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寺社建築文化財の探訪<TIAS>

寺社建築の起源と変遷、文化財の諸問題を探訪しています。 又文化財拝観資料も記載しています。
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カテゴリー  [ 4 神社建築の探訪 ]

伊勢神宮の起源と歴史

4-3伊勢神宮起源歴史

 

4-3

  伊勢神宮の起源と歴史      

 
 
   2013051711395121c.jpg


1,「伊勢神宮」起源 【Wiki引用】

 『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に

 祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とあり、皇女

 倭姫命が天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をしたと記され

 ているのが、内宮起源説話である。(紀元前5年)

 この話は崇神天皇6年の条から続き、『古事記』には崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に

 伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢

 と呼ばれている。

 外宮は平安初期の『止由気神宮儀式帳』によれば、雄略天皇22年7月に丹波国(後に丹

 後国として分割)の比沼真奈井原から、伊勢山田原へ遷座したことが起源と伝える。

                                   478年)

 

2,伊勢神宮の建築史年表

 文献による各社の文献資料の歴史ポイントを一覧に建築史年表してみました。

 神話、古事記・日本書記の世界は、難解で対応不可能です。あくまでも建築関連の史料

 で探訪します。

時代

年代

事象

出典・確証

背景

紀元前5年

垂仁25年

内宮 鎮座 確証とは云えない

記紀古語拾遺等

 

古墳~592

 

 

 

 

   478

雄略22年

外宮 伊勢山田原へ遷座

 

外宮『記紀』記述無

538

 

仏教伝来

 

 

飛鳥~710

 

法隆寺建立607 大化改新645

 

西本6号遺跡東広島

   681

天武10年

常設神殿を造営して官社化

官社制

 

685

天武14年

式年遷宮の制を制定

持統2年説688

 

690

持統4年

第1回内宮式年遷宮

 

 

692

持統6年

第1回外宮式年遷宮

 

 

698

文武2年

多気大神宮(寺)度会郡に遷す

『続日本紀』

神仏習合始まる

701

大宝1年

※大宝律令 神祇制度を制定

 

 

奈良~794

 

古事記編纂712 

国分寺造営開始741

日本書紀編纂720

出雲風土記編纂733

742

天平14年

「伊勢大神宮天皇御願寺可被建立之由」

大神宮諸雑事記

東大寺要録本願章

766

神護2年

「丈六仏像を伊勢の大神宮寺に造らしむ」

『続日本紀』

 

766

 

「正殿等飾金物注文」

正倉院文書紙裏

 

767

景雲元年

「伊勢国逢鹿瀬寺大神宮寺」 

 

 

平安~1185 

 

延喜式928制定

 

 

804

 

皇太神宮儀式帳

 

 

1186

文治2年

東大寺大仏殿復興祈願・

重源が伊勢参宮

東大寺衆徒参詣

伊勢大神宮記

鎌倉~1333

 

 

 

 

1273

文永十年

西大寺の叡尊、三度伊勢参籠

 

 

1303

嘉元元年

絵図1正殿宝殿正三角形配置

遊行上人絵伝

一遍・僧侶伊勢参集

室町~1573

 

 

 

 

 

南北朝

絵図2正殿・宝殿正三角形配置

伊勢両宮曼荼羅

白木造で棟持柱ない

1462~1585

 

内宮 式年遷宮中断

4回仮殿造営

 

1434~1563

 

外宮 式年遷宮中断

6回仮殿造営

 

 

室町時代

16世紀

絵図3 正殿・宝殿 2棟

入母屋・朱塗・   直線配置

伊勢参詣曼荼羅

神宮徴古館蔵

室町時代ではなく

江戸1800年代?

 

 

絵図4 正殿・宝殿 3棟 

入母屋・朱塗・   直線配置

伊勢参詣曼荼羅

J.パワーズ氏

 

桃山~1603

 

 

 

 

1595

文禄4年

絵図5 正殿宝殿 3棟

入母屋・朱塗・   直線配置

伊勢参詣曼荼羅

東京三井文庫蔵

 

1585

天正13年

第41回外宮・内宮式年遷宮

同時期に遷宮

 

江戸~1868

 

 

 

 

1609

慶長14年

第42回外宮・内宮式年遷宮

 

 

1629

寛永6年

第43回外宮・内宮式年遷宮

 

 

1636

寛永13年

仁科神明宮(長野)遷宮造替え

HP

 

1659・1683

 

内宮正殿焼失のため臨時遷宮

 

 

1789

寛政元年

第51回外宮・内宮式年遷宮

 

 

1797

寛政9年

絵図7 正殿・宝殿 

切妻・白木造 逆三角形配置

伊勢参宮名所図会
三重県総合博物館

伊勢参宮の案内書

1809

文化6年

第52回外宮・内宮式年遷宮

1829-53回

1849-54回

明治~1912

 

 

 

 

1869

明治2年

第55回外宮・内宮式年遷宮

直線並列

 

1889

明治22年

第56回式年遷宮 現 神明造

逆三角形配置

 

1892

明治25年

絵図8 正殿・宝殿 

切妻・白木造 逆三角形配置

皇大神宮殿舎図

江差町教育委員

伊勢参宮の案内書

1900

明治33年

内宮正殿焼失のため臨時遷宮

 

 

1909

明治42年

第57回外宮・内宮式年遷宮

 

 

2013

平成25年

第62回式年遷宮

 

 

 

       ブログ伊勢神宮内宮写真20141025


3,伊勢神宮の建築史情報の確認

 

1)伊勢神宮の神明造

 ① 伊勢地方の遺跡で、神明造の源流と言えるものが有るか?

   伊勢付近の遺跡を三重県の遺跡一覧表で確認する限り、弥生時代には掘立柱、棟持

   柱の遺構は無いようです。  三重県埋蔵文化財センター   遺跡ウォーカー

 

 ② 伊勢神宮 鎮座から685年頃までの神宮に関する資料がない? 伊勢、現場に存在

   したのかも不明当方の探査能力無しです。文献、論文も無い!

 

 ③ 天武天皇が式年遷宮を発意された685年頃の建築が伝承されているのか?

   絵図などからの検証では7世紀の建築が、今日まで伝承されているとは云えない。 

  

 ④ 神明造の起源はいつなのか?

「正殿の建築は、奈良時代、あるいはそれ以前に遡り得る形式です」という説が有る。

その根拠は、

   ・天平宝字6年(766年)正倉院文書の紙裏に記載された「正殿等飾金物注文」

   ・延暦23年(804年)の「皇太神宮儀式帳」

2史料から「切妻、破風の先端が屋上に出し千木となる棟持柱、10本の堅魚木」と

学者の先生が唱えられています。

神社の人も「殿舎や垣の配置と規模に若干の違いはあるものの、概ね古代以来のデザ

インと構造を今によく伝えています」と云っています。

 

2史料の写真を探しました。文字が読めませんが、建物規模、千木、堅魚木、高欄、

金物は、判読できますが、切妻、掘立柱は判読できません。

「正殿等飾金物注文」も、長押、下桁、高欄、阿不理板?は判読できますが、屋根

形式、柱・壁の状況等の建築様式に関する文字は判読できません。

 ブログ皇太神宮儀式帳20141024 ブログ大神宮飾金物注文20141024

     皇太神宮儀式帳              正殿等飾金物注文 

 

  平安時代804 神明造の建築様式が記述されていた・・・神明造とは云い切れない!  

拡大してください。判読が出来ない難しい文字が並んでいるので棟持柱、切妻を直接

文字で書いていないのかもしれませんが?  

 「神明造の信者」が判読したとしか思えず、この史料では神明造であったという確証で

 は無いと判断します。

 

⑤ 当初から神明造であったのか?

不明です。「唯一神明造」の用語も疑問視され、神明造の様式自体が中世以降(江戸

時代末期)かもしれません。神明造に類似した遺跡、遺構もなく7世紀には、神仏習

合が進攻し仏教建築も隆盛の時期であり、神明造と同等の様式が存在したとは云えず、

寺院建築の様式であった可能性のほうが高いのかも知れません。

 

中世以前の絵図では、配置が逆三角形と正三角形と異なり、棟持柱も無い、切妻平入

り、白木であった確証も無いことからも飛鳥、奈良時代から神明造が存在していたと

は言い切れません。

 

2)伊勢神宮の内宮絵図の変遷

 

 

年代

確証

配置形式

屋根形式

棟数

外装

棟持柱

奈良平安

 

無い

 

 

 

 

 

鎌倉時代

1303

遊行上人絵伝 金蓮寺

三角形

切妻平入り

三棟

白木?

南北朝

1392

伊勢両宮曼荼羅 正暦寺

三角形

切妻平入り

三棟

白木?

室町時代

伊勢参詣曼荼羅 
  神宮徴古館

並列直線

入母屋妻入

2棟

朱塗

安土桃山

1595

伊勢参詣曼荼羅 
  三井文庫蔵

並列直線

入母屋妻入

三棟

朱塗

江戸時代

伊勢参詣曼荼羅
 J
.パワーズ氏

並列直線

入母屋妻入

三棟

朱塗

江戸時代

1797

伊勢参宮名所図会
 三重県

並列直線

切妻平入り

三棟

白木?

有り

明治

1889

皇大神宮殿舎図
 江差町

逆三角形

切妻平入り

三棟

白木?

有り

現状

2013

内宮

逆三角形

切妻平入り

三棟

白木?

有り

 

 

外宮

正三角形

切妻平入り

三棟

白木?

有り

 

 上表のごとく、式年遷宮のたびにその時代の建築技術、様式が混在(他の類似神社も同様)された可能性が高い。

 

●皇太神宮儀式帳 平安時代804 神明造の建築様式が記述されていた

         ・・・神明造とは云い切れないが 

 

●遊行上人絵伝第9巻1段部分   京都・金蓮寺   鎌倉時代 1303年
 

      ブログ行上人絵伝京都・金蓮寺20141025

 

 この絵からは切妻造、平入り、神明鳥居は確認できるが正殿・宝殿の配置が不明解です。

 拝殿、本殿配置とも観れる。下図の絵とも異なります。

 (あくまでもこの絵図の作者が忠実に画いたことが前提ですが)

 しかし、礎石の上に立つ柱、擬宝珠(凸型)高欄が有る点は、鎌倉時代以降の寺院様式

 の絵図かもしれません。

 

 

●伊勢両宮曼荼羅   正暦寺  南北朝時代 1350年ごろ 

        ブログ伊勢両宮曼荼羅20141024

 内宮外宮
とも逆三角形の配置、切妻平入りで現在の外宮の配置とは異なっています。

 白木、棟持柱ははっきりと確認できません。鎌倉時代1303年から約50年経つと配置が

 変更されています。

 曼荼羅図だから同じ絵柄にしたのか?(これも画家が忠実に画いたと信じて!)

 

 

●伊勢参詣曼荼羅  室町時代   神宮徴古館

       ブログ行伊勢参詣曼荼羅20141025

 
       内宮外宮とも2棟になっています。

       宝殿が1棟なのでしょう。配置は、直線と思われ、屋根は入母屋です。
       正面は妻入り、
朱塗の架構、白壁です。三間三面

 

 南北朝時代の1350年ごろから室町時代1550年とすると、約200年で大きく変化してい

 ます。その間、約1450年から1585年は戦国時代で遷宮は行われていません。

 

 1585年天正13年第41回外宮・内宮式年遷宮でこの変革が行われたと思われます。

 

 遷宮を行わず。荒廃していたのを復興させたのは、慶光院といわれた神宮近くの尼寺の

 尼僧たちによって行われました。

 初代守悦上人、三代目清順上人、四代目の養上人が、献身的な努力をして全国を巡って

 浄財を集め、宇治橋、外宮、内宮仮殿・・・と造営を続け、そして1585年になってつ

 いに内宮と外宮同時の第41回式年遷宮を成し遂げました。

 この遷宮には、織田信長と豊臣秀吉が莫大な寄付をし、その結果、戦国武将の意向で仏

 教建築の様式が反映されたのかもしれません。

 この絵図は、もっと時代が下がり江戸時代のものとも推定されています。

 同年代に下図が有るからです。

 または、作者が三棟を2棟に省略したのかもしれません。筆は少し稚拙だそうです。

 

●伊勢参詣曼荼羅   安土桃山 1595 三井文庫蔵 

       ブログ伊勢参詣曼荼羅20141024

     上図と同じ頃に画かれています。

    内宮外宮とも3棟になり宝殿が2棟です。配置は、直線と思われ、屋根は、入母屋です。

    正面は妻入り、朱塗の架構、白壁です。上図と同様年代的には1585年天正13年の遷宮

    でこの変革が行われたと思われます。

    二棟だったのか、三棟だったのかも問題ですが、仏教の様式が大半の建築になった背景

    がもう少しわかる史料があるとよいのですが?

 

 

●伊勢参詣曼荼羅  安土桃山~江戸 16-17世紀 アメリカ、J.パワーズ氏所蔵

       ブログ伊勢参詣曼荼羅アメリカ20141025
     上図より少し新しいようです。

     内宮外宮は三棟並列です。 附属の建物の細部に変化があります。

 

●伊勢参宮名所図会  江戸時代 1797  三重県総合博物館

 『伊勢参宮名所図会』は、寛政9年(1797)に京都・大阪の版元から刊行された本編

 5巻6冊、附録1巻2冊、合計8冊からなる伊勢参宮の案内書で、数ある案内記や道中

 記の中で最も詳しい決定版ともいえるものです。  

     

   

    内宮 切妻、平入り、白木、棟持柱等現在と変わらない、配置、様式となる。
       並列直線配置

     
ブログ皇大神宮殿舎図-120141025
       外宮

 

●皇大神宮殿舎図   明治時代    江差町教育委員会  並列直線配置

     

  

●明治時代初期の写真   並列直線配置であり、明治22年には逆三角形になる。

       ブログ伊勢明治初期20141024

     明治22年には五十六回目の遷宮が執り行われた。

     この写真は第56回目の遷宮の後と思われる         逆三角形の配置。 

 

       20200426152336d91.jpg

 


3)社殿建築の変遷

 ① 社殿配置:時代で配置が変化している。
   創建?から室町時代までは、正三角形 室町時代から明治までは並列

   以降、現在まで逆三角形(内宮)・正三角形(外宮)配置になる。

   何故、明治時代に今までにない逆三角形の配置にしたのか?

 

 ② 棟持柱:1600年頃までは無かった。

   絵図では、棟持柱は1800年ごろまでは無いが、仁科神明宮などの事例から1600年

   以降から出現したのか?

   出雲大社など他の神社の事例から模倣したのか不明だが、その頃復古する設計がな

   されたと思われる。

   仁科神明宮は、1636年の再建で江戸時代の様式も見られるが、棟持柱など現伊勢

   神宮と類似している。

 

 ③ 建築様式 創建?からは、神社形式が1400年ごろまで続いていた?

   (現在の御饌殿と同じ形式の板倉造?)

 

   1462~1585内宮 式年遷宮中断、1434~1563外宮 式年遷宮中断以降
   寺院様式 
入母屋、朱塗
   1600年~1800年の間で神社様式に変化する・・切妻造、白木

 

 ④ 外宮の御饌殿(みけでん)は、奈良以前の古い形式(確証は?)

   四隅に柱はなく、横板壁で囲んだ、井楼造(せいろうづくり)ともいわれる特殊な

   板倉造である。(起源か?)

   式年遷宮が100年以上途絶える以前は、ほとんどが御饌殿と同じ形式の板倉造だっ

   たとも云われている。

 

【その他の事例】 浜名総社神明宮は、古くより伊勢神宮の御厨があった浜名湖の北

 辺に位置する神社である。

   本殿は、江戸時代後期の建築で、高床とせず礎石上に土台を置き板材を井籠に組む

   板倉形式で両側面の棟持柱で棟を支える、他に類例のない特殊な建築形式をもつ神

   社建築として貴重である。(文化庁解説:重要文化財)

 

 ⑤ 内宮の御稲御倉(みしねのみくら)御稲御倉は単なる穀倉ではなく御稲御倉神をま

   つる社殿である。

   穀霊は穀倉に宿るという信仰で「神明造の起源は古代の高床の穀倉建築」であると

   云う説も有るが、穀倉が社殿に転化したと云うより 元来「高床の穀霊祭祀建築」

   で穀霊の祭場であったとも云える。(別項目参照)

 

 

4)伊勢神宮のルネッサンス

 ① 紀元前鎮座されたと云う確証は無く、建築の確証も無い。

式年遷宮が685年天武天皇14年式年遷宮の制を制定の10年程度前に社殿を創建し

た・・・と判断したい。

 

 ② その時代は、仏教建築の繁栄時期で「神明造の様式」は 地域の遺跡遺構に掘立柱

も無く採用されていないと判断されるが、様式が、どのような形であったか今後推定

していきたい。(困難?)

 

 ③ 鎌倉時代頃の社殿の絵図から、神明造の様式が「神道復古のルネッサンス」が武家

の寄付、支援で採用、遷宮された可能性が高い。

天皇制の御世で神仏習合の時代、ここまでの変革は新風で無いと不可能では!

 

 ④ 室町時代に又仏教様式に変化する。戦国時代の遷宮中止期間を経て、領袖となった

信長、秀吉、家康が武家文化としての威厳を保つ桃山文化の華美な様式を復興に際し

強要したものと・・・判断したい。

 

 ⑤ 江戸時代の1800年ごろは現在の配置、様式が再度遷宮で改変され「神明」が復

古していた。しかし、その改変は、もっと古い寛永13年(1636)仁科神明宮(長

野)遷宮造替えで神明造が採用されているので古くとも1600年頃ではないかと判断

される。

 

 ⑥ 寛永年間1620年ごろは家光の時代であり、日光東照宮をはじめ華美で壮大な建築

が多数建立されていた時期で、出雲大社ですら黒漆、金箔貼りの東照宮的建築が計画

されていた。

しかし、神宮の意向が通り「神明造」に復古する「第2回神道復古のルネッサンス」

になったのではないかと、推察する。

 

 ⑦ その背景には、伊勢神道などの神道の隆盛、復古が有るのではないか。

  (良く解からない?)

「鎌倉時代末期に、それまでの両部神道や山王神道などの本地垂迹説とは逆に、反本

地垂迹説(神本仏迹説)が勃興するようになり、その影響で、伊勢神宮の外宮の神官

である度会家行によって、伊勢神道が唱えられた。

伊勢神道は、元寇により、日本を「神の国」であると再認識し、唯一絶対の日本の宗

教が神道であるとする勢力のよりどころとされて、発展した。」(wiki)

この力が徳川家を説得させるものまでになっていたのではないか?他に何が考えられ

るか・・・勉強します。 

        ブログ伊勢神宮現配置図20141024


5)伊勢神宮の建築史ーまとめ

 ① 伊勢神宮社殿の創建 

478年 雄略天皇22年外宮伊勢山田原へ遷座を創建とする説が有るが、社殿が創建さ

    れた確証は無い。

685年 式年遷宮制を定めた第1回遷宮が692年その10年前程度には社殿が存在した

    と推測するのが最古。この時期神明造であったといえるかは不明である。

 

 ② 伊勢神宮の神明造の変遷

  ●680~1400年ごろ   【神明造であった可能性が有る】

   680年頃から神社様式が1400年ごろまで続いていた?(神明造?御饌殿と同じ形

   式の板倉造?)しかも700年遷宮35回を堅持、維持してきたとすれば素晴らしい!

   南北朝時代1350年の絵図に配置は違うが神明造と判断できる社殿が画かれている

   ので15世紀の式年遷宮中断以前は「神明造」であった可能性は有る。

   しかし、700年は長い、初期は異なる様式であった可能性も有る。

 

  ●1563~1636年頃   【寺院様式になっている】

   式年遷宮約100年の中断以降1563年から、寺院様式になり入母屋、朱塗の神仏習合
   の神社建
築になり17世紀まで続く。   

   神明造での遷宮再建の可能性は、1585天正13年第41回外宮・内宮式年遷宮となる

   が、この遷宮時期は桃山文化(1573–1603)花盛りの時期で、白木で簡素であっ

   たとは、考えにくい点もある。

   信長、豊臣秀吉が再建、遷宮の支援をしているのなら 派手な建築であった

   と・・・・ 出雲大社も、内部は朱塗 外部は黒漆の東照宮のような社殿であった。

   神宮側が豊臣を説得していれば良い? 

 

  ●1636~1800年ごろ   【再度、神明造に復古した】

   1636年再建 長野の仁科神明宮は神明造である点から17世紀には神明造であった

   と想定できる。

   1797年製作 寛政9年伊勢参宮名所図会(三重県総合博物館)は明解に神明造

   あり、1789年の寛政元年第51回式年遷宮に時点は配置は異なるが確証の有る時期

   である。

 

  ●1889年  現在と同じ形式配置になったのは、明治22年第56回式年遷宮である。

   今まで、伊勢神宮神明造は1300年営々と式年遷宮で伝承され建築されてきたと、

   信じていた人が大半であったと思うが、全く違い法隆寺の建立時期と同じ時代に創

   建され、寺院建築とは異なり、日本でもルネッサンス、文芸復興の活動が行われ 

   簡素な神社が、華美な神社にそして再度簡素にと・・・凄い建築の歴史です。

   又、この伊勢神宮の建築史は、日本の信仰の神道を基軸にした、天皇、武家、仏教

   の変遷を縮図にしたような感がするのですが?

   これだけ様式の異なる再建を繰り返したのでは、「文化財、世界遺産登録建築」で

   はない理由が解かりました。

   もっと、はっきりと皆さんに「関係者の皆さん」は広報すべきだ・・・と思います。 

 

 

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