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寺社建築文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源と変遷、文化財の諸問題を探訪しています。 又文化財拝観資料も記載しています。
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寺院建築の起源を探訪します。

5-1寺院建築の起源 


 

5-1

  寺院建築の起源     中国、朝鮮半島、日本の寺院起源の探訪


  
                         
 
       
               2-4 飛鳥寺伽藍模型 
                                                    日本最古の寺院?飛鳥寺復元模型

寺院建築の起源については、中国、朝鮮半島の仏教、建築史を改めて勉強したりする、知識、能力に不安
  があるのですが、少しずつまとめていくことにしました。
 

 

● 寺院建築の歴史年表
 

年代

遺跡・寺院

概要

文献など

1世紀

池上曽根遺跡

大型建物 19.2×6.9m、高さ11m、床高4m、135㎡

大阪  

3世紀

吉野ヶ里遺跡

建物群 主祭殿: 12.3mx12.7m、156㎡ 三層二階

佐賀 

3世紀

纒向遺跡 

建物群 4間四方 19.2m12.4m230㎡

奈良 復元 

372

朝鮮半島仏教伝来

高句麗372年、百済384年、新羅5世紀初め 

 

418

仏教伝来説-1

『隋書』イ妥国伝・筥埼宮記 伝来の地は北部九州

 

5世紀

任那日本府

朝鮮半島に日本の拠点、前方後円墳を多数造立

 

5世紀

極楽寺ヒビキ遺跡

建物群 四面庇付き掘立柱建物225㎡ 家型埴輪類似

奈良

6世紀

鹿部田渕遺跡

大型の建物群 建物をL字配置した企画性高い建物群

福岡

 

 

6世紀まで200㎡を越す大型建物は数多く建築されていた

朝鮮半島への侵略、支援、文化交流が盛んであった。

 

460頃

雲岡石窟

「人字形割束」「平三斗」「卍崩しの高欄」の様式

 

467

永寧寺 (中国)

山西省大同市 塔婆造7層

 

478

高句麗寺院(朝鮮)

清岩里寺(金剛寺)上五里寺(定陵寺)一塔三金堂式

 

512

継体6

難波館(大阪難波)

(外国交流の拠点)

継体天皇6年12月(なにわのむろつみ)

朝鮮半島、中国との交易が盛んになる

外交施設

仏教伝来か?

522

継体16

坂田寺(金剛寺)

司馬達等が大和国高市郡坂田原に草堂を営む

鞍作氏の氏寺 (寺院といえるのか?)

扶桑略記

 

527

磐井の乱

筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとした

日本書紀

538

戊午年

仏教伝来説-2

百済の聖王(聖明王)、仏像と経論を倭に献上

日本書紀の552年説あり

上宮聖徳説

元興寺縁起

552

欽明13

仏教伝来説-3

百済の聖王(聖明王)、釈迦仏像と経論を献ずる

釈迦仏の金銅像1体、経論若干巻、幡蓋( 撞幡と天蓋) 

日本書紀

 

 

仏教は公伝より早く、渡来人が日本に伝えていた。

一部の渡来人が秘かに招来し仏教を信仰して安置していた

 

554

朝鮮半島からの渡来

五経博士1 人、僧9人

日本書紀

566

皇竜寺  (朝鮮)

唐の西明寺を模したと伝えられる日本の大安寺伽藍と類似

 

577

王興寺跡 (朝鮮)

「飛鳥寺の原型 百済の寺院か」と云われている

 

 

 

577年以前に日本に寺院建築は存在していないのか?存在した可能性を否定は出来ない状況が多く有る。

 

577

敏達6年

造仏工・造寺工渡来

 

百済国王が日本に帰国する大別王等に経論若干巻のほかに、律師・禅尼・呪禁師・造仏工・造寺工の六人を献り、彼等を難波の大別王の寺に安置

日本書紀

578

造寺工渡来

四天王寺建立のため、聖徳太子の命を受けて百済より三人の宮大工が招かれ、    
その一人金剛重光「金剛組」創業

 

579

朝鮮半島からの渡来

新羅 仏像送る

日本書紀

581

中国 『随』 建国

中国で楊堅が北周を滅ぼして隋を建国  618年まで

 

583

馬子石川の宅に仏殿

蘇我馬子、石川の宅に仏殿を造る。

元興寺縁起

584

敏達13年

馬子宅の東に仏殿

百済将来の弥勒の石像等を請じた蘇我馬子が四方に修行者を求め、播磨国にいた高麗の還俗僧恵便を師として司馬達等の女を出家させて善信尼とした。

馬子は宅の東に仏殿をつくり弥勒の石像を安置して、三尼を屈講して大会設斎した。このとき鞍部達等は仏舎利を斎食の上に得て、馬子に献上した。

日本書紀

584

仏教伝来説-4

仏法が播磨から大和に伝わった記録

日本書紀

585  敏達14年

馬子大野丘の北に塔

馬子は大野丘の北に塔起て、達等が献上した舎利を塔の柱頭に蔵めたという。
塔の形状は不明だが木造?

大野丘では「起て」、法興寺では「建て」という表現

大野丘の塔が一本の柱であった可能性もある。

日本書紀

585  敏達14年

豊浦寺向原寺

止由等佐岐に刹柱を立て…刹を立てし処は、宝欄の東の仏門の処   (刹柱とは塔の心柱) 

元興寺資材帳

587

崇峻即位

四天王寺創建を約す

乱過ぎて後、摂津の国に四天王寺を造る・・・

日本書紀

587

飛鳥寺 建立発願

用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願

仮垣仮僧房を作る僧6人を住ませる、寺の木組を作る

 

587

用明2年

坂田寺(金剛寺)

天皇の為に寺を造る 鞍作多須奈(鞍作止利の父)発願、六の仏像を造顕、寺を建立

日本書紀

586?

渋川廃寺

物部守屋の建立説  飛鳥寺より10年早い

 

588

百済国遣使

百済国遣使 僧恵総、令斤、恵寔らを遣わし、仏舍利を献上。恩率首信、徳率益文、那率福富味身らを遣わし進調。 仏舍利と僧聆照律師、令威、恵衆、恵宿、道厳、令開らと 寺工太良未太文賈古子鑪盤博士将徳白昧淳、瓦博士麻奈文奴、陽貴文、陵貴文、昔麻帝弥、画工白加を奉った。

(仏舎利、僧、寺工2、画工1、露盤博士1、瓦博士4人)

日本書紀

588

崇峻元

飛鳥寺造営開始 

整地と着工  飛鳥衣縫造の祖樹葉の家を取り壊して造る     善信尼ら受戒を受け百済へ発つ

日本書紀

590

善信尼らが帰国

 

百済に行って受戒した善信尼ら五人の尼僧が帰国

尼寺用として造営中の櫻井寺(豊浦寺)に泊まる

日本書紀

590

飛鳥寺 用材切出し

飛鳥寺に使う用材の切り出し

日本書紀

592

飛鳥寺 着工

仏堂( 金堂) と歩廊( 回廊) を起(た)つ

日本書紀

593

推古元年

四天王寺 造営開始

四天王寺を難波荒陵に造る  建立2~3年後?

日本書紀

593

飛鳥寺 心柱

塔心礎に仏舎利を納める。心柱を建てる。

日本書紀

594

法隆寺心柱伐採年

現法隆寺の心柱は 飛鳥寺より新しいのは明白?

 

596

推古4年

飛鳥寺 建立

飛鳥寺落成。 馬子長子善徳臣寺司に任ず。

       高句麗僧・恵慈・百済僧・恵聡が住す。

日本書紀

599

推古地震

大和で家屋倒壊の地震被害の記録が登場

日本書紀

601

推古9年

法隆寺(若草伽藍

斑鳩に宮室を営む  605年 太子、斑鳩宮にうつる

日本書紀

603

推古11年

豊浦寺

宮を小墾田宮に遷す   善信尼が住す桜井寺に小墾田宮遷都に伴い推古帝より豊浦の地を施入される

日本書紀

605?

推古後期

渋川廃寺

物部守屋の建立説 最も古い軒丸瓦は豊浦寺の系統に属す  単弁八葉、忍冬唐草紋の瓦や塔心礎が出土。

 

605

飛鳥大仏を作始め

鞍作止利を造仏工に任命、飛鳥大仏を作り始める

高句麗・大興王より、大仏の鋳造用に黄金300両

日本書紀

606

飛鳥大仏が完成

606年日本書紀の説も有るが期間的に短い     推古17年(609)4月説が妥当か

元興寺縁起

 

 

飛鳥寺の伽藍が全て完成したのは、何時なのか?

 

618

中国 『唐』 成立

 

 

624

推古32年

当時の寺院の数

全国の寺院が46あって、僧816人、尼569人と記述が残されている。女性が多い! 規律は?

 

 

 

 

● 地震大国日本  古代の地震 参考までに記述しておきます。  wiki

 

  ① 推古地震 599  『日本書紀』推古天皇7年4月27日

 

     推古7年4月27日(599年5月26日、5月28日)には大和で家屋倒壊の地震被害の記録が登場するが

     これらは大和で大地震であった事を推察するのみであり震源域は特定されていない。

 

  ② 筑紫地震 679  『日本書紀』巻第二十九 『豊後国風土記』

 

     天武天皇7年12月中に筑紫国を中心に大地震が発生した。地震の発生日は不明である。

     巾2丈(約6m)、長さ3000丈余(約10km)の地割れが生成し村々の民家が多数破壊され、また丘が崩

     れ、その上にあった家は移動したが破壊されることなく家人は丘の崩壊に気付かず、夜明後に知り驚いた

     という。(その領域は現在の福岡県のうち、東部(豊前国)を除いた大部分)

 

  ③ 白鳳地震 684 『日本書紀』に記述があり

 

     白鳳時代(飛鳥時代後期)の天武天皇13年(684年)に起きた、南海トラフ沿いの巨大地震と推定され

     る地震である。南海トラフ巨大地震と推定される地震の確実な記録としては最古のものである。

     白鳳の大地震、白鳳大地震、あるいは天武地震とも呼ばれる。

     記録による土佐や伊予の被害の様相から南海地震と考えられていたため、白鳳南海地震とも呼ばれてきた

     が、発掘調査により、ほぼ同時期に東海地震・東南海地震も連動したと推定されている。

     (関西の被害については明記されていない)

 

    ● 大和に599年、筑紫に679 四国に684年に大地震があったことを日本書紀が伝えていることを認識し

      ておくことで、法隆寺再建、移築論に対する考察の参考としたい。特に599年の地震について。

      飛鳥寺の建立は、596年とすると、3年後この地震で影響があったのか?  興味が湧いてきます!

 


 ● 寺院とは  

 

 「寺」とは、仏像を安置のための建物、僧の住まいがあるところの呼称です。当たり前ですが!

 

寺といえば仏教寺院のことですが、中国では仏教が持ち込まれる以前から「寺」があったのです。

寺の字は、もともとは「廷也」と定義され「廷」は役所の意味です。「役人がとどまって仕事をするところ」→

「役所」。 ところが、明帝(後漢の第二代皇帝 在位 57-75)の時代 「白馬寺」という役所の迎賓館に僧

を泊めていたのですが、長逗留になり「白馬寺」に僧専用の建物を新築しました。

以来、僧専用の建物を「寺」と呼ぶようになりましたとさ。

 

 「院」とは、寺に附属する院家(塔頭)の呼称です。

 「寺院」はその二つが合わさった呼称となります。(出家者が起居し宗教的儀式を行う施設)

 

 

 ○精舎(ビハーラ vihara) wiki 

 インドの出家者(比丘<びく>,僧)が一時的に定住するための建物安居(あんご)が作られ、これが寺の起

 源とされる。安居とは、雨期を意味する梵語のvārsika(又はvarsa。尚、パーリ語ではvassa)を漢語に訳したもの

 である。

 

 本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するため、重要な戒律である不殺生

 を守る為 遊行(外での修行)をやめ、一カ所に定住する為です。後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げ

 あんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるようになった。釈尊在世中より始められたとされ、その後、仏教の伝

 来と共に中国や日本に伝わり、夏だけでなく冬も行うようになり(冬安居)、そして安居の回数が僧侶の仏教界で

 の経験を指すようになり、その後の昇進の基準になるなど、非常に重要視された。

 

 その安居ための建物を精舎(しょうじゃ、Skt:Vihāra、ヴィハーラ、ビハーラ)と呼び、精舎には修行者が住む

 ための僧坊のほかに,講堂や食堂,坐禅などもあったようです当初住居でしたが,時代が新しくなるにつ

 れて定住化が進み,完全に修行者の“家”となったようです。

 

 

 塔(仏塔) wiki 

 釈迦が入滅すると,遺骨(仏舎利<ぶっしゃり>→サンスクリット語のシャリーラの音訳)を安置する建造物が

 作られこれが塔の起源とされる。

 仏舎利を安置した塔(ストゥーパ)は、一般の信者(在家信者)にとっては礼拝・信仰の対象でした。

 

 仏舎利塔が釈尊礼拝供養と説法の場として在家信徒の信仰の中心になり、これを大きく広めたのが、アショーカ

 王(阿育王<あいくおう>,在位紀元前268年頃~232年頃)で、数多くの塔を作り仏教の広範な信仰へと尽力

 したようです。

 塔が作られた場所もはじめは精舎とは離れて作られていましたが、次第に精舎と仏塔とが接近し,石窟寺院では

 房(僧院)と仏塔を祀る祠堂(しどう)が隣接したり,さらに精舎のなかに仏塔が建立されるようになってき

 ました。これが金堂(本堂・仏殿)の起源となり、仏殿の配置が確立されていきました。

 

○ 伽藍  wiki 

 伽藍という語は、サンスクリット語の「サンガラーマ」を中国で音写した「僧伽藍磨」に由来し、衆園・僧園・精

 舎とも翻訳されます。中国の伽藍は、仏教が伝来する前から盛んであった儒教の文廟や道教寺院と同様、強い規範

 性を持った対称的な配置を特徴としました。 初期の仏寺は南北軸線上に中心となる堂と塔が並び、それを回廊が

 囲む「一塔式伽藍」が一般的でしたが、やがて南北朝から隋唐時代にかけ、塔を左右に2基配した「双塔式伽藍」

 も成立します。

 

○ 寺の名称 

 中国では「官舎の意味です。

 後漢の明帝(在位57~75年)の時代,迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん)というインドの僧

 が,はじめて中国に仏教を伝えたとき二人は鴻臚寺(こうろじ)という“迎賓館”に滞在していたが、長期間、迎

 賓館の使用は出来ず、僧達専用の建物を建てその建物の名称を、彼等が白い馬に乗ってやってきたことから,

 馬寺(はくばじ)と名づけました。これ以後,僧侶の住む場所を「~寺」というようになったと云われています。

 


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Author:masatias
30年続く寺社めぐりのメンバーです
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Improvement of a spirit boundary
by Temple and shrine =<TIAS>

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