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寺社建築文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源と変遷、文化財の諸問題を探訪しています。 又文化財拝観資料も記載しています。
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カテゴリー  [ 4-4 出雲大社の起源と歴史 ]

出雲大社の起源 不思議な平面

4-4出雲大社起源探訪



 

4-4

  出雲大社の起源と歴史      

 


1,出雲大社の起源 Wiki引用】

  出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。
  以下はその主なものである。

 
 ① 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、
   千木が空高くまで届く立派な
宮を造って
いただければ、そこに隠れておりましょう」
   と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に
「天之御舎(あめのみあらか)」
   を造った。                  (『古事記』)


 ② 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみ
   や)」を、千尋もある
縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀ら
   せよう」と述べた。              (『日本書紀』)

 ③ 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。
                          (『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)

   神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって所造天下大神
   の宮として造れ」と述べた。
          (『出雲国風土記』楯縫郡)

 ④ 崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の
   子)が天から持って来た
神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って
   献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わした
ところ、飯入根(いいいりね)が、当時
   の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を
殺するが、朝廷に
   誅殺されている。               (『日本書紀』)


 ⑤ 垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによって
   それは出雲の大神の祟り
であることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大
   神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようにな
った。奏上をうけた天皇は大変喜び、
   菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。  (『古事記』)

 ⑥ 659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。
                             (『日本書紀』) 

  伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)
  の命によって、国津神で
ある大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単
  なる在地の信仰によるものではなく、古代における
国家的な事業として行われたものである
  ことがうかがえる。

  記紀の信憑性を疑うなかどこまで神社社殿創建に繋がる
のか今後の調査研究です。

  出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回234年、斉明天皇の時が第2回の造営659年
  とされています。

  出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回234年、斉明天皇の時が第2回の造営659年
  とされています。

  更に、社殿は100mの高さだった! 建築技術、材料調達など問題点が多く有るが?
  上古「景行天皇の時代西暦100年頃」 この頃三十二丈の高層神殿があったとされる。
  【鰐淵寺旧記】←作成は1391年

  そして鳥取の稲吉角田遺跡(米子市)弥生中期の壺絵が検出されている。
  弥生時代に高層建築を空想したのか?
  渡来人が画いたのか?解明されていません。

  弥生中期は西暦300年以前・・・・・・   下図の「e」です。


          ブログ稲吉角田遺跡の土器絵画20141025 

 

 
  ● これら「記紀」等の史料は、信憑性は低いと判断され「659年創建説」が有力とされる。

 

【参考:祭神の変化】

  出雲国造新任の時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」
  「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた

  安時代前期までの祭神は大国主大神
であった。

  やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は
  杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、
  出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、
中世のある時期から17世紀まで
  祭神が素戔嗚尊
であった。

  14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の
  太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年(寛文6年)毛利綱広が
  寄進した銅鳥居の銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記されている。
     

            ブログ出雲大社鳥居銘文20141024 銅鳥居の銘文

  さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした。
  また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉
  を実施していた。

  ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微したため、17世
  紀の寛文年間の遷宮時に出雲国造家が
神仏分離を主張して寺社奉行に認められ、寛文4年か
  ら寛文5年にかけて仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された。
  これに併せ祭神は
素戔嗚尊から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復した。

 

 2,出雲大社の歴史年表
  出雲地方は縄文時代から、遺跡、古墳そして神話と文化が発達して日本史の大きなポイント
  になっています。

  その証として 出雲の
式内社(延喜式928)は、187社と大和286社 伊勢253社」3番目
  の多さで、隣地の伯耆6社、石見34社より格段に多い神社が存在したことがあげられます。

  出雲大社は、古くは、天日隅宮、出雲大神宮(『日本書紀』)所造天下大神宮(出雲風土記)
  「杵築大社」と称されて
いました。
  延喜式神名帳に大社と書かれているのは杵築大社だけで、明治になって「出雲大社」と呼称
  されました。

  その出雲大社の建築の史料を集め大社造、出雲大社の起源、建築の歴史を探訪してみます。

 

時代

年代

事象

出典・確証

背景

弥生~300

弥生中期

BC400~50

出雲地方の遺跡・遺構

9本柱の遺構掘立柱の遺構

田和山遺跡

青木遺跡

梅田萱峯遺跡3

原の辻遺跡

 

紀元前38年

神宝が出雲大社に納めら

日本書紀

 

234

垂仁天皇23年

菟上王に御造営を命じられる

古事記・日本書紀

第1回造営?

古墳~592

 

 

 

 

    

古墳時代中期

遺跡・遺構 一辺約25m方形柵列に並列する掘立柱建物

百塚第7遺跡

57号、60号

 

飛鳥~710

 

607 法隆寺  
645 大化改新 

 

 

 

六世紀後半前

遺跡・遺構 9本柱建物 高床倉庫ではない

菅原III遺跡

神祇官社制成立前

大社造の源流?
土着的な祭祀施設

659

斉明天皇5年

出雲国造に命じ

出雲厳神之宮」修造

日本書紀

第2回造営

大社造の創建?

681

天武10年

常設神殿を造営して官社化

神祇官社制

恒常的な祭祀施設

701

大宝1年

大宝律令 神祇制度を制定

 

 

714

 

国分寺造営

 

 

奈良~794

 

 

 

 

733

 

杵築大社の記事

出雲国風土記       

(大社造の創建?)

757

 

出雲大汝神の記事

『古記』738年

 

 

8世紀

遺跡・遺構

本殿跡最も蓋然性の高い遺構

神祇官社制成立以降神殿の可能性が高い

三田谷I遺跡SBO1

杉沢IIISBO1

平安~1200

 

延喜式928制定

 

 

925

延長5年

出雲国出雲郡杵築大社の記載

延喜式神名帳

大社造の創建?

970

天禄元年

雲太、和二、京三

「口遊」教科書

 

1031

長元四年

本殿顛倒           ?年

左経記

風もないのに倒壊

1061

康平四年

神殿顛倒   30年~1031

百錬抄

1053平等院建立

1067

治暦3年

遷宮造営   6年~1061

 

 

1109

天仁二年

神殿顛倒   42年~1067

千家古文書

 

1110

天仁3年

大量の巨木が稲佐の浜に漂着

北島家文書

大木100本造営

1114

永久2

遷宮造営   5年~1109

 

 

1141

永治元年

神殿顛倒   26年~1115

千家古文書

 

1172

承安二年

神殿顛倒   31年~1141

千家古文書

 

鎌倉~1333

 

 

 

 

1190

建久元年

遷宮造営 18年~1172

寂蓮法師「千木の片そぎ」歌

千家古文書

「夫木抄」

 

1235

嘉禎元年

神殿顛倒 63年~1172

千家古文書

神殿高16丈
48.5m

1248

宝治2

遷宮造営 13年~1235

2000の発掘調査で柱跡検出

出雲大社并神郷図

  朱塗、白壁

年代測定
西暦1215~1240伐採木材

1268

宝治2

火災焼失 その後 規模縮小

 

高さ8丈 24m?

室町~1491

 

1412,1467遷宮記録仮殿遷宮

1486焼失

仏教建築多数建立

 

16世紀末

史料から高さ判明

北島國造家調査

高4丈5尺13.5

桃山~1603

 

1539遷宮の記録 仮殿遷宮

 

 

1580

 

毛利氏による遷宮

 

 

1588

天正11年

神魂神社(国宝)建立

最古大社造建造物

内陣逆向き

江戸~1868

 

(1609より概60年毎遷宮

 

 

1609

慶長

遷宮造営(第23回)?

再建 豊臣秀頼 造営

掘立柱礎石柱へと形式変更、華美

 

1667

寛文

遷宮造営(第24回)58年

再建松平直政 松江城主造営

華美か簡素な設計かで論議

 

1744

延享元年

遷宮造営(第25回)77年

寛文の形式を踏襲

現在 国宝の社殿

明治~1912

 

 

 

 

1809

文化6年

遷宮造営(第26回)65年

 

 

1871

明治4年

杵築大社出雲大社呼称変更

 

 

1881

明治14年

遷宮造営(第27回)72年

 

 

1953

昭和28年

遷宮造営(第28回)72年

 

 

  ~2013

平成25年

遷宮造営(第29回)60年 

 

 

 

 ●1248年:
  鎌倉時代の宝治二年の遷宮造営までは、主として「正殿式」造営が行われていましたが
  その後江戸時代まで約四百年間は、「仮殿式」で祀られています。

  頻繁な遷宮記録のため式年遷宮の意思が存在した可能性も指摘されていますが 顛倒や火災、
  劣化に対する補修・再建のための遷宮や造営と歴然とした判別がつかず不明です

 

 ●1667年:
  鎌倉時代の遷宮以来、四百年ぶりの正殿への遷宮となり、このときの大社造りの本殿建築形式
  が現在の出雲大社の形式になりました。
  その間は、仮殿を立て、屋根の修理程度だったと思われます。


  縄文、弥生時代の遺跡では、掘立柱の遺構が周辺で多く発見され、伊勢神宮の周辺に何も無い
  のと大きな違いです。
  大社造の源流として弥生時代まで下がることは、高層(16丈48m)建築工事は中央政権のバ
  ックアップがあったかもしれませんが社殿建築は、出雲の大工たちによって永年に亘り確立さ
  れた様式と判断されます。

           出雲の文化は素晴らしかった!

 

3、出雲大社の建築歴史     (遺跡、絵図の史料を調査)

1)大社造の源流

 ① 縄文時代の代表的な掘立柱の遺構
   三内丸山遺跡  柱穴は6箇所、直径約2m、深さ約2m、間隔が4.2m、中に直径約1m
           クリの木柱
 柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2m、2m、2mで全て
           統一されてい
る。 

 チカモリ遺跡  直径50cm以上の23本の巨大な木柱は、集落の中央広場付近に8〜10本
           が組みになる。
直径6〜8mの円形に規則正しく並べて立てられ、出入り
           口が付いている。
円形遺構、正方形遺構、長方形遺構の三タイプに分けら
           れる。

 

   真脇遺跡    巨大木根の直径は99cmと、チカモリ遺跡のものを上回る大きさで、
           直径
6.2m5.3m
7.5mの3つの真円上に、クリ材が配置されていた。
           出入り口に「ハ」の字形をした門扉形の
板状材木が立つことや、柱の
           根本に溝が彫り込まれている
。(チカモリ遺跡と共通

   これらの遺跡の建築掘立柱が直接的に出雲大社に繋がっているかと云うと、確証はないよう
   ですが、出雲大社は近傍に同様な遺跡が多くあり、伊勢神宮が周辺遺跡と全く関連していな
   いのに対し、流れは明快になる可能性はあると思われます。


 

 ② 山陰、北陸の掘立柱の遺構

 

史跡

史跡名

時代・概要

掘立

竪穴

環状

32

富山

串田新遺跡

繩文中期後半    大規模集落跡堅穴式住居

 

 

33

富山

不動堂遺跡

繩文中期初頭から中葉 集落遺跡大形竪穴遺構

 

 

34

富山

北代遺跡

縄文中期後半 
  大集落跡
高床建物跡4棟    竪穴70棟

 

35

石川

チカモリ遺跡

縄文後期晩期
  環状木柱列径
50cm23本巨大木柱

 

36

石川

御経塚遺跡

繩文後期晩期 
  集落遺跡住居跡、配石遺構 環状

 

37

石川

真脇遺跡

縄文前期前葉晩期後葉 
  竪穴住居 木柱列環状

 

38

石川

万行遺跡

弥生中期以降 竪穴住居 
  古墳前期の型掘立柱建物

52

兵庫

加茂遺跡

弥生大規模集落遺跡 
  掘立柱建物6棟竪穴住居40棟

 

 

富山

桜町遺跡

縄文中期末 
  小型高床建物の柱材 環状木柱列6m径

 

 

兵庫

武庫庄遺跡

弥生中期中頃 巨大な棟持柱大型掘立柱建物
  BC245年 年代判定

 

53

鳥取

妻木晩田遺跡

弥生後期   大規模な集落遺跡

 

54

鳥取

青谷上寺地遺跡

弥生時代の居住域と水田域とセット遺存集落跡

 

55

鳥取

青木遺跡

弥生中期 竪穴式住居23棟、掘立柱建物跡9棟

 

 

鳥取

百塚第7遺跡

弥生  竪穴住居5+竪穴1+掘立柱建物2+柵列

 

 

島根

田和山遺跡

弥生中期一間四方(柱穴5本)の物見やぐら跡

 

 

鳥取

梅田萱峯遺跡3

弥生中期 「独立棟持柱建物」

 

 

壱岐

原の辻遺跡

弥生中期 祭儀場掘立柱の高床式建造物群跡

 

 

鳥取

会下・郡家遺跡

弥生中期 弥生時代では県内最大の独立棟持柱

 

 

弥生時代中期の遺跡が、山陰、北陸に集中して検出され棟持柱の跡も検出されている事から、

大社造の源流で有り、その遺構は、住居、穀物倉庫ではなく祭祀の用途であったことが、

配置、遺物等から確実であり、これらの確証からが「大社造の源流」と判断します。

 

 ③ 紀元前38年鎮座から659年頃までの社殿に関する資料がない?

   当方の探査能力無しです。文献、論文も無い! 小さな祠ぐらい合ったのか?

   

  創建時から高層の社殿だったのか?   天日隅宮=宮殿=出雲大社神殿

 『出雲国風土記』には杵築大社が載っており、大国主命のために、大勢の神々が集まって宮
   を杵築(きず)いたと
いう地名伝承を記しています。

  したがって、少なくとも8世紀初期(733)には、この社は大社(おおやしろ)と呼ばれ、
  大きな社殿が建てられていたと思われます。


  出雲大社本殿の高さは太古は32丈(96.96m)中古16丈、近古8丈などと変遷しています。
  32丈は技術的には有り得ない。

 ●太古は社殿が無く「八雲山」こそが出雲大社の本来の御神体で、神奈備山を祀っていた。
  山の高さが32丈あったという説も有る。

 ●平安時代の大仏殿が15丈といわれ、「雲太」といわれたころの出雲大社は16丈(48.48m)
  の建物であったと推
測されます。

 ●平安時代には高層であったという唄から一応納得したとしても、それ以前は高層であったか
  否かは、不明です。

 ●8丈に縮小されたのは、鎌倉時代1268宝治2年火災焼失後の造営からであると遺構発掘から言
  われています。

日本全国、戦国時代、お金も、建設パワーもなくなったのでしょう!

 

 ⑤ 「大社造」の様式の起源

  ●大社造とは?wiki

       大社造の構造は掘建柱・切妻造・妻入であり、屋根には優美な曲線が与えられる。

   この点で直線的な外観の神明造や住吉造と大きく異なる。また入り口が向かって右にあるの
   も大きな特徴である。

   とされている。

   平安時代から鎌倉時代の高層社殿のときの、社殿様式が「現在の大社造」と同じであったか
   は、確証が無い。

    (史料、絵図が無い、出雲国造・千家家所蔵の絵図がもっと有るのでは?)

   2000年境内から鎌倉時代の巨大な柱が発見される。

   その柱の配置や構造が、出雲千家国造家に伝わる、巨大本殿

   設計図とされる「金輪御造営差図」に似ている。
  

   そこで、その発掘成果を基に、現代を代表する建築史学者5人が古代の本殿の再現を試みた
   ところ、5者5様の
模型ができあがった。

   出雲大社本殿建築の復元研究とその高さをめぐる論争は、すでに100
年もの長期間に及ん
   いて、5つの模型のどれが正解とも言えず、結局、5種類の模型すべてを並べるという経緯
   で落ち着いている。


          ブログ出雲大社5人模型写真20141024 
 

   鎌倉時代1268年の火災焼失の後 規模が縮小され高さ8丈24m?になったが、
   その時点で「現在の大社造」
の様式になったのかは明解ではありません。


 

 ⑥ 大社造の平面  

   本殿は古代の高床式住居とほぼ同じ構造で、方形の古典的な日本家屋に近い「田の字」形で
   あるため、祭祀の場
に使われていた宮殿が社殿に発展したとされる。

   高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになっ
   ています。

   要するに、参拝者が拝殿から拝む時大国主は、『左(西)を向いて』「そっぽ」を見ている
   ことになります。

   この配置は、出雲大社ならではの諸説が有る。脱線するが? 

    1 大国主命と海との関係が深く 神社の西に海が有る

    2 倭の国は新羅と尊崇の念を示したものとの説 

    3 怨霊への恐怖からこれを封じ込めるためとの説・・・・

   詳細は記事にしませんが(意味が無い)諸説が有るようです。

  ・近傍に有る、神魂神社本殿は同じ大社造で左右をかえた『右向きに神座が配置。
  ・遠く常陸の国 鹿島神宮は、現在江戸時代の三間社流造だが同じ『左向き』です。

 

 まして怨霊説が、その他の神社に有るかと云うとなく、出雲だけ?
   海の方向を向くのは
  ・
鹿島神宮は社殿は、北面し神座は左向き東に面し 海の方向
  ・神魂神社は社殿は、東面し神座は右向き北に面し 海の方向です。

 
 

 これはあっています。
   「神座は海に向く!」・・・・・3件では定説とはならない?

   『田の字形プラン、住居から派生し、神官が内部に入る神殿の建築様式は神体を海の方向に
   に向ける!』


       ブログ杵築大社近郷絵図-120141024  
        神は海を向く!鹿島神宮も! 南北逆だが       紙本著色 杵築大社近郷絵図

       新発見!  これくらいにしておきます。

 



 
⑦ 鹿島神宮の社殿創建
  鹿島神宮を少し調べたので社殿創建について記事にしました。
  本殿は参道に直面して有るのが通常ですが
 鹿島神宮は、参道の側面に面しているのです。

  ●鹿島神宮の社殿造営   wiki 


   社殿の造営について、『常陸国風土記』では天智天皇年間(668年-672年)にすでに造営の
   ことが見える。

   神社史料でも、「神武天皇即位元年に創祀、崇神天皇御代に武具封建祭祀、大化5年
   (649)鹿島神郡が設置
   大宝元年(701)造営、神護景雲2年(768)分霊を奈良に迎えて春日社を造立
   ・・・等とあり、社殿の
創建は、確証がありそうで、出雲より「古い」可能性が有る。

   現在の社殿は3間社流造で有るが、創建時は大社造であったかもしれない。
   (飛鳥時代に流造は実在しない)

 
  鹿島神宮 ブログ鹿島神宮配置図20141024    ブログ出雲大社平面図20141024 出雲大社 上が北

 
 

3、出雲大社の絵図変遷 

時代

年代

絵図

所有

遷宮年

奈良・平安

 

なし

 

 

鎌倉時代

1248

出雲大社并神郷図  

県古代文化センター

宝治2年1248の造営の社殿

 

鎌倉?

金輪造営図

出雲国造千家家所蔵

2000年発掘の柱跡と一致

安土・江戸

 

 

 

400年近く史料が発見できない

1596~1615

慶長

慶長年中杵築大社絵図

週間 神社紀行

慶長141609造営

1596~1615

慶長

慶長年中杵築大社絵図

北島貴孝氏蔵

慶長141609造営

1659

万治

出雲大社只今之宮立之図

古代出雲歴史博物館

寛文大造営1667始まる前

1661~1673

寛文

杵築大社近郷絵 図  

古代出雲歴史博物館

寛文の造営1667直前に制作

1661~1673

寛文

杵築大社境内絵   

千家尊祐氏所蔵

寛文造営1667後に描かれた

 

幕末

出雲国大社図    

国立公文書館所蔵

延享造営1744

明治

8年

出雲大社絵図    

出雲大社

1809文化遷宮造営(第26回)


 ● 出雲大社并神郷図  鎌倉時代 1248  この絵図が出雲大社関連では、最古のようです。 
 

    ブログ出雲大社并神郷図20141024   2-3 出雲大社

    ●重要文化財指定1972.05.30(昭和47.05.30) 文化庁解説文 

  杵築大社(出雲大社)を中心として、神領十二郷七浦および所在の諸社を描いた古絵図で、
  大和絵様式による精細な画法を示している。
  中心をなす大社本殿は千木を雄大に、床を高く描いているのが特色で、本殿の前に樓門・舞
  殿・拝殿・左右に摂末社があり、周囲に玉垣や築地をめぐらす。
  鎌倉時代における大社の規模を比較的よく伝え、鎌倉中期頃の制作と考えられ、伝存稀れな出
  雲大社古絵図として貴重である。

 


 ●島根県立古代出雲歴史博物館
  鎌倉時代の杵築大社とその周辺を描いた絵図です。一説によれば、宝治2年(1248)の造営
  の時に、本殿に納められた衝立障子の絵とされています。
  描かれた範囲は、大社の境内を中心に、おおむね古代の杵築郷とその周辺で、特に島根半島西
  部の山々や浦々の特徴がよく表現されています。
  画面上部の日本海には、物資を運ぶ帆掛け船が、稲佐の浜近くには漁船が見えます。
  大社の左手の大きな館は出雲国造家の屋敷で、この他にも掘っ立て柱の建物、垣根をめぐらし
  た建物など、様々な建物を描き分けています
。(写真では判明しないが)

 

  画面中心付近の大社の朱塗りの神殿は宝治2年の造営のものといわれ、他の建物よりもひとき
  わ高くそびえています。
  社殿は、朱塗白壁、切妻、階段、入母屋の楼門などが見られます。
  高さは、他の建物と比較すると16丈有りますか?

  ・他の建物を3丈9m程度とすると 2.5倍8丈24m程度にも見えます。

  ・強引に16丈48mなら、他は4丈20mになります。 
  どちらでしょう? (詳細後述)

  社殿身舎の高さと柱の高さが全高さの半分程度で観ると、鎌倉時代の柱痕跡からの専門家の先
  生が作成した5件の模型
の内、一番小さいものが近い? 
  
この絵図が出雲大社の唯一最古の姿とするとこの「絵」が類推するベスト!

  本殿の右の2社「御向社、天前社20mの高さとは、江戸時代の絵図からは見えないが、
  ま~良しとしましょう!


 ● 金輪御造営差図  作成年代不詳

  出雲国造・千家家所蔵
  『金輪造営図』は本殿の平面図。
  構造材寸法のほかに、大床高欄があったこと、引橋の長さが一町あったことなどが記入されて
  いるとするが?
 

      ブログ出金輪御造営差図-120141024  ブログ出金輪御造営差図-220141024



 ● 慶長年中杵築大社絵図

    慶長141609造営と推定

 

        ブログ慶長年中杵築大社絵図20141024

 

 

 ● 慶長年中杵築大社絵図2: 慶長141609造営と推定    北島貴孝氏蔵
  本殿には向拝付設。本殿に向かって右側に御向社、天前社、左には筑紫社の社がある。
  本殿は慶長年中豊臣秀頼の造営になるものである。
  本殿正面には楼門があり、本殿及び付設社を柵で廻らす。また、本殿・楼門の正面に拝殿、
  その左に庁舎、その後ろに宝形造の三光堂があり、右に会所がある。

  そして左手前隅には戦国期の造営と推定される三重塔や輪蔵もしくは鐘楼、池中の弁天堂、
  大日堂などの建物がある。
  さらに本殿の背後に北島国造の屋敷があり、画面左には千家国造家の屋敷がならび、東側に
  はひと際大きな丹塗の入母屋造の大願寺、その北には上官佐草家が建ちその他の神官などの
  屋敷群がある。千家国造館は現在と同じ位置にある。


         ブログ慶長年中杵築大社-2絵図20141024


 

 ● 出雲大社只今之宮立之図:万治2年(1659) 

  本図は徳川幕府の寛文(1661-67)の大造営の始まる前に幕府に提出された境内図の「写」と
  推定される。

  この絵図により、今まで「杵築大社近郷絵図」などで推定するしかなかった建物の正確な位置
  が示された貴重な絵図と評価されるとも云う。 
  江戸時代初期の境内の建物の正確な配置や規模を明らかにしている


    ブログ出雲大社只今之宮立之図-220141024  ブログ出雲大社只今之宮立之図20141024




  杵築大社近郷絵図(部分図)  

  「紙本著色杵築大社近郷絵図」の杵築大社部分が「杵築大社慶長14年造営宮之図」
  (部分図)として流布する。


       ブログ杵築大社近郷絵図-220141024
              寛文の造営後に描かれた「杵築大社境内絵図」(千家尊祐氏所蔵) 

 

   巨大建築を維持する資材、資金の関係で、規模は次第に縮小し、さらに戦乱もあって中世末
  期には約15mにまで低くなりました。

  豊臣秀頼が願主となった慶長14(1609)年の造営で、本殿の高さは20mルほどに復活
  しました。

  寛文の造営直前に制作された「紙本著色杵築大社近郷絵図」には、鐘楼と三重塔が描かれてい
  ます。


 ● 出雲国大社図   延享造営1744の社殿  幕末の絵図

  この絵図は、本殿を中心にして、俯瞰図的に出雲大社境内の全景を描いていて、殿舎等の配置
  は延享造営と同じですが、作は幕末頃と思われます。

  本殿が正位置に据えられているのに対し、拝殿、十九社、素鵞社などの社殿が本殿に向かって
  求心的に斜めに描かれて
いて、本殿の威容、霊感性を強調している手法が注目されます。


             ブログ出雲国大社図20141024  


 ● 杵築太社境内絵図(千家尊祐氏所蔵) 

                ブログ杵築大社境内絵図20141024

 

 ● 国立公文書館所蔵「出雲大社絵図」(明治8年頃作成)  原図サイズ:54cm×78cm

  明治8年(1875)2月17日、内務卿大久保利通代理内務大丞林友幸が太政大臣三条実美に提出
  した出雲大社修繕の伺
書に添付された出雲大社絵図です。 
  本文書の含まれる「公文録」は、平成10年に国の重要文化財に指定されました。


        ブログ出雲大社絵図20141024

 

 

                  

4, 出雲大社の社殿創建の考察  


 4-1「16丈説」社殿の建設の可能性

 1)大型建築の建設工事

  「48mの高さの建築」を 現在でも地方の建設会社では、施工できないかもしれません。
 
 文明の機械力の無い 飛鳥、奈良時代においての建設では、組織力、人員動員力を保持して
  いなければ不可能です。

  遺跡遺構に有る、弥生時代頃の掘立柱の遺構は 各地域の地域集団(街の大工さん)で施工
  が可能だったでしょうが、
飛鳥、奈良時代に入り、仏教建築の大型建築の建設は、大集団の
  組織を統括するゼネコン的集団が当然対応していた
と考えられます。

  飛鳥時代の寺院建築の代表「法隆寺の五重塔」の心柱の用材は 年輪年代測定によって確認
  できる
最も外側の年輪が594年のものと判明しています。

  仏教伝来538年から50年の短期間で建設技術を当時の建設集団は保持していたこ
とになりま
  す。渡来人の指導によるところが大きかったのかもしれませんが、西暦600年には五重塔の
  建築が可能だ
ったのです。
  596年法興寺(飛鳥寺)完成、597年四天王寺創建、607年法隆寺創建などがあります。

 

 2)大型建築「大工」の歴史

  大工(だいく)とは、木造建造物の建築を建たり、修理を行う職人のことです。

  古くは建築技術者の職階を示し木工に限らず各職人を統率する長、または工事全体の長となる
  人物をさしていました。
「さしがね」を考案した聖徳太子が組織した職位で、建築の「木」に
  関わる職を「右官」、「土」に関わる職を左
官」と呼んでいました。
  古代造寺司においては、建築に限らず工匠の長を「大工」、副を「少工」と呼んでいました。

 

 ・飛鳥時代
   大工の始まりは、慧滋(えじ)(高句麗の渡来僧)と慧聡(えそう)(百済の渡来僧)という
   僧侶で大工の棟梁。
   慧聡(えそう)は、推古天皇3年(595年)に渡来して仏教を広め、推古天皇4年(596年)
   に法興寺(蘇我善德が
寺司、現在の飛鳥寺安居院)が完成すると、高句麗から渡来した
   恵慈と住し、ともに三宝の棟梁と称された。

 『三國佛法傳通縁起』によれば、三論宗(南都六宗の一つ)の学僧で厩戸皇子の仏教の師と
   なったという。
   聖徳太子は、彼らから、建築技術の教えを受け、法隆寺を建立したと云われ、聖徳太子
   は「大工の神様」といわれ
ています。

   五重塔の心柱を立てる技術が有ることが出雲48mを実現させるポイント?  

   15~20mの掘立柱は紀元以前から実績が有る、故に伊勢神宮は容易だが、出雲大社48m
   は建設不能と判断する。
  【長さ45m、自重200トンの柱を!】

 

 ・奈良時代

   「大工」とは、奈良時代の律令に定められた「木工寮」の最上位者の官名です。 
   足羽郡人の益田縄手は大仏殿建立に大工として活躍し、連の姓を賜りました。 

 

 ・平安時代

   建築需要の変化から、朝廷に属さない建築職人が出てきました。
   建築職人は「座」「木工座」という集団を結成 
   「木工座」は大工、権大工(引頭)、長(オトナ)、連、の4階層
に分かれ、 
   大工は「大工職」としてこれらの集団を組織しました。
   大工は世襲が認められ、大寺社は、専属の木工座を持ちました。「座」を統率する大工の
   棟梁が生まれた。

 

  ※益田縄手 (ますだのなわて)朝日日本歴史人物事典  生年:生没年不詳
   東大寺造営の技術者。大工。越前国(福井県)足羽郡出身。足羽郡大領の生江東人や越前国
  史生,造東大寺司主典の安都
雄足らの推挙によって造東大寺司に勤めることになったと推察
  される。
  天平勝宝8(756)年2月に大仏殿院工事を担当す
る現場「造大殿所」の統率者である大工とし
  て従事,翌年正六位上から外従五位下となった。
  天平宝字2(758)年に銭
300文を納めて,大般若経の書写にかかわっており,6年には経師秦男
  公を写経所に推薦している。
  この年木工の技術に優
れていたため石山寺(大津市)造営工事について意見を求められた。
  8年従五位下,天平神護1(765)年,無姓から連の姓を
賜り,西大寺(奈良市)の造営にも関与した。
  神護景雲3(769)年従五位上にのぼった。技術者で内位を授けられた特異な
人物である

  このような組織が発生し、大型寺院建築を設計・施工していた時代に16丈48mの建築を
  出雲地方だけの「大工」でな
い集団が建設できたかどうか、疑問です。朝廷が建設集団を
  管理していたとすると、国司の中央に対する影響力、朝廷に於ける重要建築の評価によって
  建設(設計・施工)の順番が決められていたのではないでしょうか?

 

  平安時代~鎌倉時代の16丈社殿は、倒壊し再建を繰り返していたことからも、朝廷、武家
  からの支援が最重要建築である出雲大社に傾注されていたと考えられます。
  それ以前、飛鳥、奈良時代はどうだったのか? これで創建時期が判明するのではないかと
  思います。

 

4-2、飛鳥から奈良時代の建設事情


1)
国分寺の創建
  東大寺をはじめとする国分寺は、全国で約70箇所、国分尼寺を含めると倍の140箇所が建立
  されています。


  「天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立
  の詔」が出された。
  その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経(金光明経)と妙法蓮華経(法華経)を
  写経すること、自らも
金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺
  と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は
金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺と
  することなどである。
  寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水
田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には
  僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。」
wiki

 
  741年から建築が始まり約20年間で全国の寺が完成したと思われます。1年間で7件の完成
  ピッチです。

  朝廷の国分寺「建設チーム」(大工クラス)が20チームほど必要になります。
  かなり大変でハードではないかと推察されます。
  この間は、国家事業としての大型寺院、神社は建設不可能と判断されます。

 

 2)朝廷大工の状況

 天平13年(741年)以降の朝廷「建設チーム」は、国分寺建設で忙殺されていたとすると、
  出雲大社はその前後に
なると考えられます。
  神社建築だから建設できないことはなく、設計者が設計をしてくれれば、どのような建築でも
  建設できたと考えら
れます。(現在の大手建設業と同様)

  733年の「出雲風土記」に杵築大社記載されていることから「社殿」が在ったとすれば、730
  年以前の創建と判断
される。
  しかし、奈良時代平城京遷都(710年)以降の 政変や皇族同士の争い、疫病、自然災害が
  多発したことが東大寺
、国分寺創建の詔を発した要因とすれば、藤原京時代以前7世紀の創建
  と考えられます。

●7世紀以前の創建か?

 そして、この「出雲風土記」記事が「社殿は無い創建」とすれば、760年以降の建築という
  事になります。
そこで出雲は史料が豊富なので、7世紀頃の状況を調べてみました。

●8世紀後半以降の創建か?

 

 

3、創建時期と歴史的状況

 
 1)創建時期の背景からの推察

 7世紀の出雲の歴史的状況から、大型社殿建設時期を推察してみました。

 

 ① 日本書紀 斉明紀五年(659)の記事が有力な創建時期の候補ですが?
  「この歳、出雲国造 名をもらせり。に命じて、神の宮を修り厳ヨソはしむ」がある。
  この記事は、皇孫の建王が喋れないことから、 垂仁皇子の誉津別命の記紀や出雲風土記の
  記事から平癒祈願の為と
解釈されている。
  【場所を特定していない、神の宮=祠程度ではないか】

 

 ② 日本書紀につづけて「狐、於友(意宇)郡の役丁の執れる葛の末を噛ひ断ちて去りぬ。
   又、狗、死人の手臂タダムキを
言屋社に噛ひ置けり」と記述されている。

  「意宇郡の熊野神社」の記事とみなされ、出雲郡杵築の出雲大社ではないと解釈される。
  
【出雲では無い】

 

 ③ 当時、出雲に「出雲国造」は不在で、当時はまだ意宇郡に居住していた。
  「出雲国造」が意宇郡大領を兼任して出雲郡の杵築へ移住したのは、文武朝の慶雲三年
   (706) である。
「出雲国造」が意宇郡大領を解任されたのは、桓武朝796頃と云われる。 
  「出雲国造」のいない出雲郡の杵築であった。         

【創建は、「出雲国造」が杵築へ移住した文武朝以降(706年以降)となる】

 

 ⑤「出雲国造」の事業ではなく国家事業という説
   斉明紀の記事をもって出雲大社の創建とする説で、その理由は、神門郡には出雲各地に置か
   れた大和朝廷直轄の屯倉の設置がなく、神門郡そのものが朝廷の直轄領だったから、出雲大
   神の神領としたという説・・・です。

 

 ⑥ 斉明五年(659)という時期は、朝鮮半島情勢が不穏で翌年には百済から援軍の要請があり
   大挙出陣したものの
九州朝倉宮の本営で、無理した女帝自身が没してしまうなど 朝廷は、
   大忙しの大変な時期でした。
   出雲大社になどかまっていられる時期ではなかった。更に藤原京に遷都は694年。
   多分創建は無理でした

  【この時期朝廷は多忙で大型神殿建築どころではなかった】

 ⑦ 文武二年(698) 

 ・ 「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三等身以上の親族を続けて任用すること
   を許す」詔が発令

 ・ 翌日には「諸国の国司は、郡司の選考に偏りがあってはいけない。郡司もその職にあるとき
   は、必ず法の定めに従
え。これより以後このことに違背してはならぬ」と諸国の郡司を任命
   し発令・・・
と云うことは、筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司が「特例扱い」された
   ことになります。

   延喜式には出雲国の意宇、伊勢国の飯野・度会・多気、安房国の安房、下総国の香取、常陸
   国の鹿嶋、紀伊国の名
草郡など、九郡と定められています。
   これは、伊勢国をはじめ皆有名な神社の鎮座地です。 
   この時代の出雲国を代表する神社は、意宇郡の熊野神社であることが知れます。

  【この時代の出雲国を代表する神社は、意宇郡の熊野神社である】

 

 ⑧ 元明女帝和銅元年(708)

   中央から派遣された貴族の出雲国司に意地悪な正五位下「忌部宿禰子首」が着任、これから
   出雲苦難の時期
に入る。

 

   650~710年の出雲はこのような状況であったとすれば、7世紀の創建ではないと判断して
   よさそうです。
そうすると奈良時代に入り東大寺、国分寺が完成した後の760年以降の創建
   となります。
925年延長5年延喜式神名帳「出雲国出雲郡杵築大社」と記載されています。

  ● 7世紀の社殿創建はありえず、8世紀後半以降から760~920年ごろの160年間に絞られ
    てきました。
これから先、もっと絞り込むのは、現況では困難なようです?

             もう少し挑戦してみますが。

 

 

4、出雲大社社殿の建築史ーまとめ

時代

年号

史料・確証

状況

高さ・様式

弥生中期

 

田和山遺跡

9本掘立柱・棟持ち柱

 

飛鳥時代

659

神の宮を修り厳ヨソはしむ

日本書紀

 

 

681

常設神殿を造営して官社化

神祇官社制

 

 

698

意宇郡熊野神社【出雲でない】

まだ出雲大社は未完成

 

奈良時代

701

鹿島神宮 造営

大宝律令 神祇制度を制定

【7世紀の創建?】

 

733

杵築大社の記事

出雲国風土記 

神殿高16丈? 48.5m

様式など不明 素木造か?

 

741

東大寺・国分寺 工事期間

20年程度の期間 建立困難

 

 

8世紀

三田谷I遺跡SBO1他

9本掘立柱・棟持ち柱

【760~920間 創建?】

平安時代

925

「出雲国出雲郡杵築大社」記載

延喜式神名帳

神殿顛倒を繰り返す6回

鎌倉時代

1248

正殿遷宮 

出雲大社并神郷図(重文)

2000年発掘 柱痕跡

(5人の専門家模型作成)

ここまでは16丈?

切妻・妻入・朱塗・白壁

 

1268

火災焼失 その後 規模縮小

客座五神の神座

高さ8丈    24m

室町時代

16世紀末

戦乱・荒廃で規模が小さくなる

北島國造家調査

高さ4丈5尺  13.5m

 

 

1268以降は遷宮を繰り返す

仮殿遷宮で改修程度か?

様式など不明 朱塗か?

江戸時代

1609

再建 豊臣秀頼 造営

内部 塗、外部 黒漆塗

高6丈5尺   18.6m

 

1667

再建 松平直政 松江城主造営

素木造 簡素 復古的

高さ8丈    24m


① 社殿の創建

  難解です。
  【7世紀の創建?】【760~920間 創建?】か判断できませんが、確実なのは、760年以降。
  『天日隅宮』と呼ばれ、宮殿であったこと、記紀の記事などから 
  当
初から高層建築であったと考えたい。  

 

② 大社造の変遷

 ●弥生時代中期から6世紀後半   【大社造の源流の遺構が有る】 

  棟持柱の遺構が有る。切妻、妻入りまでは確証がないが大社造の源流として判断しても良い。

 ●1248年まで          【高層社殿であったが鎌倉時代以降、規模縮小】

高さ16丈の高層社殿であったが、朱塗、白壁の大社造であった。 

倒壊、遷宮を繰り返し規模も縮小し、仮殿遷宮、本殿屋根修理程度であった。 

 

 ●1609年から1677年の造営   【華美から簡素へ復古】
  1609年の造営では朱塗、黒漆塗、彫刻と桃山文化の華美な様式になり、1677年素木造の復古
  調
になる。

  伊勢神宮とは異なり 大社造の源流として、遺跡遺構が多く周辺に有る。
  その発展は、住居系、宮殿式で「人が中に入る」ことが可能な平面が特長です。
  そして、その神座は正面から横を向き、海と対面している特長が有る?

  また、江戸時代中期、伊勢神宮と同様に華美なデザインから復古調のデザインに幕府、神官が
  協調して実現させている。

  戦国時代には、縮小、荒廃したのが 江戸時代の安定期にあらゆる文化の深耕がなされ文芸復
  興がなされたことは 明治時代の神道家たちの暴挙、神仏分離、廃仏毀釈に比べなんと素晴ら
  しいことと思います。

  境内の発掘が続いて行われ、地上部身舎の様式、階段などの確証が発見されるなら、世界遺産
  当選確実で
しょう!
  それに向かった社殿復元コンペが行われたのですが、今一歩「Authenticity」「真正性」にか
  ける結果となっているようです。


5,出雲大社社殿の復元

 

 1)社殿復元の論争

   『金輪御造営差図』には、神殿を構成する9本柱は3本ずつの材を金輪で束ねて1本の柱とし
  て描かれており、建築史の常識からみると異例のものです。

  しかもその柱の直径は1丈(約3m )、階段の長さは1町(約109m )と記され、尋常な規
  模ではないことから単なる想像・理想上の伝承図と言われてきました。
  この『金輪御造営差図』をめぐる論争が今まで100年続いているようですが、結論は?

 

 ① 第1回論争 明治41年(1908) 

  本殿の高さをめぐって建築学者の伊東忠太と歴史学者の山本信哉の論争がありました。
  伊東が「32丈や16丈の建築があったはずがない、金輪図は馬鹿馬鹿しいもの」といったこと
  に反発し、
山本は「32丈はないにしても16丈はありうる」と唱え、東大寺大仏殿の高さが15
  丈6尺であることから、
『口遊』(970年)の解釈を踏まえて16丈が穏当であるとしました。

 

 ② 第2回論争 昭和11年

  建築学者の福山敏男が高さ16丈の本殿復元図を作成した。 
  しかし、賛意を表する学者は皆無であった。

  そして長い間、『金輪御造営差図』は建築史・歴史学の俎上にのることはなかった。

 

 ③ 境内発掘調査  平成11年(1999)9月

  祭礼準備室建設に先立って出雲大社境内遺跡の発掘調査が開始された。

  翌年2月になると幅3 、長さ4 以上におよぶ礫群が2列現れてきた。

  一見排水溝のようにも見えるが、地形の低い南側が途切れているので溝ではない。

  これまで見たこともない奇怪な遺構である。

  発見された場所が境内地であることを考慮すれば神社建築に関わる遺構の可能性が高いと思わ
  れたので、二つの礫群の間隔を測ってみると約6m 。
  とすれば宮司家に伝わる「金輪図」に描かれた柱の間隔に近いではないか。

  俄にこの礫群は本殿の柱穴に詰められた石の可能性が高いのではないかということになり、
  この地区を集中的に調査した。

 

 ④ 境内発掘調査  平成12年(2000)4月5日
  現地表面から1.4m 掘下げた地点で、直径約1.3mのスギ材を3本束ねにした巨大な柱が出現
  し、調査に携わっ
た者一同は驚愕した。
  出土状況は『金輪御造営差図』に描かれたものにきわめて近い。


        ブログ出金輪御造営差図-120141024     ブログ出雲大社平面図20141024
            金輪御造営差図                本殿平面図      


 ⑤ 16丈説を容認

  この調査結果で、現在の先生方は、16丈説を容認するようになった。
  未だ抵抗している先生もいるが?
  1988年に福山敏男博士が監修した10世紀の(出雲大社本殿復元案の大型模型」までは 
  お金が出せないので、
小ぶり模型にし5人の先生を競わせるという策に出た。
  出雲大社は、さすがに頭が良い!素人専門家には好評!

  結論、「柱根が姿を現した」にすぎず、建物の高さ、規模、仕様、様式が証明されたわけでは
  ありません。復元をめぐる論争は終わりがないことでしょう。しかし・・・・

 

数十年は、拝殿を解体出来ないし、拝殿正面を発掘するわけにも行かず(参拝客が減る)

しばらくは、新しい発見は無い・・・とすると、この論争もまた一休みになるでしょう!

 

 2)1988年の復元大型模型
  1988年に福山敏男博士が監修した10世紀の出雲大社本殿復元案に基づき、島根県教育委員会
  が製作した大型模型

 

 ① 縮尺1:10、高さ約5m、全長約13mを測り、大規模で迫力ある模型である。

 ② 平安時代中期「雲太」と称えられ、日本一の高さ(16丈=約48m)を誇ったとされる大本
   殿の推定復元模型

 ③ 明治 41 年以来、100年におよぶ古代の出雲大社本殿建築をめぐる論争において、議論の的
   となる復元案を模型化
したもので学術的価値が高い。


               ブログ平安時代の出雲大社20141024

                   2000年柱痕跡発掘以前の復元模型


3、「5人の専門家」による復元模型

  東大寺大仏殿を凌ぐといわれる出雲大社本殿16丈(高さ48m)説をめぐる論争は、明治の
  伊東忠太VS山本信哉、戦後の福山敏男VS堀口捨己、現在まで約1世紀続く大論争です。

  さらに2000年には出雲大社境内遺跡で画期的な発見があって、論争は再び加熱しました。

  これを受けて島根県立古代出雲歴史博物館は、全国5名の建築史学者に復元設計と模型作成を
  依頼し、現在5案が常設展示されています。

 

 

設計者氏名

<現職名>

復元案の大きさ

基壇高さ階段角度

色彩・壁・妻面

1

藤 澤 彰

芝浦工業大学

129.5・20・48

基壇高 3  16°

白木・板壁・板壁

2

宮 本 長 二 郎

東北芸術工大

127.3・23・47.9

基壇高 1.2  17°

朱塗・白壁・和小屋

3

黒 田 龍 二

神戸大学

49.6 ・25・43.8

基壇高3.6  45°

朱塗・白壁・和小屋

4

浅 川 滋 男

鳥取環境大学

42.1・23.3・41.8

基壇高2.1  55°

紅殻・白壁・扠首束

5

三 浦 正 幸

広島大学

37.4・22.1・27.3

垣全高2.4  45°

紅殻・白壁・ 無



ブログ出雲大社5人模型20141024

 

   このように5人が夫々、特徴の有る設計をし建物の高さ、階段、社殿形状、塗装など意見が別
  れています。

  と云うことは、大社造の起源、発展経過も明解でないことを証明していることになります。

  1988年に福山敏男博士が監修した前述の復元大型模型も加えれば、6案の類推案が展示されて
  いることになります。

  この結果になった大きな要因は、発見された柱跡と数枚の絵図のみが確証の有る僅かな資料だ
  けだからです。

 

            ブログ鎌倉時代の出雲大社本殿20141024

     左から三浦正幸27.3m、浅川滋男41.8m、黒田龍二43.8mの復元案 (階段の長いのは省きました)

    もう一度、鎌倉時代(といわれる)出雲大社并神郷図1248)を観てみましょう。

 

【検討条件】 

 ・身舎と柱の高さのバランス 50:50 
 ・左右に有る「
御向社、天前社 筑紫社」の高さの対比  2.5倍
 ・本殿と楼門の距離 数10m ・階段は1間幅で5件とも共通で長さが違う この絵は短い 

 ・楼門は入母屋造、朱塗 高さ 10m 
            事例 
般若寺楼門(国宝)楼門最古の事例 文永年間(1264)頃

                       

  ブログ出雲大社并神郷図20141024  ブログ般若寺楼門20141024     

                                     般若寺楼門 

    この条件が正しいとすれば、

 ● 黒田龍二の復元案 
  自説で『高さを含む地上部分の復元には、絵図としての限度をふまえたうえで、「出雲大社
  并神郷図」に描かれた本殿建築の床上と床下の寸法比率や装飾などを採用する』としている。

 【考え方】として
  ◾「口遊」や「金輪御造営差図」を根拠とする
高さ16丈説は信憑性に欠けるとして批判。
   また「遷宮神宝注記」は壁代など殿内調度の寸法を記すもので、直接に本殿の大きさを示す
   ものではないと考え、発掘遺構の平面をそのまま本殿の平面規模と推定する。

  ◾ 
本殿の外観等は「出雲大社并神郷図」を主な根拠とする。(解説文より)
   少し16丈に近い高さ?。階段も長すぎる?

 ●浅川滋男41.8m   少し16丈に拘りすぎかもしれません?

 ●三浦正幸27.3m   黒田龍二と同様なスタンスと思います。

 絵図検討条件】と合う、高さが一番低く、平面規模の小さい。 
  これが復元神殿としておきたい。

 

  と勝手に考察します。

  地上から上の史料は皆無で、「三内丸山遺跡」の掘立柱の良く解からない形状での復元、
  「池上曽根遺跡」の復元建物決定までの論争と同じで 地上部は先生方の類推と、観光収益
  目的の持主のせめぎ合いによって決まることを再度証明している訳です。

  5,6回倒壊し再建されているのなら、同じ場所ではないとすれば柱根跡はもっと有る?
  もっと境内の発掘調査が進まないと意見は、まとまらないのでしょう。

6,出雲大社社殿のルネッサンス
  

   慶長~寛文における社殿造替の神仏習合から神仏分離への変遷をまとめてみました。
  明治時代の200年以上前に、文芸復興、復古調への転換活動がありました。

  伊勢神宮同様唯一神道の復活です。

 

時代

年号

 活動

内容補足

社殿規模等

鎌倉時代

1248

正殿遷宮 

出雲大社并神郷図(重文)

2000年発掘 柱痕跡

(5人の専門家模型作成)

切妻・妻入・朱塗り・白壁
高さ
16丈?

 

1268

火災焼失 その後 規模縮小

 

高さ4丈5尺13.5m

室町時代

応永4年

1397

「僧乗心置文」、杵築の惣持院は北島氏が相続する寺

北島国造家文書

国造家も寺院をもっていた

 

永正16年

1519

護摩堂形式拝殿、鐘楼、三重塔、輪蔵など仏教建築が建立

尼子経久 両部神道の理念 仏教色が濃厚

 

 

 

年中行事は鰐淵寺衆徒が深く関わり、

経所で大般若経の転読、さらには本殿での読経が執行

平安末から

神仏習合が盛ん

桃山時代

慶長14年

1609

豊臣秀頼 正式本殿に造換

外部黒漆 内部朱塗 二重繁垂木 出組 彫刻、装飾多い

高6丈5尺 18.6m

 

 

◆紙本著色杵築大社近郷絵図

北島国造家蔵  

慶長14年の造営後

 

 

寛文度造営は本願(戦国期以降造営事業を主導した僧侶)・国造家・松江藩の協力態勢のもとに始まり、最初期には神仏分離の意図はなかった。

 

万治2年

1659

◆出雲大社只今之宮立之図

寛文大造営の前に幕府に提出

 

 

 

宮司(千家尊光)は松平直政と図り、

両部神道から唯一神道に変換する方針を決定

 

江戸時代

寛文元年

1661

江戸幕府寺社奉行、

大社の両部不可を説く。

松平直政は藩儒に

黒沢弘忠を登用

廃仏神儒一致を推進

寛文2年

1662

幕府社寺奉行、

大社の神仏分離を諒解。

北島邸内にあった、

曹洞宗神宮寺廃止

三重塔は撤去され

帝釈寺日光院移建

寛文2年

1662

真言宗大願寺の本願は、松平直政に無礼のかどで国外追放

「杵築古事記」初巻

梵鐘は西光寺(福岡市)に現存国宝

寛文4年

1664

大日堂本尊の松林寺への遷座と大日堂の撤去から

いわゆる寛文の神仏分離は始まる

 

寛文5年

1665

両部改正に際し、大社近傍にあった峯薬師堂を修理免本郷に移す

一切経蔵の破却を以て大社での神仏分離は完結する。

 

寛文7年

1667

12世紀後半から長い年月続いた大社と鰐淵寺との関係断絶する。

徳川幕府50万両を奉納援助

唯一神道の復活

寛文7年

1667

藩主松平直政正式本殿に造換

素木造 簡素

高さ80尺24m

延享元年

1774

正殿の造営および遷宮 この時の建物が現在の本殿

 

  

    ブログ出雲大社復元絵図ー320141024   ブログ出雲大社復元絵図ー220141024 
 
           現本殿                    慶長造営復元図      

    ブログ出雲大社復元絵図ー120141024

                 寛文造営 本殿設計図の当初案 慶長
  
  寛文の大造営における出雲大社本殿設計図の当初案。出組を多用した豪華な桃山建築。
  豊臣秀頼が造営した江戸初期の本殿を参考にしている可能性がある。


7,神社建築の起源探訪のまとめ

 神社建築の起源  伊勢神宮と出雲大社社殿の起源を探訪 

 

要旨

 

伊勢神宮神明造は1300年営々と式年遷宮で伝承され建築されてき
 たと、信じていた人が
大半であったと思うが、全く違い法隆寺の
 建立時期と同じ時代に創建され、寺院建築と
は異なり、日本でも
 ルネッサンス、文芸復興の活動が行われ 簡素な神社が、華美な
 神社に
 そして再度簡素にと・・・凄い建築の歴史です。

式年遷宮約100年の中断以降1563年から、寺院様式になり入母
 屋、朱塗の神社建築になり
17世紀まで続く

神明造での遷宮再建の可能性は、1585天正13年第41回外宮・内
 宮式年遷宮となるが、
この遷宮時期は桃山文化(1573–1603)
 花盛りの時期で、白木で簡素であったとは
考えにくい点もある。

 

・出雲大社は、伊勢神宮とは異なり 大社造の源流として、遺跡遺
 構が多く周辺に有る。

 その発展は、住居系、宮殿式で「人が中に入る」ことが可能な
 平面が特長。
そして、その神座は正面から横を向き、海と対面し
 ている特長が
有る?

 また、江戸時代中期、伊勢神宮と同様に華美なデザインから復古
 調のデザインに幕府、神官
が協調して実現させている。

1248年まで【高層社殿であったが鎌倉時代以降、規模縮小】
 高さ16丈の高層社殿であった
が、朱塗、白壁の大社造であった。
 倒壊、遷宮を繰り返し規模も縮小し、仮殿 遷宮、本殿屋
根修
 理、程度であった。

1609年の造営では朱塗、黒漆塗、彫刻と桃山文化の華美な様式に
 なり、1677年素木造の
復古調になる。

 


 

 

 

・伊勢、出雲とも鎌倉時代以前の建築様式は、不明解で有る。

・出雲は、鎌倉時代以降しばらくは、高層(48m)社殿であった。

・中世は双方とも白壁、朱塗りの架構であったと
 絵図などから明らかである。

・本来の神社社殿に戻そうとするルネッサンス活動があった。

 

要点

神明造、大社造とも創建時からの様式ではなく鎌倉時代以降に確立された様式で、近代の建築史家の命名様式なのです。

 

問題

出雲は、復原案が6種類もあり、この決着はどのようになるのか、確証がこれ以上出てくるのか、是非、決定まで漕ぎ着けて頂きたいのですが!

 

今後

伊勢、出雲とも7世紀の建築様式は、不明で有りその探求は難しそうですが、出雲は、周辺の発掘が可能になれば、鎌倉時代以前に遡れるかもしれないが・・・無理なのでしょう?



   神社建築の起源、今後は、住吉、春日など各様式の起源も探訪する予定です。


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30年続く寺社めぐりのメンバーです
<TIAS>グループ名称
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