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寺社建築文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源と変遷、文化財の諸問題を探訪しています。 又文化財拝観資料も記載しています。
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カテゴリー  [ 5-3 日本の仏教伝来 ]

日本の仏教伝来時期の考察です。

 5-3日本の仏教伝来

 

 

 

5-3

  日本の仏教伝来


 

  ここでは、諸先輩の伝来時期の諸説を調査し、比較検討をして見ますが、難解なようです。

  先ずは、仏教公伝wiki を参照します。

 

  前述の朝鮮半島からの仏教伝来ごとく、今後の記述では、

  「仏像、経経、僧、仏寺」の『四点セット』が「仏教伝来」の受容条件

  

   地図仏教伝来 
      ・・・これを【ポイント】ととして諸説を考察してみます。

 

1,仏教公伝の諸説

   古来から有力な説として ①552年と②538年の2説あることが知られており
   一般的には538年が有力とされる。


【説ー①】552年(壬申)説

   『日本書紀』百済の聖王(聖明王)、仏像と経論を日本に献上

   欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、

   仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。

 

   欽明天皇2(552)、百済の聖明王は西部姫氏達率怒悧斯致契らを遣わして、

   釈迦仏の金銅像一嫗、幡蓋若干、経論若干巻を贈った。

   別に上表し、仏を広く礼拝する功徳を述べて、"この法は諸法の中で最勝であ

   ります。解り難く入り難くて、周公.孔子も知ることが出来ないほどでしたが、

   無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を成し、例えば人が随意宝珠を抱いて、

   なんでも思い通りになるようなものです"   2点セットです。)

   とあり、これを聞いた欽明天皇は大いに喜んだ。とある。

 

・その年が南都六宗の一つ三論宗で説く末法1年目にあたっており、それにあわせた

 可能性がある

・記事のなかに金光明最勝王経の一節を書きかえた作文がまじっていることなどによ

 り、信頼性が少ないとされているようですが、

 

【ポイント】

   百済の聖王が仏像と仏典を贈り 仏法の優れたことを理解させているだけである。

   仏僧が渡来したわけではなく、仏寺の建立支援もない。

   四点のうち2点だけに記述です。

 

 

【説ー②】 538年(戊午)説

  百済の聖王(聖明王)、仏像と経論を倭に献上

 ・『上宮聖徳法王帝説』:「欽明天皇の御世の戊午年(538年)に百済の聖明王が始

  めて仏像・経教・を度し奉じる。」      3点セットになっている。)     

 

 ・『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』

大倭の国の仏法は、斯帰嶋(しきしま)の宮で天下を治められた天国案春岐広庭天

(欽明天皇)の御代に、蘇我大臣稲目宿禰が仕えてたとき、その七年戊午(538年)

十二月に、海から渡ってきたのが始まりである。」とし、また、百済国の聖明王のと

きに、聖明王は、悉達太子像并びに灌仏の器一式、及び仏起を説く書巻一篋を渡して

仰られた。「当に聞くところによれば、仏法は既にこの世の最高の法であり、貴国

(倭国)もまた(仏法を)修行すべきであろう」(太子とは釈迦の出家前の名) 

2点セットです。)

  

『元興寺縁起』や『上宮聖法王帝説』が説くところで、これらの記事は『日本書紀』

よりも古い史料にもとづいて書かれていると考えられ、当時の朝鮮半島の政治情勢か

らみても不自然ではないので、現在は538年の方が有力である。

  ・・・・・しかし「538年!」は欽明天皇の時代ではない、宣化天皇の時代である。

・・・・・欽明天皇の即位は540年で571年に崩御で、在位期間に戊午の年はない。

  安閑、欽明天皇の即位年に齟齬があることもあいまって、様々な説が提唱されている



 

【説ー③】 敏達天皇13年=584年

『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があり、

  更に、『日本書紀』にはもう一つ「仏教伝来」ともとれる記事が存在する。

「・・馬子宿禰・池辺氷田・司馬達人たちは仏法を深く信じて修行を怠らなかった。

馬子宿禰はまた石川の家に仏殿を造った仏法の広まりはここから始まった。」

「佛法之初自茲而作」

  しかもそれは百済からではなく播磨の還俗僧恵便からの伝授と記されている

 

【ポイント】

  『日本書紀』では、552年『僧も仏寺』は贈っていません。

『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』でも、538年に『僧も仏寺』も贈っていません。

しかし 『上宮聖徳法王帝説』では、538年に、『僧を贈った』ことになっています。

日本書紀より信憑性は高いとされる『上宮聖徳法王帝説』に記述されているのですか

ら間違いなく538年には国家間で僧が渡来する約束があったのでしょう。 

 

538年に『僧を贈ったとの記述は他には無く これ以上の文献的な探求は出来ない

ようです。  そして『仏寺』の伝来記録は無い!

 

2,仏教公伝538年以前の伝来

 5世紀の中国、朝鮮半島の交流記録は、前後の情報と比較して少ないとされているが、

 日本人が朝鮮半島を往来していた記録、貿易施設の遺構、金銅仏の渡来、418年説等

 が有る。

●仏教公伝(538,552)以前に伝来していた可能性あるとされる史料を紹介します。 
 

【説ー① 任那日本府(みまなにほんふ)の設置

5世紀、東晋と宋から正式に朝鮮半島南部の領有を承認され、朝鮮半島に対して一定

の影響力を持って、出先機関である「任那日本府」を設けていたことが、史料から解

かる。

又、全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認され、いずれも5世紀後半

から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立していた。

・『日本書紀』をはじめ、中国や朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す史料が

 存在している。

広開土王碑に倭が新羅や百済を臣民としたと記されている

 ・日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土している

 ・451年、宋書倭国伝のなかで宋朝の文帝が倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持

  節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた記述

 ・478年、宋朝の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任

那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述

 

そのほか、5世紀には朝鮮半島で、日本の半島侵略的な出来事が多く確認されており、

人物の往来はかなり頻繁に行われており、その時期に仏教の伝授があったことも充分

  考えられる。

 

【説ー②難波館(なにわのむろつみ)(大阪難波)の開設 512年

古墳時代から畿内の港として往来のあった難波津には外交施設として難波館(なにわ

のむろつみ)があり、『日本書紀』には継体6年(512年)12月に百済武寧王の使者

が調を貢献するとともに任那四県の割譲を求めて館に留まったとある。

これが外国使節を宿泊させる客館の初見である。

この時期には、仏教伝来の可能性は高い。

又、外交施設の原型は、筑紫(現在の福岡県西部)にあり、魏志倭人伝の時代に遡る

とされる。糸島半島にあった伊都国には「郡使の往来、常に駐まる所なり」と記され

た外交施設が存在していた。
  ただし施設名や場所についての記録は残っていない

 

【説ー③仏教伝来の時期が「418」年戊午の歳とする中小路説

倭国に仏教を伝えたのは誰か」古賀達也    難解ですが、一読ください。



  『日本書紀』には九州王朝の歴史記事が盗用されているという、古田武彦氏が提起、

論証された仮説です。その上で、推古32年(624)条の観勒の記事のみを切り離して

理解してみると次のように事態が整合してきます

 1)インドから中国へ仏教が伝来して300年を経て、百済へ伝来した。

   それは『後漢書』『三国史記』の記載通り67年から384年のことである。

 2) 百済に仏教が伝来して100年である。

   したがって、384100484年頃の出来事である。

 3) 日本国に百済から仏像・経典が伝来して百年未満(概数として70~90年とする)

   である。

   したがって日本国への仏教初伝は 48470~90394~414年頃である。

この帰結もまた中小路説(418年仏教公伝説)とほぼ一致します。よって、

 

百済僧観勒の記事は、九州王朝での5世紀末~6世紀初頭の記事とすれば、記事その

ものの内容1)2)3)が、国外史料が伝える仏教東漸記事と矛盾なく整合するのです。

そして、おそらくは『日本書紀』編者により、欽明期以後100年未満に相当するこの

推古紀に、本来九州王朝へのものであった表文が挿入されたのではないでしょうか。

 

仏教伝来戊午年伝承の探求は、『隋書』イ妥国伝・『筥埼宮記』より伝来の地が北部

九州であった。

また『日本書紀』推古紀・『元興寺伽藍縁起』・『上宮聖徳法王帝説』よりその年次

418であったことに行き着きました。

そして、この二つの結論の結接点として糸島郡『雷山縁起』の清賀伝承を発見しえた

のでした。

 

この説は、年代年次が100年以上の誤差が有ることを探求し、418年を導いている

革新的な説で、信憑性が高まれば、日本史の大幅な改定を余儀なくされそうです。 

 

 ● 隣国の4~5世紀の仏教伝来の史実から、日本に伝来したのは、5世紀=「418

   戊午の歳」の説が信憑性が高いと判断するか?

   又、九州に伝来したと言う説も次の法隆寺の再建、移転論の中でも興味有る説にな

   っていると思われます。

 

● 「いずれにせよ上記の各説は一長一短があり、仏教公伝の時期は現在も確定してい

  るとは言い難い。

 各説の共通点を総合した「6世紀半ば頃の欽明天皇代に百済の聖王によって伝えら

 れた というのが最大公約数的な理解であろう。」というwikiの記述で、締めてお

 くべきかもしれません。

 

● しかし、造寺工渡来の577年より早期に仏殿建築の知識、情報が伝来、又は持参さ

  れていた可能性は有る・・・

  ことを今後探訪してみます。飛鳥寺の創建時の史料などから推察します。 

         

         5-4、飛鳥寺と造寺工」へ続きます

 


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