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寺社建築文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源と変遷、文化財の諸問題を探訪しています。 又文化財拝観資料も記載しています。
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カテゴリー  [ 5-4 飛鳥寺と造寺工 ]

寺院建築の起源 続きです。


5-4 飛鳥寺と造寺工     

 


5-4

 飛鳥寺と造寺工

 

 先ずは、「仏像、経経、僧、仏寺」の『四点セット』が

    「仏教伝来」の受容条件であることから、
『仏寺』の伝来に探求してみました。


             2-4 飛鳥寺遺跡 
                      飛鳥寺伽藍配置
 

 

1)飛鳥寺建立までの変遷     『古代韓日仏教文化交流に関する研究』などより

   蘇我氏などの奉仏派豪族がこれを受容して、その後、国家的・社会的な仏教に展開.発展して
  いくために、
韓国仏教の支援と指導が続いた歴史を探求する。

 

  ① 552ー欽明天皇13年  
   日本書紀 仏教公伝・・・仏像と経典のみで、僧、仏寺は伝来していない。

   仏教が一方的に伝えられただけで、日本が仏教をを受け入れをしなかった

   欽明天皇は仏教の受容を強いられる立場ではなかったので、百済から贈られた仏像や経典を
   奉仏派の蘇我稲
目(馬子の父)に取らせ、自分は中立に立っていた。仏教を、百済から日本
   に贈与された仏教だと見ている。

   554 五経博士1 人、僧9人渡来

 

  ② 577 敏達天皇6年   
   造仏工・造寺工6人が渡来ー日本書紀

 大別王が敏達天皇の特使として百済に派遣された人物が、経論の他に律師や禅師、比丘尼、
   呪禁師、造仏工、
造寺工などを伴って帰国している。仏教寺院建立を目的とした人材の派遣
   要請だったと考えられている。 

   『百済国王付還使大別王等。献経論若干巻、并律師。禅師。比丘尼。呪禁師。造仏工。
   造寺工、六人。遂安置於難波大別王寺』
『難波大別王寺』のためと読めるが、
   詳細不明な状況。

   579ー仏像渡来  新羅より

 

③ 583ー敏達天皇12年   
   仏像を馬子の私邸の中に奉安ー元興寺伽藍縁起並流記資財帳

   蘇我稲目が百済の送った仏像と経典を馬子は自分の家に奉安し私的な信奉を行なっていた。
   蘇我馬子、石川の宅に仏殿を造る。 元興寺縁起

 

  ④ 584敏達天皇13年   
   勒石像を馬子の私邸の入ロに奉安ー日本書紀

   仏像は「難波の堀江」に捨てられ、それ以後、蘇我稲目のあとを継いだ蘇我馬子の私邸に
   仏像はなかったが、
鹿深氏が百済から「弥勒石像」一躯を持ってきて 蘇我馬子は「宅の
   東に仏殿」をつくり弥勒の石像を安置
した。このとき鞍部達等は仏舎利を馬子に献上した。

 

  ⑤ 585ー          
   馬子は豊浦に日本最初の仏塔を造るー日本書紀

   仏像を自宅の家の入口に安置して、より多くの人々に崇拝の便宜を図り、尼僧に仏像を
   崇拝供養させる仏教
儀礼の進展まで到っている。
   釈迦の涅槃日を記念して蘇我馬子の根拠地の「豊浦に日本最初の仏塔」の造営が始まった。

   馬子は「大野丘の北に塔を起て」、達等が献上した舎利を塔の柱頭に蔵めたという。

   塔の形状は不明だが木造かも?大野丘では「起て」、法興寺では「建て」という表現
   大野丘の塔が一本の柱
であった可能性もある。

 

   仏像・仏典だけでなくて、伽藍が形成され、仏教儀礼を行なう僧尼が出現した。

   仏教の社会化に危機感を感じた敏達天皇は、疫病の流行が蘇我馬子などの奉仏に因るといっ
   て、破仏行為を
敢行して仏像・仏殿などを破壊し、善信尼などの僧尼を還俗させた。

 

   蘇我馬子が発病し、仏教への帰依を敏達天皇に発願したので、敏達は蘇我馬子に限って奉仏
   を許可した。

   馬子は善信尼らに弥勒像を供養させて病気が治った。

 

  ⑥ 587ー     
   法師寺を建て、戒師の資格のある僧尼を将来

   この願いを用明2年(587)、来日した百済の臣が聞き、彼は百済の尼僧の受戒法を次のよう
   に語っている。

   尼僧はまず、尼寺に10人の尼師を招請して戒を受け、また法師寺に行って10人の法師を招
   き受戒する。
ここで、尼僧の受戒のためには20人の戒師が要り、尼寺と法師寺が必要であ
   るが、当時日本には善信尼ら
が居住する尼寺はあったが、法師寺と戒師の資格をもつ20
   の僧尼がいなかった。

   それで、仏教の正統的受戒のためには、まず法師寺を建て、また百済から戒師の資格のある
   僧尼を招かなけ
ればならなかった。 

   587- 馬子は、飛鳥寺建立を発願

 

⑦ 588ー    
   僧侶や造寺工・露盤工・匠工・絵画工人の渡来ー日本書紀
   蘇我馬子は崇峻元年(588)、百済に要請し、僧侶や造寺工・露盤工・匠工・絵画工人などの
   法師寺の建立に
必要な要員を遣わしてもらった。 

   この時、日本に来た百済僧は6人で、受戒のため必要な20人の戒師には及ばなかったので、
   善信尼らはや
むを得ず百済に行って受戒するしかなかった。これが日本最初の百済留学
   問僧であった。
 

   588 馬子は、飛鳥寺建立を発願

 

  ⑧ 590ー    
   善信尼ら五人の尼僧が帰国

   百済に行って受戒した善信尼ら五人の尼僧が帰国し、尼寺用として造営中の櫻井寺(豊浦寺)
   に
宿泊。

   588年、百済から来た僧侶6人は法師寺の建立予定地に假僧房を建てて居住した。
   現在、当時百済の法師寺や尼寺について確かめる方法はないが、《大日本仏教全書》による
   と
『同地域の僧と尼が15ごとに午前中一寺で会同し、読誦した戒律の条目に基づいて各者
   に該当する罪を絵
像の前で懺悔告白する。このような会場の寺は、法師寺と尼寺が交代する
   が、法師寺と尼寺は鐘の音が聞こ
える所に位置して、おたがいに容易に往来する。』と書い
   てある。
   百済の仏法を日本に移植するためには法師寺の建立が必要であり、また法師寺の建立のため
   百済の僧侶や技
術者らを招いたのであろう。 

 この法師寺は今日の飛鳥寺に当たるとされ、尼寺は豊浦寺とされている。


  ⑨ 592ー 推古元年
   飛鳥寺 着工「仏堂( 金堂) と歩廊( 回廊) を起(た)つ」・・・完成ではない

    593ー 飛鳥寺 心柱 塔心礎に仏舎利を納める。心柱を建てる(塔本体の着工)

      刹柱を建てた日に、蘇我馬子ら百余人は百済の服を着用して参列したという
                                  (扶桑略記)  
    595ー 高句麗から慧慈(えじ)、前後して百済から慧聴(えそう)の二僧が渡来 

                    二人は法興寺の唆工を予定して、招請された。
    596ー 推古4 飛鳥寺完成     48ヶ月の工事期間で完成している。
          善徳蘇我馬子の息子) を寺司にする、

        2僧が住む飛鳥寺完成、塔に露盤があげられた  

   ⑩ 完成後

    

  599- 推古7ー 大和に地震

  602ー 推古10ー 僧1人百済より  僧2人 高句麗より渡来

  605ー 推古13 黄金300 両 高句麗より献上される

  605ー 推古13 鞍作止利を造仏工に任命、飛鳥寺本尊の釈迦三尊像(鞍作止利作)
       作り始める 

      飛鳥寺本尊の釈迦三尊像(飛鳥大仏の銅・繡各1体と脇侍を造る

      大仏完成は2つの記述が有る。

  606ー 推古14 飛鳥大仏完成、金堂に飛鳥大仏が置かれる・・日本書紀・・
        1年間で仏像が出来たか?

  609ー 推古17 飛鳥大仏が完成し、飛鳥寺に置かれた・・・・
                             元興寺伽藍縁起並流記資財帳

 

  完成後、10年以上経過して本尊が安置されたのか? それまで別の本尊・・・馬子の仏像

  596年完成とは、塔だけなのか、  諸説がありそうです。


2)飛鳥寺の伽藍完成は何時 

  『日本初期』の推古天皇4年(596年)11月  「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」

  「露盤銘」にも「丙辰年十一月既(な)る」丙辰年は596年。

  しかし、前述のように、

  飛鳥寺本尊の釈迦三尊像(鞍作止利作)の造立発願は推古天皇13年(605年)
   完成は1~4年後である。


            2-4 飛鳥大仏 飛鳥大仏(現存)

  日本書紀に拠れば止利佛師が609年本堂内に安置する折りに入り口を解体することなく納入し
  下賜された記録
があり現在の釈迦如来像と推定される。釈迦三尊像(飛鳥大仏)は創建当初に
  据えられた石造台座の上に安置
されている。
  発掘調査の結果、この石造台座は創建時から動いていないことが明らかになった。

  この史料、調査結果では609年に本堂があったことになるが美術史家の専門家の説と異なる。

 

  ① 毛利久・・・二期造営説 ・・・・・・・・昭和43年(1968)4月に「仏教芸術67」

        現存の釈迦如来像(飛鳥大仏)は推古天皇4年に渡来系の工人によって造立されたもの
    で、推古天皇13年から
造られ始めたのは東金堂と中金堂の本尊であったとする、二期造
    営説を唱えた。

 

  ② 久野健、松木裕美・・本尊交代説・・昭和51年(1976)に「美術研究」の300号と301号
     蘇我馬子が所持していた弥勒石像が当初の中金堂本尊で、後に鞍作止利作の釈迦三尊像
     が本尊になった。
この弥勒石像は敏達天皇13年(584年)鹿深臣(かふかのおみ)が
     百済から将来し、馬子が「宅の東の仏
殿」に安置礼拝していたものである。
     久野説では、飛鳥寺中金堂跡に現存する本尊台座が石造であり、この台座が創建時から
     動いていないことか
ら、その上に安置されていた仏像も石造であったと推定する。

 

  ③ 町田甲一、大橋一章・・・・一期造営説     

    中金堂本尊は交代していないとの立場を取る。推古天皇4年の「法興寺を造り竟りぬ」
     は、『書紀』編者が
塔の完成を寺全体の完成と誤認したものとみなし、寺の中心的存在
     で仏舎利を祀る塔がまず完成し、
他の堂宇は長い年月をかけて徐々に完成したとみる。

  今日では、この説が有力となっている。・・・・wikiでは、記述されている。

  もしこれが事実なら、
      飛鳥寺の建立は、推古天皇14~17年(606~609年)ということになる。

      これは、日本建築史を大きく変更するものとなる。
      日本最古の寺院・・・最古の瓦・・・ レッテル張り替えねばならない! 

  

   
④ 再建の「仮説」・・・・推古地震で倒壊その後再建・・・史料の記録はないが?
    飛鳥寺は、
    596年一応の伽藍が完成したが、
    599年ー震災で倒壊した。
    602年ごろから再建、605年「黄金300両 高句麗より献上される」などの支援を受け
    606年ごろ完成し、
606(609)年飛鳥大仏が安置された
    ・・・・・蘇我氏の寺ではなく
官寺となった。


  ● 地震の史料 

  ・『日本書紀』巻第二十二  推古天皇七年夏四月乙未朔辛酉。

   地動。舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神

   地震が発生し建造物が悉く倒壊した。四方に命じて地震の神を祭らせたという  

   (地鎮祭の起源?)  

    本邦正史に現はれる最初の大地震

 

  ・『聖徳太子伝暦』
    春三月。太子候望天気。奏曰。応致地震。即命天下令堅屋舎。夏四月。大地震。
    屋舎悉破。太子密奏曰。天為男為陽。地為女為陰。陰理不足。即陽迫不能通。
    陽道不填即陰塞而不得達。故有地震。
    陛下為女主居男位。唯御陰理。不施陽徳。故有此譴。伏願徳沢潤物。仁化被民。
    天皇大悦。下勅天下。
今年調庸租税竝免。

    平安時代前期に成立した「聖徳太子伝暦」では 地震が起きた原因は聖徳太子が密かに推古
    天皇に説くには、天は男で陽、地は女で陰の理(ことわり)を持つものであるのに今は女の
    主が男の位についている不自然さが、
天の譴責(とがめ)を地震という形でもたらしたもの
    だと、太子が地震を予測して建物の補強を促し、地震後
は税の免除を建言したと伝わる。

 

   これ以上の史料を探索できていない。

   日本書紀が飛鳥寺ついて、毎年のごとく記述しているから、
    倒壊したら記述しないわけはない

                        ・・・・
 仮説でした!

 

 

3)『造寺工』の考察

   『造寺工』、現在の宮大工の事 最近の宮大工は全国で100人程度になり、文化財修理の工程
  もそれらの人
数のやりくりで決まっているようです。 

  6世紀の造寺工は、どのような状況にあったのか探訪してみます。 

 

 【ケースー1】 日本書紀を重視した場合の造寺工
   577年の造寺工渡来時から 寺院建築技術が発展したとするケース 
                日本書紀 蘇我馬子関連の記述重視

 

 【ケースー2】 史料を参考程度にした場合の造寺工

   6世紀初めから有る程度の寺院が建築されていた。散見される史料も肯定的に考慮する。

 

   この2つのケースに分けて 寺院建築の起源に迫ります。

   その前に、飛鳥寺などを仏殿を造るのにどのくらいの大工さんが必要なのかを確認します。

 

 ● 造寺工(宮大工)の所用人数

  ① 昭和期の再建復元建築の概要


   2-4 法輪寺三重塔    2-4 薬師寺西塔 
 
   法輪寺三重塔再建工事期間 昭和48年6月~49年7月  13ヶ月  記録より延4500人

                4500人を体積当りの人工を計算=5.0人/m3・日 となる。

   薬師寺西塔 再建工事期間  昭和52年8月~54年4月  20ヶ月

 

  ② 飛鳥寺の規模の概算
   ・飛鳥寺塔基壇:発掘調査より壇上積、方40尺(12m)より法隆寺五重塔と同形と推定。

   ・飛鳥寺中金堂:『護国寺本諸寺縁起集』によれば、三間四面 二階 在裳階

    基壇は東西21.2m南北17.5mの切石積基壇山田寺金堂や法隆寺西院金堂の基壇と同形。

    法隆寺金堂 平面 18.7m×15.4m=288㎡ 高さ16m 体積 4600m3 

  ③ 飛鳥寺文献記録工事期間の情報

    588( 崇峻元) 飛鳥寺造営開始  

    590( 崇峻3) 10月 寺に使う用材の切り出し       

    592( 崇峻5) 10月 仏堂(金堂)と歩廊(回廊)を起つ本格的な造営が始まったと解釈

    593( 推古元) 春正月 塔心礎に仏舎利を置き、心柱を立てる

    596( 推古4) 11月 飛鳥寺完成・・金堂も完成と想定・・心柱建てから47ヶ月(遅い)

 

 

 

平面m

高さm

体積m3

延人工

/m3

工期

/日

1

法輪寺
三重塔

6.32

23.8

951

4,500

5.0

13

17

2

薬師寺
西塔

8.8

33.63

2600

13,000

5.0

20

32

3

飛鳥寺塔

6.39

32.5

1330

6,600

5.0

47

7

4

飛鳥寺
中金堂

288㎡

16.0

4600

23,000

5.0

49

23

5

飛鳥寺塔

6.39

32.5

1330

13,300

10.0

47

14

6

飛鳥寺中金堂

288㎡

16.0

4600

46,000

10.0

49

47

 
    3、4、飛鳥寺塔 中金堂   現代の工事効率で建築した場合の人数
    5、6、飛鳥寺塔 中金堂   現代より50%効率が低下した場合で算定

    (寺院建築の工事情報、規模等明解な資料が、
              現在未収集なので今後も調査し 確度を向上させる予定)

 

   法輪寺三重塔の復元工事の宮大工の総人工は4500人と記録されている。

   三重塔の平面積に総高さを掛け、体積を算定し1m3あたりの人工を算定・・・5.0人/m3

   これを基準に各建築の総人工を算定し、工事期間で割り、1日の宮大工の人工を算定した。

 

  ・飛鳥寺の塔は、14人工/日と少なく、工期が4年と異常に長いことが解かる。
   (何故だかは、今後の課題)

  ・塔は、途中で中断していたと判断されることになる、仏像の製作等の要因と考えられるが、
   別途探訪する。

   この時期に造寺工(宮大工)は仏殿1棟に『50人』程度が必要であったと推察される。


 

 【ケースー1】 日本書紀を重視した造寺工の状況ー1
   ・577年の造仏工・造寺工等6人が、渡来から587年の建立発願までの10年で、50人以上の

  日本人造寺工を育成できたか否か?いや!


   ・この時期 豊浦寺(向原寺)、四天王寺、坂田寺(金剛寺)、渋川廃寺等数件の寺院が併行
    して
建築されていたとすると、200人以上の日本人造寺工が必要となってくる。

   ・現在の日本の宮大工は、100人以下と云われていること、当時の総人口500~600万人な
    どを
考えると、優秀な技能を身につけられる人材の集約は、かなり困難であったのでは
    ないかと推
察されます。            

 

【ケースー2】 史料を参考程度にした造寺工の状況ー1
   ・ 577年ー 以前から有る程度の「日本人の造寺工」が育っていた。
   ・ 古墳時代の遺跡から高層大型建築の技術は保持していた(装飾、彫刻等は遅れていた)
   ・ 『522年 坂田寺(金剛寺)の草庵』
   ・ 『538年 百済の聖王、仏像と経論を倭に献上』造寺工も渡来していた可能性もある?

   ・国策として、宮殿建築、神社建築の大工の優れた人を100人以上集めを渡来人に教育をさ
    せた
のでは、とも考えられます。
    素人から大工1人前にするのに、最低でも10年と言われています。間に合わない!

 ●『日本人造寺工の育成』 

  
【ケースー1】 日本書紀を重視した造寺工の検証
  ・仏教寺院建築は、6世紀までは日本に無かったことは間違いなく 最初に出来た寺院を見て
   皆驚愕したことは容易に予想されます。

   基壇:版築工法、柱下:礎石 軒裏:斗栱、屋根:瓦葺、壁:白、窓:緑、架構:朱色、金具:金色・・・・・これは驚いたと! 

  ・この新技術の修得は、蘇我馬子をはじめ政権の大きな課題で国策として造寺工を育成したと考えられます。

 

  ① 渡来した百済の造寺工は何を持参したか
 渡来したのは、人間だけでなく膨大な史料が併せ持参したと予想される。
 史料にその持参内容を記述したも
のは、未収集で不明ですが、
 下記のものが想定できます。

    これらが無ければ10年間で数百人の日本人に建築技術、材料加工の技巧、美術的感
 覚・・・・
を伝承、育成することは出来ないと判断します。
 

 

    1、建築模型  

  ・588年の史料

     『元興寺縁起』 戊申の年(崇峻元年・588)百済から

     「六口の僧、名は令照律師・弟子恵念、令威法師・弟子恵勲、適厳法師・弟子令契、及
     び恩率首真等四口
の工人たてまつ並びに金堂の本様を送り奉りき」と記されています。

 

  「本様」の意味は「基本的な様式」とされるが 設計図、又は模型ではないかという
     説が有るが定かで
はない。

     絵図などの紙面史料も沢山渡来したであろうが、絵画などの史料は良いが、建築は、
     模型、又は、斗栱
などの実物(船で運べる大きさ)が組み立てから、木工技巧修得
     まで 必須であります。

     現在の宮大工の養成学校でも同様な授業があり、有効活用されており当時でも百済から
     渡来していたと
想定されます。 

     時代は下がるが、海龍王寺、元興寺にある国宝五重小塔は、それをまね、地方の大工
     に国分寺の塔の建築
指導に活用したと考えます。


     2-4 海龍王寺小塔  2-4 元興寺小塔
           海龍王寺                    元興寺

 
  2、教科書    

    百済でも同様に、地元の大工の教育はされていたことと考えると教科書的な書物、絵図が
    あったのではな
いかと想定されます。その様な資料が発見されていると良いのですが?

    また、教育カリキュラムもあったのでしょう。

 

  3、大工道具と測量技術 

    当時、日本にどの程度の道具が在ったのか良く解かりませんが(今後の課題)、墨壷、
    水平垂直測定器
などの測量技術も新しいものが伝来したと想定されます。

   4、見習いから棟梁へ 

    上記の寺院建築教育のためのツールが完備していなければ、10年で100人以上の
    『
造寺工』を10名程度
の百済渡来人が育成できないと思います。

    何十人を一度に教育できるわけでなく一人10人以下で実技だ
けでなく、生活までも共に
    し5年程度をかけたものと思います。

    (今でも1人前には5年、棟梁には10年が最短と言われる)

    これで100人、落ちこぼれ50%ととすると50人、これが又10人づつ教育すると 又、
    5年で500人
落ちこぼれ50%で250人・・・・結構 厳しい教育だったのではないか!

 

    その途中で、馬子が建てたとされる「宅の東の仏殿」「石川の宅の仏殿」「大野丘の北
    の塔」などで実地
教育も重ね、特に、「大野丘の北の塔」は刹という心柱の建方などの
    予行演習もできたのでしょう。

 

    これだけ熱心な教育は、百済人、日本のトップが許容し 垂範しなければならなかった
    のだと思います。

 

 

  ● 朝鮮半島では、4世紀末に仏教が伝来し、
    大型の寺院は、5世紀末
478年清岩里廃寺金剛寺)・上五
里廃寺(定陵寺)が建立
    するまで100年近くかかっています。

    それを日本では、仏教伝来552年から30年程度でに飛鳥寺を造ろうとしているのです
    から、凄い仏教信仰のパワーを 国が強力に推進した背景がある。
    それほど政治的に安定していたのか?
 

 

  【ケースー1】 日本書紀を重視した造寺工の状況-2 

    飛鳥寺などの寺院建築に対応する大工たちは、集約し教育する人材、期間はかなり厳しい
    状況であった。

  
ケースー2】 史料を参考程度にした造寺工の状況-2 

    577年以前から有る程度の人材が存在し、増員のための教育で 寺院建築に対応できたの
    ではないか。

  

 以上のように、
  【ケースー1】日本書紀を重視した造寺工の状況では、人材の集約数、教育方法、期間などを
  検討すると、かなり困難な環境にあったと推測されます。

  一方、577年以前からの建築集団が各地に有る程度存在していて百済の先生が彼等を教育し
  彼等がま
た伝播することで造寺工として育成、増員させてきたと考えたほうがスムーズに思
  います。

  記録になく未だ眠っている 6世紀中頃に寺院建築が存在する可能性が、造寺工の検証から
  推察できます。朝鮮半島から仏教が150年も頻繁な往来がありながら、伝承されていない。
  不思議なことだとは思いませんか? 

        (飛鳥寺の起源探訪 これからまだまだ続きます)
 

  


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masatias

Author:masatias
30年続く寺社めぐりのメンバーです
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Improvement of a spirit boundary
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