若草伽藍の金堂の所用瓦のひとつである

若草伽藍と同箔で、四天王寺のほうが箔傷が進
  行し
ていることから法隆寺から瓦箔がもたらさ
  れたこと
が知られている

 2-4 四天王寺8弁出土

3

 

単弁八弁蓮華文軒丸瓦

百済大寺に比定される吉備池廃寺(奈良県桜井
  市)か
ら瓦箔がもたらされたもので、その後、
  海会寺(大阪
府泉南市)に2枚の瓦箔のうち1箔
  が継承される

 2-4 四天王寺単弁八弁

 

四天王寺瓦

若草伽藍

難波宮出土瓦

笵型劣化の誤差という問題もあり、文様劣化の程度によりどの程度厳密に先後関係を判定できるのかは「不明」とするのが学問的により正確な態度と思われる。

 

 

 

考察

 

・四天王寺独自の瓦は、出土していない?

・飛鳥寺、豊浦寺、斑鳩寺などの同箔品を採用して建築されたとすると、寺院の
 建立
は620年頃とされるが、593年建立を否定できるものなのか難解である。

 

 

   単弁八弁蓮華文軒丸瓦は、日本最初の天皇勅願寺院である百済大寺に比定される吉備池廃寺(奈良県桜井市)か

ら瓦箔がもたらされたもので、その後海会寺(大阪府泉南市)に2枚の瓦箔のうち1箔が継承される。

 


 

5)瓦の時代判定

 

以上のように、古代の瓦の論考、考古学調査のによる年代考証は、確定的な証拠によるものは少なく、出土品の

数、場所でこの建物に使われていたと推定されているなど、考古学の証拠主義と、建築史の推論主義、日本書紀

等の文献主義が、折衷されたものが瓦の工学になっているようです。

もっと、考古学的な証拠による確証が、明解になっていたのかと考えていましたが・・・・。

 

 類似した瓦当文様は、単に類似しているにすぎないのであって、瓦の論考のうち類似した瓦文様同箔品)

伝播することは、事実として指摘されているかもしれない。

しかしそれは日本書紀などの文献による分析の結論が先にあって、瓦はその結論を補填する素材に利用されて

いるに過ぎないのではないか・・・とも考えられる。




 

      

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 瓦の歴史のまとめ




  瓦の歴史関連の文献は、数が多く有る。寺院跡、瓦窯跡などの発掘調査結果による、研究資料も各年代によって

数多く検索できる。朝鮮半島との関連も日韓の専門家が論議している資料も多い。 

 

しかし、建築史学、考古学の融合された文献はお目にかからない。

建築史学は、日本書紀などの文献資料を基に自己の解釈で寺院建立年代を特定し、瓦当文様で時代判定を補填す

ることで論評し、考古学者は、建築史学の寺院建築年代を基に論評、判断しているに過ぎないように思える。

 

① 飛鳥寺、豊浦寺の瓦、素弁弁軒丸瓦星組)は、どちらが最古か瓦当文様だけでは判定できない。

② 飛鳥寺、坂田寺の瓦、素弁十弁軒丸瓦(花組)も同様である。

② 四天王寺は創建時と確証の有る瓦は出土していない。同箔品のみ出土し、それで建立時代を判定している。

 

文様の種類別の年代考証は、デザイン的に序列が並ぶように整理されるものなのか、各出土瓦が大量に有るなら

ば可能であろうが、建築部材的な年代考証を強引に当てはめようとしているのではないか、とも思われる。

文様のデザインは、瓦工、絵師、彫師の独創的な形状が採用されたのではないか。百済では、大半八弁であった

のが、日本では九~十一弁と増えるのは、

・ 百済の当時の最新型で、未だ韓国では出土していない瓦当文様である=百済の瓦工のデザイン

・ 日本での独創的なデザインである。蘇我馬子は蓮弁の数が少なかったことが気に入らず増やした?

かの判断も出来ていない。

 

飛鳥寺式素弁軒丸瓦星組)の幾何学的にひどいデザインも、「百済の最先端のデザインだ」と百済の瓦工

に云われたことが、50年以上も転用された理由かもしれない。(その間新しい型も伝来していたのだろうが)

同箔瓦の相違点による年代考証などは、傷、磨耗、再彫りを繰り返していることが、また、難解である。何故、

新しい箔を彫らないのか、これが一番よく理解できない。蘇我馬子、聖徳太子の系列寺院だけのことだとも考え

られるが・・・・奈良時代以降は、磨耗した瓦文様はあまり見受けられないようである。

 

 

寺院跡の出土瓦は、

・建立、再建時の屋根葺き作業中に、落下し破損したもの(数は少ないであろうが)

・火災、地震で倒壊して破損したもの(数が多い)

・やたらに破棄しているわけではない、千年持つ瓦なので他の寺院の瓦を流用、転用してきたものが余った。

 などと推定されるが、出土した状況から有る程度判定できるのではないか?(資料が探査できず)

 

瓦窯跡では、

・出土した瓦当文様が、寺院出土と同箔品として特定出来るならば、これは確度が高いと思われる。

・建立寺院の近傍に窯が発見されるのは、運搬利便性から当然であるが、200kmも離れた窯から運搬したのか

 水路と瓦運搬船があれば、四天王寺など海岸に近い寺院では想定できるが、飛鳥にまで本当に運んだのか疑問

・瓦箔の木型は持ち運びは容易で岡山にまで運び、そこの窯で近傍の寺院のために焼いたとは考えられないのか。

 

 

飛鳥寺は、「最古の寺院の一つの候補」であるだけであり、瓦の資料からも最古である明解の根拠は、得
  られなかった。
 

このように、数多くの難解な課題が有るが、前述したが「建築史学、考古学のコラボ」による積極的な情
  報交換
と、科学的年代判定の技術を駆使し、定量的、論理的な今後の資料発表に期待したい。

発掘調査が、現代では容易にできない環境で有るが、今後、更なる瓦窯の遺跡の発掘にによる新発見がな
  され、
年代考証の確度が向上することに期待したい。

 

 

    
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